1. 【1】日本のふつうの書きことばでは、漢字の地位が絶対的に高く、それに比べてカタカナは、代用的な役割しか引き受けていない。前者は高度に
抽象的な
概念の表記に不可欠とされるのに対し、後者はガチャガチャ、ドタバ夕など、できごとそのままをむき出しにした、いわば
幼稚園文字である。
2. 【2】ところが、カタカナが時に、この地位を逆転して、漢字のはるかに
及ばない
威信を帯びることがある。
欧米の学芸や学芸人を示すのに用いられるばあいそうであって、たとえば「フィロゾフィー」が「
哲学」より一段高い
威信をあらわすとき、かの
幼稚園文字が、一転して
欧米先進文化の光りかがやく代弁者の地位に
躍り出るのである。
3. 【3】しかしそうなるのは、もとが漢字ではない文字のあらわす音をカタカナが示そうとするばあいに限るのであって、もとにあるのが漢字であるとなれば、事態は一変してしまう。【4】もしその漢字の音をカタカナで写し、それで
押し通そうとするならば、思いもかけないほどの強い
抵抗に出会うであろう。たとえばその国で
一般にそう呼ばれているように「トン・シァオピン」と書くとどこか不安なのに、漢字で書いて、トー・ショーヘーと読めば、
普通の日本人は安心するだろう。【5】この日本式呼び名を聞いて、それが
誰だかわかる中国人はほとんど居ないにもかかわらずである。この安心感は、音はなぞりでしかないのに、漢字はオリジナルで不変だという安心感から来ている。しかしそのオリジナル性は、音のオリジナル性を全く
犠牲にした上に成りたった、無努力、横着のオリジナル性である。
4. 【6】こういう一面的なオリジナル性の上にできた二つの言語間の交流は、たいていは一方の側の、ときには
双方の側からの独善にもとづく、まがいものであるのが
普通だ。【7】なぜなら、人は話をすることによって交流するのが基本だからである。そうでない、文字だけの交流は、その文字エリートや、かれらの作った制度によって管理されたものだからである。
5. 【8】いま私がかりに
韓国に行って、そこの男ないしは女と仲良くなったとする。その仲良くなり方が学問的、職業的なものか、より人間的なものであるかは問わない。とにかくその人が自分を「カン」だと名のれば、私はその人の名を「カン」さんとして心の中に刻み∵つけ、終生変えることはないだろう。【9】しかしその人の名を学生
名簿とか新聞記事で「
姜」という文字によって知れば、その日本式読み方に従って「キョウ」と発音することになるだろう。それは紙の上のつき合いにとどまるからそれですむのであるが、もし
彼、もしくは
彼女を私が愛していれば、絶対に「カン」でなければならない。
6. 【0】文化の交流が一方的に統制されたものから
相互的で直接的なものへと移ると、ことばは紙から
抜け出て音になる。
韓国の人気歌手チョー・ヨンピルを愛するファンが、どうして
彼をその紙のことばの
趙容
弼に従って、チョー・ヨーヒツなどと呼びかえる気になれるだろうか。ヨーヒツは決してヨンピルではないのである。
福岡に居る
韓国人牧師さんが自分の呼び名のことで、もう十年来こういう
訴えを続けているのに、日本の裁判所はわかろうとしない。つまり、ことばには愛があるということを理解しないのである。
7.
8. 田中
克彦「国家語をこえて」から(一部直す)