長文集  12月3週  ★挨拶のことばを(感)  ru2-12-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】挨拶のことばを仕込まれた子どもく
らい、気持ちの悪いものはない。かれらが「
おはようございます」とか「ありがとうござ
いました」とかいうときには、まず、ほんと
うの心はこもっていない。ただ、そういわね
ばならぬと強いられていっているだけだ。【
2】当然、紋切り型の口調になるから、なん
とも子どもには調和しない。うわべだけの形
式的なことばは、虚偽と偽善と責任回避をこ
ととするおとなにはふさわしいが、無邪気で
打算とごまかしの下手な子どもには似つかわ
しくない。【3】その子どもが、おとなの挨
拶をするのだから、不気味というほかはない
。そのことばを発するときの子どもの心情を
思えば、なおさら苦しくなってくる。
 子どもの挨拶は、「おはよう」「ありがと
う」で十分だ。【4】顔を合わせたとき、い
きなり「おばちゃん」とか「ひろし」とか呼
びかけて話しだしてもよいし、別れるときは
「じゃね」でも「ばいばい」でもかまわない
。要は、そのときどきの相手に対する気持ち
がもっともよく伝えられる、その子に合った
方法を選ばせること だ。【5】だから、か
ならずしも、挨拶はことばにならなければな
らぬ必要はない。わたしの診察室でも、やっ
て来た子どもの大半 は、目やしぐさで親愛
の情をみせてくれる。ウインクをしたり、首
を傾けたり、口をとがらせたり、手を挙げた
り、からだ中でずっこけたようすをしたりす
る。【6】なかには、あかんべえをしたり、
いきなり傍らにやってきてつばを引っかけた
り、わたしの頭をぽかりとやったりもする。
】それが、ひとつも恨みではなく、熱烈なエ
ールであり、優れた挨拶になっているのだ。
 【7】こうした子どもたちもちゃんと挨拶
ができるようになるにつれ、しだいに親愛の
情が薄れ、距離が遠のいていくように感ぜら
れる。あるいは、かれらには情は残っている
のだが、それをストレートな方法で表現しえ
なくなってくるのかも知れぬ。【8】いずれ
にしても、ここにもことばの持つさびしさが
ある。
 ことばの豊富さは、また、ことばの上だけ
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での整合性を生む。経験で確かめ立証するよ
りも、ことばの上でのつじつまを合わせるこ
とによって、他人だけでなく自分をも納得さ
せようとする。【9】おとなの大切にしてい
る物をこわすなど、失策をしたときに、「ネ
コがした」とか「友だちがした」といい、さ
らに追及されれば「だっ∵て、ネコがいたん
だもん」とか「あの子は、この前もこわした
じゃないか」などと弁明する。【0】これが
「うそをつく」という悪に決めつけられるの
だが、ことばの上での「だれが」や「どうし
て」という性急な追及が、子どものうそを作
りあげてしまうのだ。子どもにとっては、し
でかした事実にもともと否定も肯定もない。
ただそういう事実が起きただけだ。自分にも
まわりにもことばさえなければ、それですむ
。ところが、そこに論理性と価値観が強力に
立ち現われると、一定度のことばの操作を覚
えた子は、その土俵にあがらざるをえぬ。結
果は明らかではあるが、懲りずにことばの土
俵にはまり込み、ますます事実からの逃避が
巧妙となる。(中略)
 ことばは、その抽象性がしっかりした概念
を形成し、実体との統合と論理的実証が可能
となったとき、はじめて有用性をもつ。子ど
ものことばがそのようになるまでは、あまり
に早くことばの世界に入れないのがよい。多
くのおとなに囲まれ、ことばにあふれた環境
で育つ子どもは不幸である。きょうだいがな
く、両親と祖父母、そのうえにおじ、おばや
お手伝いさんなどがいて、いつもことばでか
まわれていたら、実のない操り人形ができて
しまう。おとなの社交の場に、つねに子ども
を引き連れるのも、ことばを形式的にしか覚
えさせない。いわんや、お話レコードとかテ
レビのお話教室を聴かせて、上手に上品にし
ゃべらせようと目論むなどは、ことばの形成
の筋道を誤るものだ。
 ことばの形成にとって大切なのは、子ども
自身による体験だ。子どもが主体的に、多く
の事物や人間と接触し、それらに対する概念
をきっちりと持つことが先決だ。そのうえに
、ことばの持つ調べやリズム、イントネーシ
ョンなどの感覚的面白さが加わったとき、子
どもはそのことばをわがものにする。この際
、ことばを発する人間の情念も、大きくもの
をいうだろう。心がこもっていなかったり、
うそいつわりがあったり、論理をねじまげた
りしていれば、それらのことばは、受けつけ
られない。もし受けつけられれば、方便をこ
しらえるだけだ。真実を、心をこめて伝えよ
うとするとき、子どもはそのことばを正しく
身につける。

(毛利子来「新エミール」より)