長文集  12月4週  ○われわれ普通の凡俗にとっては  ru-12-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/09/04 15:13:17
 われわれ普通の凡俗にとっては、情報の節
食、ないしコントロールということはむずか
しい。実際「遠くへ行きたい」と言うので、
山に登ったりする若者たちも、テントの中で
、必ずラジオを聞いている。もちろん、山の
天気は変わりやすく、したがって、天気予報
を聞くためにラジオは必需品だ、と若者たち
は抗弁する。しかし、かれらのテントに近づ
いて耳を傾ければ、かれらは例外なくディス
ク・ジョッキーなどを聞いているのである。
いや、天気予報だっ て、昔の登山家は、自
分の過去の経験によって見通しを立てた。今
日の大衆登山は、その意味では情報登山とで
も呼ばれるのがふさわしい。
 どうしても情報の洪水の中で生きるより仕
方がないのであるとするならば、そこでわれ
われには、いったい何ができるのであろう 
か。
 一つの可能性は「体験」の世界を大切に見
直してみることであ る。人間は、みずから
の経験の中に、他人の経験を取り入れること
ができる。われわれの「想像力」は、他人の
どんな経験にも乗り移り、どこにでも自由に
動いてゆくことができるのだ。われわれのシ
ンボル的経験の世界は、いくらでも、広がっ
てゆく。しかし、シンボル的経験が広がる、
ということは、しばしば人間の現実と直接的
なかかわりをおろそかにさせる。もちろん、
「現実」というもの自体も、シンボル的であ
り、人間の精神機能を抜きにして考えること
はできない。しかし、たとえば、「花」とい
う言葉を使って、花について考えたり語った
りすることよりも、われわれが「花」という
言葉によって指し示している実在の植物を自
分の手に取って、そのにおいをかいでみる、
という行為のほうが、情報行動として、より
シンボル性が少なく、より実在の世界に近づ
いている、と言えるだろう。そうした、実在
の世界との距離をせばめることを、われわれ
はときどき試みる必要がありはしないか。(
中略)
 われわれの情報活動のなかでは、しばしば
イメージ、あるいは観念を尺度にして現実を
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評価する、という逆転した思考方法が定着し
てしまっている。「体験」という名の情報に
、より大きな価値を与える習慣をつけなけれ
ば、この逆転を正常な姿に引き戻すことはで
きない。たとえば、旅行案内に書かれている
ことと、自分がその現地で体験したこととの
間に食い違いがあるとすれば、その場合、ま
ちがってるのは、明らかに情報のほうなので
ある。自分の体験が∵尺度になって、その尺
度によって情報が評価されて、はじめて、人
間と環境とのかかわりは、正しい姿になるの
だ。それを逆転させているかぎり、われわれ
の情報活動は根なし草のごときものであり続
けるだろう。
 実際、こんなふうに情報圧力が激しくなっ
てくると、われわれは情報のとりこになり、
押し流されることになりかねない。自分の持
っている意見が、新聞などに載っている社会
の大多数の意見と食い違っているときには、
なんとなく不安になって、自分の意見を捨て
たくなったりもする。周りがみんな、そうだ
、そうだ、と叫んでいるときに、ひとりだけ
、ちがう、と発言することは、たいへんな勇
気のいる作業なのである。
 それを押し返すためには、それぞれの人間
がなにがしかの「体 験」を蓄積することこ
そが大事なのである。自分は、この目で確か
に見た、この耳で確かに聞いた、と確信をも
って言えることがら が、もっとたくさんあ
ってよい。もちろん、体験というものは、か
なり主観的なものであって、偏りもあるだろ
う。しかし、それぞれの人間の個性というの
は、結局のところ、そうした偏りのことなの
である。偏りを恐れて、個性的で確かな人生
など、構築しうるはずがないではないか。

(加藤秀俊「情報行動」)