長文集  11月1週  ★機会があって最近(感)  ru2-11-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】機会があって最近、電子愛玩犬「ア
イボ」というものの商品カタログを見た。一
言でいえば犬のかたちをしたロボットだが、
電子技術の粋をこらしてなかなか精密にでき
ているらしい。【2】複雑な動作をするのは
もちろん、内部に巧妙な信号装置が組みこま
れていて、人の態度に反応して喜怒哀楽の感
情表現もする。可愛がってやれば快活な性格
を身につけ、放置すると拗ねて元気を失うの
だという。【3】かつて流行した「たまごっ
ち」にも似ているが、金属ながら立体的な犬
の姿をしているだけに、これは一段と人の愛
玩心をそそりそうである。
 この新流行を椰楡(やゆ)的に見て、一通
りの文明批評をくだすことはいたってたやす
い。【4】たとえば、「たまごっち」の場合
もそうだったが、現代人はどうしてこう何か
を可愛がりたがるのかと疑ってもよい。そう
いえば若者のあいだでは「可愛い」という言
葉が氾濫して、何にでも無差別にあてはまる
褒め言葉として乱用されている。【5】おそ
らく現代人は寂しさに耐えかねているのだろ
うし、そのくせ強いもの、偉大なものには反
射的な反感を覚えるのだろう。いつも何かを
肌身の近くに置いて、しかもそれを上に立っ
て見下ろしていたいのにちがいない。【6】
世紀の変わり目の「寂しい群集」は自尊心が
強くなり、水平的な「他人志向」から垂直的
な愛玩志向に移りつつある、など意地悪も言
えそうである。
 【7】だが、そういう通り一遍の批評はお
いて、もう少しこの現象の深部をのぞきこむ
と、そこには意外にも、人間心理のかなり重
大な問題がかいま見られるようにも思われる
。ひょっとするとい ま、人間の「可愛い」
という感情に微妙な変質が生じ、それは現代
の生命感の変化に繋がっているかもしれない
のである。【8】一般に人間には対象のなか
に自分と同質の生命を感じとる能力があっ 
て、この共感によって対象の生命と一体化す
ることを感情移入という。そして犬や花であ
れ無生物の人形であれ、とくに自分より小さ
いものに感情を移入したときに、その対象を
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可愛いと感じるらし い。【9】そういう感
情移入が起こるのは対象の形や性質にもよる
が、それ以上に人間の心の側の積極的な能力
によっている。現に実際には生命のない人形
を可愛いと思うのは、明らかに特定の文化に
育てられた心の作用∵の結果だろう。
 【0】ところで、この心の作用はもともと
は「可愛さ」とは関係がなく、もっと広く物
神崇拝という伝統的な精神の文化のなかで働
いていた。巨大な岩石に畏敬を覚えたり、日
常の食物や道具を「もったいない」と感じる
のは、そういう文化の現れであろう。いうま
でもなく巨石も一粒の米も可愛いものではな
く、むしろ人が頭を垂れるべき対象であった
。それをいえば人形も古代では可愛さの対象
ではなく、恐れたり願をかけたりするまじな
いの道具であった。なまじ人間の形をしてい
るからややこしいが、人形は人間以上に大き
い生命の象徴であって、いわば物神崇拝の精
神を凝縮して具体的な形にしたようなもので
ある。
 これにたいして一匹(ぴき)の子犬に可愛
らしさを感じるのは、これまではもっと直接
的な生命の共感によるものと考えられてき 
た。大きさの点でも子犬は人間を越えた生命
の象徴ではなく、逆に人間よリ弱く小さな生
命の持ち主である。それを愛するのは物神崇
拝とは別の文化の現れであり、動物愛護と呼
ばれる精神が働いたと考えられてきた。いっ
たい動物愛護の感情がいつ生まれたか定かで
はないが、おそらく十七世紀ごろの近代的な
自然観の誕生と何らかの関係があるのだろう
。ともかくそれは一粒の米をもったいないと
思う感情とは異なり、むしろ人間の子供を可
愛がる感情に似ていると見なされてきた。そ
してたぶん人形が人に可愛がられる対象に変
わったのも、こうした文化の歴史的な変化と
並行していたはずである。
 だが、人形が初めて可愛い存在に変わった
とき、人には非常に強い想像力が必要とされ
たことだろう。形も単純だったし、もちろん
自分の力で動くものではなかった。犬や猫の
ような愛玩動物とは違って、向こうから人間
の感情移入の働きを誘発する存在ではなかっ
た。これには直接的な生命の共感が難しいだ
けに、人間はより多く努力して実在しない生
命を読みとる必要があった。いいかえれば人
形を可愛いと感じるためには、人は物神崇拝
の文化を失いながら、物神崇拝のために求め
られるような強い想像力を要求されていたは
ずである。やがて何百年もの歳月をかけて人
間は少しずつ人形を可愛がる感情を育て、同
時に可愛らしさをそそる人形の形状を生みだ
してきた。しかしそれでも、近代文化は人形
と愛玩動物のあい∵だにはっきりとした区別
を置く一方、どんな単純な人形にも生命を感
じとる感受性を残してきたのである。こう考
えると「アイボ」の出現はこの長い区別をか
き乱し、物神崇拝と動物愛護の文化の終わり
の始まりになるのかもしれない。まるで生き
た動物のように反応する機械にたいして、人
間にはそこに生命を読みとる強い想像力はい
らない。可愛らしさは対象のほうからかって
にやってきて、人間の受け身の心を直接にと
らえてくれる。これを続けて行けば感情移入
の能力は弱くなり、やがて動かない人形は可
愛いものではなくなるかもしれない。同時に
愛玩動物の可愛らしさも生物の特権的な特徴
ではなくなり、少なくとも感情の次元で動物
と機械との区別が弱くなることが考えられる
のである。

(山崎()正和「世紀を読む」より)