長文 11.1週
1. 【1】機会があって最近、電子愛玩あいがん犬「アイボ」というものの商品カタログを見た。一言でいえば犬のかたちをしたロボットだが、電子技術のいきをこらしてなかなか精密にできているらしい。【2】複雑な動作をするのはもちろん、内部に巧妙こうみょうな信号装置が組みこまれていて、人の態度に反応して喜怒哀楽きどあいらくの感情表現もする。可愛がってやれば快活な性格を身につけ、放置すると拗ねす て元気を失うのだという。【3】かつて流行した「たまごっち」にも似ているが、金属ながら立体的な犬の姿をしているだけに、これは一段と人の愛玩あいがん心をそそりそうである。
2. この新流行を椰楡やゆ的に見て、一通りの文明批評をくだすことはいたってたやすい。【4】たとえば、「たまごっち」の場合もそうだったが、現代人はどうしてこう何かを可愛がりたがるのかと疑ってもよい。そういえば若者のあいだでは「可愛い」という言葉が氾濫はんらんして、何にでも無差別にあてはまる褒めほ 言葉として乱用されている。【5】おそらく現代人は寂しさび さに耐えた かねているのだろうし、そのくせ強いもの、偉大いだいなものには反射的な反感を覚えるのだろう。いつも何かを肌身はだみの近くに置いて、しかもそれを上に立って見下ろしていたいのにちがいない。【6】世紀の変わり目の「寂しいさび  群集」は自尊心が強くなり、水平的な「他人志向」から垂直的な愛玩あいがん志向に移りつつある、など意地悪も言えそうである。
3. 【7】だが、そういう通り一遍いっぺんの批評はおいて、もう少しこの現象の深部をのぞきこむと、そこには意外にも、人間心理のかなり重大な問題がかいま見られるようにも思われる。ひょっとするといま、人間の「可愛い」という感情に微妙びみょうな変質が生じ、それは現代の生命感の変化に繋がっつな  ているかもしれないのである。【8】一般いっぱんに人間には対象のなかに自分と同質の生命を感じとる能力があって、この共感によって対象の生命と一体化することを感情移入という。そして犬や花であれ無生物の人形であれ、とくに自分より小さいものに感情を移入したときに、その対象を可愛いと感じるらしい。【9】そういう感情移入が起こるのは対象の形や性質にもよるが、それ以上に人間の心の側の積極的な能力によっている。現に実際には生命のない人形を可愛いと思うのは、明らかに特定の文化に育てられた心の作用∵の結果だろう。
4. 【0】ところで、この心の作用はもともとは「可愛さ」とは関係がなく、もっと広く物神崇拝すうはいという伝統的な精神の文化のなかで働いていた。巨大きょだいな岩石に畏敬いけいを覚えたり、日常の食物や道具を「もったいない」と感じるのは、そういう文化の現れであろう。いうまでもなく石も一つぶの米も可愛いものではなく、むしろ人が頭を垂れるべき対象であった。それをいえば人形も古代では可愛さの対象ではなく、恐れおそ たり願をかけたりするまじないの道具であった。なまじ人間の形をしているからややこしいが、人形は人間以上に大きい生命の象徴しょうちょうであって、いわば物神崇拝すうはいの精神を凝縮ぎょうしゅくして具体的な形にしたようなものである。
5. これにたいして一ぴきの子犬に可愛らしさを感じるのは、これまではもっと直接的な生命の共感によるものと考えられてきた。大きさの点でも子犬は人間を越えこ た生命の象徴しょうちょうではなく、逆に人間よリ弱く小さな生命の持ち主である。それを愛するのは物神崇拝すうはいとは別の文化の現れであり、動物愛護と呼ばれる精神が働いたと考えられてきた。いったい動物愛護の感情がいつ生まれたか定かではないが、おそらく十七世紀ごろの近代的な自然観の誕生と何らかの関係があるのだろう。ともかくそれは一つぶの米をもったいないと思う感情とは異なり、むしろ人間の子供を可愛がる感情に似ていると見なされてきた。そしてたぶん人形が人に可愛がられる対象に変わったのも、こうした文化の歴史的な変化と並行していたはずである。
6. だが、人形が初めて可愛い存在に変わったとき、人には非常に強い想像力が必要とされたことだろう。形も単純だったし、もちろん自分の力で動くものではなかった。犬やねこのような愛玩あいがん動物とは違っちが て、向こうから人間の感情移入の働きを誘発ゆうはつする存在ではなかった。これには直接的な生命の共感が難しいだけに、人間はより多く努力して実在しない生命を読みとる必要があった。いいかえれば人形を可愛いと感じるためには、人は物神崇拝すうはいの文化を失いながら、物神崇拝すうはいのために求められるような強い想像力を要求されていたはずである。やがて何百年もの歳月さいげつをかけて人間は少しずつ人形を可愛がる感情を育て、同時に可愛らしさをそそる人形の形状を生みだしてきた。しかしそれでも、近代文化は人形と愛玩あいがん動物のあい∵だにはっきりとした区別を置く一方、どんな単純な人形にも生命を感じとる感受性を残してきたのである。こう考えると「アイボ」の出現はこの長い区別をかき乱し、物神崇拝すうはいと動物愛護の文化の終わりの始まりになるのかもしれない。まるで生きた動物のように反応する機械にたいして、人間にはそこに生命を読みとる強い想像力はいらない。可愛らしさは対象のほうからかってにやってきて、人間の受け身の心を直接にとらえてくれる。これを続けて行けば感情移入の能力は弱くなり、やがて動かない人形は可愛いものではなくなるかもしれない。同時に愛玩あいがん動物の可愛らしさも生物の特権的な特徴とくちょうではなくなり、少なくとも感情の次元で動物と機械との区別が弱くなることが考えられるのである。

7.(山崎正和「世紀を読む」より)