a 長文 10.1週 ru2
 コミュニケーションとは、「言葉抜きぬ の理解」ではない。あくまで「言葉を経た理解」である。改めてこういわれると、「当たり前のことじゃないか」という気になるかもしれない。しかし実際には、このあたりを誤解し、「フィーリングで自分のことを一瞬いっしゅんにしてわかってもらうことこそがコミュニケーション」と思っている人が少なくない。また、たとえ言葉を介しかい ての理解を試みたとしても、それが少しでもすれ違い  ちが を起こすと、「あ、嫌わきら れた」とその時点でコミュニケーションをあきらめる人も多い。
 では、なぜ彼らかれ は「コミュニケーションは言葉抜きぬ の直観的な理解」と思ってしまうのだろう。その理由の一つに、最近の社会を覆うおお 「感情優位」の思考パターンがある。これは世代にかぎらないものだが、物事を決めるとき、客観的・冷静な判断ができず、「かわいい」「かわいそう」「なんとなく好き」といった理由で決定する傾向けいこうがあるのだ。さらにこれは、日本だけの問題でもなく、国際的な世論調査でも、「分析ぶんせき理屈りくつ」より「感情」が人びとの意識を決定していると指摘してきされている。このように、社会が「感情優位」で動くようになっている昨今だが、人びとがもっとも気にしているのは、じつは「私はこれが好きか、嫌いきら か」ではなく、「周りの人たちはこれが好きか、嫌いきら か」なのである。
 こう考えると、「感情優位の社会」とはいえ、そこで優先されている「感情」は、自分自身のものですらなく、周りの人や世間の人のそれであることがわかってくる。「みんなはどう感じているのか?」「世間の風向きは変わっていないか?」ということに戦々恐々せんせんきょうきょうとしながら、私たちは日々の生活を送っているのである。
 この「腹の探り合い」が、従来、考えられていたコミュニケーションからほど遠いものであることは、いうまでもない。しかし、この「感情の探り合い」においては、はっきり口にされたり、文字に書き表されたりする言葉より、相手の表情、文書の文体、あるいは絵文字などの記号の多少などがより重要な手がかりとなる。
 相手が「私もそう思います」と口にしながらも、あまりうれしそうでない表情をしたら、「あ、この人は気に入らないな」と、表情のほうをメッセージとして重要視する。
 「それはいいですね」とメールに書かれていても、そのあとに
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「!」マークがなければ、「ああ、それほど喜んでいないんだ」と否定的に受け取る。コミュニケーションで何より重要であったはずの「言葉」が、信頼しんらい性を失いつつあるのだ。
 そうはいっても、「言葉」を信頼しんらいせずに、相手が発する非言語的なサインや記号に過剰かじょうに注意を払いはら 、「この人はいまどう感じているのだろう?」と当てようとするゲームがコミュニケーションのあるべき姿だとは、とても思えない。たとえ、違っちが て対立があったとしても、あくまで感情ではなく「言葉」によって意思や思考を伝え、ギリギリまで理屈りくつで理解しようとする、そんなコミュニケーションの基本をもう一度、思い出してみるべきだ。
 その際、必要なのは、「私はこう感じる」、さらには「私はこう考える」という自分の意思や意見をはっきりさせることであるのは、いうまでもない。そして「言葉」「自分」「未来や社会」を、ガッチリとでなくていいから、それとなく信頼しんらいしてみる。コミュニケーションはそこから始まるのではないだろうか。

 (香山リカ『貧乏びんぼうクジ世代』より)
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a 長文 10.2週 ru2
 私は、長いこと、現代人の「生と死」や「いのち」の問題を、人間一人ひとりが生きている現場、あるいは死にゆく現場で、わが身の問題として見つめ考えてきたものだから、そういう一人の人間の心のなかに投影とうえいされた時代の特質や変化の芽を読み取るほうに、頭が動いてしまう。一人の人間の心に芽生えた小さなことであっても、生身の人間が生きていくうえで重要な意味を持っていたり、時代の変化の兆しを示すものであったりすることが少なくない。「小さな動きの大きな意味」とでも言おうか。
 最近、絵本に関するフォーラムに招かれて参加したら、司会者の児童文学者が、ある雑誌に寄せた絵本についての私のエッセイを取り上げて、『フランダースの犬』などというセンチメンタルな作品を柳田やなぎださんが評価し、その作品に新しい意味を見出したと書いているのは危ないすすめ方だ、と批判した。どうやら、子どもの本というのは、読んで楽しいもの、明るいもの、ファンタジーが広がるものでなければならないと考えているらしい。『フランダースの犬』のあらすじは、こうだ。画家になりたかった主人公の少年ネルロは、貧しさゆえに、これでもかこれでもかと不運な目にあう。最後は住む家もなくなって、吹雪ふぶきの中をさまよい歩き、アントワープの大聖堂に入りこんで飢えう と寒さで死んでしまう。それでもネルロは、死ぬ直前に、大聖堂に掲げかか てある、自分もあのようになりたいと思っていた尊敬する巨匠きょしょうルーベンスの壁画へきがを、一瞬いっしゅん吹雪ふぶきがやんで雲の切れ間からステンドグラス越しご 差し込んさ こ だ月の光によって見ることができた時、「とうとう見たんだ。神様、十分でございます」と言った。わずか十五年の生涯しょうがいだった。
 私は小学校五年から六年にかけて、この物語を何回も繰り返しく かえ 読み、その度になみだを流した。終戦直後の貧困の時代だったことも、この物語への感情移入の要素になったのだろう。その『フランダースの犬』を人生後半になって五十年ぶりに読み直したところ、この物語は、ただかわいそうというのでなく、つらいことや悲しいことの多い、ままならない人生をどう受容するか、そんななかにあって逆境を恨むうら のでなく、肯定こうてい的な意味をどう見出すかについて考えさせてくれるという読み方もできることに気づき、そのことをエッセイに書いたのだった。
 しかし、先の児童文学者は、この物語をセンチメンタルの一語で一刀両断に切り捨てたのだ。
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 私は戸惑っとまど た。少年時代に他者の不幸に悲しみを感じなみだを流すという経験をするのを排除はいじょして、「明るく、楽しく、強く」という価値観だけを押しつけるお    と、その子の感性も感情生活も乾いかわ たものになってしまうと、私は考えているからだ。
 そこで気づいたのは、日本の高度経済成長期以降の歴史は、大人の世界でも子どもの世界でも、「明るく、楽しく、強く」「泣くな、頑張れがんば 」ばかりが強調され、「悲しみ」あるいは「悲しみのなみだ」を排除はいじょ封印ふういんしてきた歴史ではなかったか、ということだった。
 悲しみの感情やなみだは、実は、自らの心を耕し、他者への理解を深め、明日を生きるエネルギー源となるものなのだと、私は様々な出会いのなかで感じる。私と同じ世代のある知人は、小学生時代に『フランダースの犬』に何度となくなみだを流したことが、やがて養護学校の教諭きょうゆとなり、子どもたちの教育に情熱を注ぐようになる原点となったという。
 愛する人や家族を病気や事故で失って悲嘆ひたんにくれる人々が、悲しみを分かち合うための「生と死を考える会」を東京でささやかに発足させたのは、一九八〇年代はじめのこと。九〇年代になると、全国各地に同じような会が続々と生まれ、二〇〇〇年には百を超えるこ  までになった。それは、封印ふういんされてきた「悲しみ」の感情を解放し、「悲しみ」をネガティブ(否定的)にでなくむしろ生きるかてにしようとする新しい市民意識の登場と言うことができる。そして、その市民運動は、終末期医療いりょうのあり方や人々の死生観に影響えいきょう与えあた つつある。
 仏教の慈悲じひの思想は「悲」の心の大切さを説いた。二十一世紀を人間と社会の真の成熟を目指す世紀にするには、「悲しみ」の感情を教育の場でも社会的にも正当な位置に復権させることが必要だと、私は考えている。

柳田やなぎだ邦男くにお「『言葉の力、生きる力』―「悲しみ」の復権―」より)
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a 長文 10.3週 ru2
 自分の脳の「好み」を知ってそれを上手に活用することが「生き方探し」の勉強法の究極のコツになります。ところが、「生き方探し」に迷っている人や失敗する人は、たいてい「自分の脳」の「好み」ではなく「他人の脳」の「好み」を自分の脳の好みだと錯覚さっかくしています。だから、勘違いかんちが しないことが第一のコツなのです。どんな仕事であれ生き生きと充実じゅうじつ感をもって打ち込んう こ でいる人は、必ず他人の脳ではなく自分の脳の好むことを選択せんたくしています。
 しかし、自分の脳の「好み」に合わせているだけでは不十分です。「好み」は「偏りかたよ 」でもあるからです。だから、「好みに合わせてはまる」ことと併せあわ て、あえて「好み」に合わないことや「食わず嫌いく  ぎら 」だったことにチャレンジしてみることです。これが第二のコツです。異なる視点からの情報が思考のはばを広げ、発想をより豊かにしてくれます。
 おもしろいことに、それまで「食わず嫌いく  ぎら 」だったことのほうがじつは自分の脳の「好み」にぴったりだった、ということも珍しくめずら  ありません。私は英文学の勉強をしていた人が心理学で成功したケースを知っています。
 これこそ自分の脳の「好み」だと考えてきたものより「食わず嫌いく  ぎら 」だったものがじつは本当の好みだった、ということがあるくらい、自分の脳の「好み」を探すのはむずかしいものです。だから、ときに自分の脳の「好み」を疑ってみる必要もあるわけです。そのために、あえて「好み」に合わないことや「食わず嫌いく  ぎら 」にチャレンジしてみることが第二のコツになるのです。
 それにいくら好みに合ったところで、人間の脳は「飽きあ 」という問題も抱えかか ています。死ぬまではまり続けるという幸せな人もいますが、そうでない人もたくさんいるのは、いくら好みでも「飽きあ 」があるからです。この「飽きあ 」の問題に対処するためにも、今の自分の脳の「好み」とは別の「好み」を開拓かいたくする努力を怠らおこた ないほうがよいでしょう。
 そして「生き方探し」の第三のコツは、人と人との対面するコミ
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ュニケーションを欠かさないということです。人の脳はそれぞれ異なった偏りかたよ をもっています。「好みの違いちが 」もその一つです。そして人は互いたが の脳の偏りかたよ 方が違うちが からこそ、互いにたが  理解しあうことが難しいのです。だからこそ、コミュニケーションが大切なのです。他者や異文化の視点が加わることで、自分の考え方の偏りかたよ が自覚され相対化されるからです。
 それゆえ、「他者との語り合いの場」に参加することが「生き方探し」の勉強法の第三のコツになります。学校でもサークルでも生涯しょうがい学習機関でも異業種間の勉強会でもかまいません。そのような場で語り合うことでしか得られないものがあります。それはあなたの「生き方探し」の強い力となってくれるでしょう。人と人とのコミュニケーションはまさに生きた勉強そのものなのです。

(中山 治「生き方探しの勉強法」より)
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a 長文 10.4週 ru2
 人間にはさまざまな人がいて、その人なりにいろいろなことをやっている。それをかつての子どもたちは毎日毎日、目のあたりにしていたはずだ。そうすると、ああ、あんなこともするのか、こういうこともするのか、こういうことをしたいときにはこうすればいい、ああいうことをするとダメなんだな、といったことを次々に経験する。おかげで非常に多くのことを学習できたはずであるし、それは一人一人の子どもにしてみれば、興味のつきないことでもあったはずだ。
 他人とのつきあい方にしても、決して一様のものではない。この人とは、こうつきあう。あの人とは、別のつきあい方をする。かつてはそれをちゃんと学ぶことができたはずだ。ところが現在は、それがほとんどできなくなってしまった。要するに、家族が家族ごとに独立して生きていくことになったので、そういうふうになってしまったのである。
 集団生活を学ぶために、学校があるじゃないかという人もいるだろう。たしかに、学校に行けば、たくさんの子どもたちがいる。けれども残念ながら、教育の効果をあげるために、今の学校は学級をつくり、そこに同じ年齢ねんれいの子どもだけを集めるようにしている。だから学校に行くと同じ年の子どもの姿しか目に入らない。もう少し年上になったら、どういうふうになるのだろうということを見る機会はほとんどない。もっと小さい弟、妹ぐらいの子どもたちを見ることによって、少し前まで自分がどんなふうにしていたのかを知ることもない。もう二、三年経ったら自分は、どんなふうにしたらよいのか、ということを学ぶためには、兄さん姉さんが必要である。だが、兄弟がいない子も多い。そうすると、ほかの世代から学習することもできない。
 結果的にどういうことになったかといえば、かつてみんなが自然に学んでいたようなことが、ほとんど学習できなくなってしまったのである。つまり、石器時代の人々がごく自然な形で具体化していた遺伝的プログラムを、文明の進んだ現在ではほとんど具体化できなくなっているということなのだ。これは大変大きな問題ではないだろうか。
 さらに皮肉なことに、昔と違っちが て今はいろいろなものが発明され、物事が複雑になっている。学ばねばならないことが増えているわけだ。その一方でほかの人々を見る機会は、どんどんなくなってきている。ということは、どう生きていくかを学ぶことがどんどん困難になりつつあるということなのである。
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 また、現在では家族でしつけをしたり、行儀ぎょうぎを教えたりするのが当たり前だと思われているが、家庭というのは、先述したようにずれた男とずれた女と、ごく数の少ない子どもしかいない、そういう社会である。その中でいったい何が学べるのか。ずれた男一人から、ほかの男たちがしていることを全部知ることは不可能である。女についても同じだ。
 これが現状なのである。学習の遺伝的プログラムを具体化するためには、きわめて都合の悪い状態だとしか思えないではないか。
 人間はたくさんの人がいる中で育っていくべきものであり、多様な人々から、いろいろなことを学び取っていくようにできている動物なのに、現代はそれができない社会になってしまっている。これは非常に困ったことだというほかはない。

 (日高敏隆の文章による)
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a 長文 11.1週 ru2
 機会があって最近、電子愛玩あいがん犬「アイボ」というものの商品カタログを見た。一言でいえば犬のかたちをしたロボットだが、電子技術のいきをこらしてなかなか精密にできているらしい。複雑な動作をするのはもちろん、内部に巧妙こうみょうな信号装置が組みこまれていて、人の態度に反応して喜怒哀楽きどあいらくの感情表現もする。可愛がってやれば快活な性格を身につけ、放置すると拗ねす て元気を失うのだという。かつて流行した「たまごっち」にも似ているが、金属ながら立体的な犬の姿をしているだけに、これは一段と人の愛玩あいがん心をそそりそうである。
 この新流行を椰楡やゆ的に見て、一通りの文明批評をくだすことはいたってたやすい。たとえば、「たまごっち」の場合もそうだったが、現代人はどうしてこう何かを可愛がりたがるのかと疑ってもよい。そういえば若者のあいだでは「可愛い」という言葉が氾濫はんらんして、何にでも無差別にあてはまる褒めほ 言葉として乱用されている。おそらく現代人は寂しさび さに耐えた かねているのだろうし、そのくせ強いもの、偉大いだいなものには反射的な反感を覚えるのだろう。いつも何かを肌身はだみの近くに置いて、しかもそれを上に立って見下ろしていたいのにちがいない。世紀の変わり目の「寂しいさび  群集」は自尊心が強くなり、水平的な「他人志向」から垂直的な愛玩あいがん志向に移りつつある、など意地悪も言えそうである。
 だが、そういう通り一遍いっぺんの批評はおいて、もう少しこの現象の深部をのぞきこむと、そこには意外にも、人間心理のかなり重大な問題がかいま見られるようにも思われる。ひょっとするといま、人間の「可愛い」という感情に微妙びみょうな変質が生じ、それは現代の生命感の変化に繋がっつな  ているかもしれないのである。一般いっぱんに人間には対象のなかに自分と同質の生命を感じとる能力があって、この共感によって対象の生命と一体化することを感情移入という。そして犬や花であれ無生物の人形であれ、とくに自分より小さいものに感情を移入したときに、その対象を可愛いと感じるらしい。そういう感情移入が起こるのは対象の形や性質にもよるが、それ以上に人間の心の側の積極的な能力によっている。現に実際には生命のない人形を可愛いと思うのは、明らかに特定の文化に育てられた心の作用
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の結果だろう。
 ところで、この心の作用はもともとは「可愛さ」とは関係がなく、もっと広く物神崇拝すうはいという伝統的な精神の文化のなかで働いていた。巨大きょだいな岩石に畏敬いけいを覚えたり、日常の食物や道具を「もったいない」と感じるのは、そういう文化の現れであろう。いうまでもなく石も一つぶの米も可愛いものではなく、むしろ人が頭を垂れるべき対象であった。それをいえば人形も古代では可愛さの対象ではなく、恐れおそ たり願をかけたりするまじないの道具であった。なまじ人間の形をしているからややこしいが、人形は人間以上に大きい生命の象徴しょうちょうであって、いわば物神崇拝すうはいの精神を凝縮ぎょうしゅくして具体的な形にしたようなものである。
 これにたいして一ぴきの子犬に可愛らしさを感じるのは、これまではもっと直接的な生命の共感によるものと考えられてきた。大きさの点でも子犬は人間を越えこ た生命の象徴しょうちょうではなく、逆に人間よリ弱く小さな生命の持ち主である。それを愛するのは物神崇拝すうはいとは別の文化の現れであり、動物愛護と呼ばれる精神が働いたと考えられてきた。いったい動物愛護の感情がいつ生まれたか定かではないが、おそらく十七世紀ごろの近代的な自然観の誕生と何らかの関係があるのだろう。ともかくそれは一つぶの米をもったいないと思う感情とは異なり、むしろ人間の子供を可愛がる感情に似ていると見なされてきた。そしてたぶん人形が人に可愛がられる対象に変わったのも、こうした文化の歴史的な変化と並行していたはずである。
 だが、人形が初めて可愛い存在に変わったとき、人には非常に強い想像力が必要とされたことだろう。形も単純だったし、もちろん自分の力で動くものではなかった。犬やねこのような愛玩あいがん動物とは違っちが て、向こうから人間の感情移入の働きを誘発ゆうはつする存在ではなかった。これには直接的な生命の共感が難しいだけに、人間はより多く努力して実在しない生命を読みとる必要があった。いいかえれば人形を可愛いと感じるためには、人は物神崇拝すうはいの文化を失いながら、物神崇拝すうはいのために求められるような強い想像力を要求されていたはずである。やがて何百年もの歳月さいげつをかけて人間は少しずつ人形を可愛がる感情を育て、同時に可愛らしさをそそる人形の形状を生みだしてきた。しかしそれでも、近代文化は人形と愛玩あいがん動物のあい
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長文 11.1週 ru2のつづき
だにはっきりとした区別を置く一方、どんな単純な人形にも生命を感じとる感受性を残してきたのである。こう考えると「アイボ」の出現はこの長い区別をかき乱し、物神崇拝すうはいと動物愛護の文化の終わりの始まりになるのかもしれない。まるで生きた動物のように反応する機械にたいして、人間にはそこに生命を読みとる強い想像力はいらない。可愛らしさは対象のほうからかってにやってきて、人間の受け身の心を直接にとらえてくれる。これを続けて行けば感情移入の能力は弱くなり、やがて動かない人形は可愛いものではなくなるかもしれない。同時に愛玩あいがん動物の可愛らしさも生物の特権的な特徴とくちょうではなくなり、少なくとも感情の次元で動物と機械との区別が弱くなることが考えられるのである。

山崎正和「世紀を読む」より)
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a 長文 11.2週 ru2
 「木々のきらめき」「夕焼けの美しさ」「人のやさしさ」などの出逢いであ に感じ、驚いおどろ たことはすばらしい経験として、書かれ理解された知識と違っちが て、深く心の中に生きつづける知恵ちえである。これらとじかに言葉でなく心の奥底おくそこでふれるとき、生きている快感、たのしさ、甘美かんびさに陶酔とうすいする。そして何物にもかえがたい生への愛着がわく、今一瞬いっしゅんが永遠の時であり、求めていた本当の自分に出会ったような境地がそこにはある。
 重要なのは「感じ」ている自分に自分の「こと」としての状況じょうきょうが重ねられることである。悲しいとき、楽しいとき、疲れつか て帰路につくとき、絶望に打ちひしがれたとき、といったその時々の「こと」の中で驚きおどろ 、感じているわけで、これに「いつ」といった流れの年齢ねんれい、月日がかかわってくる。紅葉の美しさや花見にしても、月日を重ねるにしたがって、「こと」と「感じ」が連結されて心の深くに生きつづけ、「層」をなしていく。驚いおどろ て生きてきたことが重ねられて星霜せいそうが生まれ、層となり、木々のきらめきの中に人生の縮図を一瞬いっしゅんにして見ることができる。その一瞬いっしゅんの厚み、深みの連続が「生」を充実じゅうじつさせてゆく。
 旅のよさは、日常的な俗世ぞくせい、雑念を取り払っと はら た状態で、はじめて出会うキラキラした未知のものにてらし、そこを通り抜けとお ぬ 、身を投じて「驚きおどろ 」を身体化させてくれるところにある。「感じ」の中で生きる契機けいきを多く持つことができる「場」を与えあた てくれる。心を日常と異なった「きょう」とでもいえる状態におきすべてのすばらしさと深く出会うのである。まだ見ぬ自分の中に宿る自分との出会いである。上田秋成が「事触れことぶ きょうひあるく」といった芭蕉ばしょうや、その姿を見ると人々は笑わずにいられない一休の風狂ふうきょうは「反習俗しゅうぞくでありながら、日常生活の根本を返照するように働く。風狂ふうきょうには、反ぞく奇行きこう反抗はんこう的行動と裏腹に、烈しいはげ  悲哀ひあいや笑いの感情が共存するが、それらの感情は新しい自己認識として働いている。」
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奇行きこうであり、大笑であり、反ぞくである。と同時に、風狂ふうきょう奇行きこうでなく、大笑でなく、反ぞくではない。その根底に『なんじ諸人、各各に努力せよ』がなくてはならない。生を清浄せいじょうなものとしてあらしめようとする意志がなくてはならない。」(岡松おかまつ和夫「風狂ふうきょう『美の構造』」)と言え、生きることの意味を問いなおしたといえる。
 季節がめぐり循環じゅんかんするように、旅は、建物、山、川、町並み、といったそこに変わらずに「ある」ものや人々とその「時の心」で出会う。次に訪れる時、その時の自分が重ねてよみがえってくる。自らの変容がわかる。土地に街に青春が刻まれる。学生時代を過ごした土地や留学先、旅行先を訪れると青春の息吹いぶきがよみがえってくる。人生は一度であるから、「感じ」の豊かさの中で生きなければならない。日記は、土地や山川や木々さらに建物や道具、そして食べ物や人とかかわった「こと」として刻むことができる。再び、その場所や人に出会うとそのときの「感じ」がよみがえってくる。このような日記の書きかたは「驚きおどろ 」の重ねられた層なのである。さらに書物などの中にもできる。その時々の感想や感激したところを書きしるしたり、読みながら書物を媒介ばいかいにして自らを見つめる場合、その心を記すことは年代ごとに何回読んでも積み重ねられて残り、その時々が新鮮しんせんによみがえってくる。(中略)
 旅で感じた心によって、日常にあっても、驚きおどろ 狩猟しゅりょうする旅人であることが人生をどんなにすばらしく充実じゅうじつできるかわかる。一日一日厚みが増し、すべての時がその一瞬いっしゅんに集まり、不朽ふきゅうとなる。年齢ねんれいを重ねるごとに「一日一日が楽しくなる」ことは一回一回の感動を重ねて生きてきた人には必定である。
 旅に出て味わい、旅人として生きることは、外に出て自分を見直し、自らのいる場所を体で確かめることである。自分と異なるものと出会い豊かになり、自然や人間のおくにひそんでいる見えないものを見、自分の「生のかたち」として表現し、創造していかなければならない。

杉山明博『造る文化・使う文化』より)
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a 長文 11.3週 ru2
 まねる力は、生きる力の基本だ。おおかみ少女として有名なアマラとカマラが、おおかみの中で生きながらえたのは、おおかみの生活様式をまねる力があったお陰 かげである。アマラとカマラは発見された当時、おおかみのように四つんばいでうなり声をあげていた。物の食べ方も人間というよりはおおかみのようであったという。こうしたおおかみ少女の様子には人間らしさが全く感じられないと指摘してきする人もいるだろうが、私は人間とおおかみという種の違いちが 乗り越えの こ て、相手の生活様式をまねして身につけることができた学習能力に、むしろ人間の能力の器の大きさを感じる。さまざまな異文化社会で生き抜くい ぬ 力が最近よく強調されているが、おおかみの社会でさえも、時に人間は生きぬくことができるのである。そして、その生きる力を支えているのが、まねる力である。
 この場合のまねる力は、明晰めいせきな反省的思考によって捉えとら なおされたものではもちろんない。むしろ、身体と身体のあいだの想像力、すなわち間身体的想像力とでもいうべき力であろう。アニメの『クレヨンしんちゃん』を見た子どもがしんちゃんの独特な口調をまねてしまうので、番組を見せないようにした親もいたようだ。大人でも、広島弁が飛びかう映画『仁義なき戦い』を見終わったときには、すっかり「わしは……じゃけん」といったしゃべり方が移ってしまっている。そうした無意識のうちに身体から身体へと移ってしまうという現象は、人間の適応力の基本となるものだ。
 コンドンという研究者によれば、私たちは会話の最中に、相手の発話に応じて微妙びみょうに身体を動かしているという。とりわけコンドンが注目したのは、相手が発話するほんの百分の数秒前に、聞く側の人間の身体がかすかに動いて先に反応しているという現象であった。これは、人間のレスポンス(応対・対応)能力の高さを示す現象だ。レスポンスは、相手からの働きかけが終わったところから始まるというよりは、それと同時に、あるいはその直前から始まっているのである。こうしたレスポンスの構えは、身体の生き生きとした働きを抜きぬ にしては考えられない。こうした生きて働く身体の力が阻害そがいされたときに、私たちは気が通いあわないという拒絶きょぜつ感を味わうことになる。
 他者の身体の動きが自分の身体の動きに移ってくるという間身体的な力は、人間として、あるいは生物としての基礎きそ的な力である。
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これは、誕生以降の莫大ばくだいなやりとりによって培わつちか れる力である。保育器の中で他者とかかわることなく長期間放置された子どもは、通常の子どもよりもレスポンス能力の弱いことが報告されている。レスポンスすることも、多くの反復練習によって強化される技だと見ることができる。
 かつての徒弟制度では、技は言葉で教えられるというよりは、実際に見てからだで覚えて盗むぬす ものであった。「見習い」期間は、文字どおり見て習う期間であり見取り稽古けいこという言葉もある。「からだで仕事を覚える」という表現は、言葉で説明されるのではなく、見よう見まねで試行錯誤しこうさくごしながら自分の技を身につけていくという意味だ。「からだで仕事を覚える」というのは、かつて職人の仕事の上達法としては当然のことであった。
 こうしたことは、伝統的な職人芸においては、共通して語られるが、現代社会の産業構造からすれば、必ずしも万能というわけではないであろう。しかし、情報が氾濫はんらんする一方で、仕事を見て積極的に自分で技を盗むぬす という構えが希薄きはくになっているという意見をさまざまなところで耳にするようになっているのも事実だ。

齋藤孝著「子どもに伝えたい「三つの力」」より)
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a 長文 11.4週 ru2
 かつて映画について教える大学なんてなかったにもかかわらず、今日では多くの大学で映画の講座があり、多くの教授がそこで教えている。その教授たちは、大学を出たにもかかわらず、映画に関しては独学をしたのである。このように、学問の新しい分野が開発される時期には、その学問をやる人たちというのは、大学を出ているといないとにかかわらず、独学をしなければならないわけである。民俗みんぞく学とか文化人類学といった、歴史の浅い学問もしばしばそうである。おなじことが、じつは歴史の古い既成きせいの学問についても言える。師匠ししょうから習ったことを、弟子が、そっくりそのまま、そのまた弟子に教えてゆくような範囲はんいでは、学問は師匠ししょうなり学校なりを必要とするものだと言えるだろうが、師匠ししょうから習ったことを一歩でも超えよこ  うとすると、そこからはどんな学者でも独学をしなければならない。なにしろ、まだだれにもわかっていないことを学ぼうとするわけだから、独学するより仕方がないのである。その意味では、一流の学者はすべて独学者だ、ということも言える。
 もっとも、こう言うと、それは、師匠ししょうからすでにわかっている範囲はんいの知識を目いっぱい教えてもらった者だからこそ、それをさらに超えこ てゆくこともできるので、はじめから師匠ししょうを持たない者にとってはそれどころではない、と言われるであろう。師匠ししょうからすでにわかっている範囲はんいの知識を目いっぱい教えてもらった者は、それ以後、いくら独りで研究をすすめても、いわゆる独学者とは区別されるんだ、と。たしかにそれはそうである。ある種の学問は、すでにわかっている知識の概略がいりゃくを教えてもらうだけでもたいへんで、ある程度の知識がないとそこから先、一人だちして進むことはできないとすると、独学はとても無理、ということにもなる。数学とか物理学とか医学などという学問にはそういう面が大きいと思う。しかし、学問というものはすべてがそういうものだとはかぎらない。立派な学者たちが多数、営々として苦労を重ねているのに、その結果として書かれた論文には、素人にも容易にその欠陥けっかんがわかるものが多い、というような学問分野も広大にあるのである。それらの学問の中でも、部分的には素人では歯がたたない程度に研究のつみ重ねの進んでいる個所もあるが、重要な問題であるのにまだほとんどだれも研究していない、という個所もぼう大にある。
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 それらの分野では、まず、中学なり高校なりを卒業すれば、あとは一人ででも、入門書、参考書、基礎きそ文献ぶんけん、その分野での第一線の人びと同士の間の論争、というふうに読みすすんでゆくことはたいてい可能だと思うし、大学へなど行かなくても、どんどん勉強してゆくことができる。私がやった映画などはまさにそういう分野で、私の前にこれといって学ぶのに手間ひまかかる学者もいなかったような分野である。独学が当り前で、むしろ大学になど行っていても、そのほうが回り道であるような学問分野だったのである。
 私は独学者なのかもしれないが、独学っていったいなんだろう?

 (佐藤忠男の文章による)
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 大抵たいていの人が、新しく知ったことについて、いい気になりすぎる。それにばかり眼を注いでいるものですから、かえってほかのことが見えなくなる。とうげの上で自分が新しく知ったことだけが、知るに値する大事なことだと思いこんで、それにまだ気づかぬ谷間の人々を軽蔑けいべつする。あるいは、憂国ゆうこくの志を起して、その人たちに教えこもうとする。が、そういう自分には、もう谷間の石ころが見えなくなっていることを忘れているのです。同時に見いだしたばかりの新世界にのみ心を奪わうば れて、未知の世界に背を向けている自分に気づかずにいるのです。
 こうして、知識は人々に余裕よゆうを失わせます。いや、逆かもしれない。知識の重荷を背負う余裕よゆうのない人、それだけの余力のない人が、それを背負いこんだので、そういう結果になるのかもしれません。というのも、知識が重荷だという実感に欠けているからでしょう。もっと皮肉にいえば、それを重荷と感じるほど知識を十分に背負いこまずに、いいかげんですませているからでしょう。しかし、本人が実感しようとしまいと、知識は重荷であります。自分の体力以上にそれを背負いこんでよろめいていれば、周囲を顧みるかえり  余裕よゆうのないのは当然です。それが無意識のうちに、人々の神経を傷つける。みんないらいらしてくる。そうなればなるほど、自分の新しく知った知識にしがみつき、それを知らない人たちに当り散らすということになる。そしてますます余裕よゆうを失うのです。
 家庭における親子の対立などというものも、大抵たいていはその程度のことです。旧世代と新世代の対立というのも、そんなものです。が、新世代は、自分の新しく知った知識が、刻々に古くなりつつあるのに気づかない。ですから、あるときがくると、また別の新しい知識を仕入れた新世代の出現に出あって、愕然がくぜんとするのです。そのときになってはじめて、かれらは自分には荷の勝ちすぎた知識であったことに気づき、あまりにもいさぎよくそれを投げすててしまう。すなわち、自分を旧世代のなかに編入するのです。
 とにかく、知識のある人ほど、いらいらしているという実情は、困ったものです。もっと余裕よゆうがほしいと思います。知識は余裕よゆうをともなわねば、教養のうちにとりいれられません。対人関係において、自分の位置を発見し、そうすることによって、自分を存在せしめ主張するのと同様に、知識にたいしても、自分の位置を発見し、
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そうすることによって、知識を、そして自分を自由に操らなければなりません。さもなければ、荷物の知識に、逆に操られてしまうでしょう。知識に対して自分の位置を定めるというのは、その知識と自分との距離きょりを測定することです。この一定の距離きょりを、隔てるへだ  というのがとりもなおさず、余裕よゆうをつくることであり、力をぬくことであります。くりかえし申しますが、それが教養というものなのです。
 ここから、おのずと読書法が出てまいります。本は、距離きょりをおいて読まねばなりません。早く読むことは自慢じまんにはならない。それは、あまりにも著者の意のままになることか、あるいはあまりにも自己流に読むことか、どちらかです。どちらもいけない。本を読むことは、本と、またその著者と対話をすることです。本は、問うたり、答えたりしながら読まねばなりません。要するに、読書は、精神上の力くらべであります。本の背後にある著者の思想や生きかたと、読む自分の思想や生きかたと、この両者のたたかいなのです。そのことは、自分を否定するような本についてばかりでなく、自分を肯定こうていしてくれる本についてもいえます。
 したがって、本を読むときには、一見、自分に都合のいいことが書いてあっても、そこまで著者が認めてくれるかどうか、そういう細心の注意を払いはら ながら、一行一行、問答をかわして読み進んでいかなければなりません。自分を否定するような本についても同様です。字面では否定されているが、自分のぶつかっているこの問題については、あるいは著者も自分のいきかたを認めるかもしれない。そういうふうに自分を主張しながら、行間に割りこんでいかねばなりません。それが知識にたいして自分の居場所を打ちたてるということです。本はそういうふうに読んで、はじめて教養となりましょう。

(福田恆存つねあり「教養について」『私の幸福論』より)
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a 長文 12.2週 ru2
 日常会話の中では、「それは常識よ。」と言って片づけてしまうことがよくある。けれども常識ってなんだろう、と改めて考えてみると、それほど簡単な話ではない。
 私は東京で生まれ、育ったので例えば天候などの自然現象を思い浮かべるおも う   場合もおのずと東京付近の様子を頭に描いえが てしまう。冬のどんよりと曇っくも た空から降り続く雪のことは、知識としては理解できても、実感としてつかむのは難しい。恥ずかしいは    話だが、先日、大阪おおさかの友人と話していて、大阪おおさかでは地震じしんがめったにないと聞いて、改めて驚いおどろ た。地形を考えれば納得できることなのだが、つい、自分の経験でものを考えてしまうのだ。
 生物の世界にも、こんな例はたくさんある。私たちは、温度はほぼ四〇度以下、一気圧の空気の中で暮らしている。だから生物は、これに近い環境かんきょうに生息しているものと考える。いや、そういうところでしか生きられないと思っている。ところが、とんでもない。思いもよらないところに住んでいる生物もあるのだ。
 例えば、七〇度以上の温泉の中で生活している細菌さいきんがある。七〇度といえば、ゆで卵のできる温度だから、体が全部固まってしまいそうに思うが、そんなこともなく、ちゃんと増えている。「いい湯だな。」と歌っているかどうかは知らないが、その細菌さいきんは七〇度という温度が好きで、常温よりも活発な活動をする。そのほか、おのような酸の中が好きな細菌さいきんや、濃いこ 塩水の中が好きな細菌さいきんもある。牛乳におを垂らせばたちまち固まってしまうし、キュウリに塩をかければ、外に水がしみ出してくるのでも分かるように、これらの条件は普通ふつうの生物にとってはいや環境かんきょうだ。私たちは、酸素がなくては数分だって生きていられないが、酸素が嫌いきら 細菌さいきんもある。そもそも、大昔の地球には酸素などなかったのだから、当時の生物はみな酸素嫌いきら だったはずだ。
 こうしてみると、常識とはなんとも頼りたよ ないもので、自分とは全く違うちが 立場があることを理解し、常に相対的に見ることが重要である。一方、人間はどうしたって七〇度のお湯の中では生きられないのであり、その意味での自分の常識も大切にしなければならない。この二つをうまく組み合わせていくのが、本当の常識であり、これからはそれが重要になってくると思う。
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 実は、この文を書いてから十五年後の一九九五年一月一七日に阪神はんしん淡路あわじ大震災だいしんさいが起きた。この友人は大阪おおさかから、転勤してきて、東京は地震じしんの多い恐ろしいおそ   所だから、関西へ帰りたいと言っていた。私など全く気にならない小さな地震じしん恐いこわ と言っていたので、きっと子どものころから地震じしんを体験してこなかったのだろう。ところが、今回の大地震じしん彼女かのじょ芦屋あしやの実家は倒壊とうかいした。
 その後専門家が、今回地震じしんが起きた付近には活断層がたくさん走っていて、いつ地震じしんが起きてもおかしくない状況じょうきょうだったと解説しているのだから、彼女かのじょの常識は誤りだったことになる。なんだか複雑なことになった。
 常識については、科学的知識とその伝達という問題も含めふく てよく考え、もう一度整理しなければならないと思っている。

(中村桂子「生命科学者ノート」より)
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a 長文 12.3週 ru2
 挨拶あいさつのことばを仕込ましこ れた子どもくらい、気持ちの悪いものはない。かれらが「おはようございます」とか「ありがとうございました」とかいうときには、まず、ほんとうの心はこもっていない。ただ、そういわねばならぬと強いられていっているだけだ。当然、もん切り型の口調になるから、なんとも子どもには調和しない。うわべだけの形式的なことばは、虚偽きょぎ偽善ぎぜんと責任回避かいひをこととするおとなにはふさわしいが、無邪気むじゃきで打算とごまかしの下手な子どもには似つかわしくない。その子どもが、おとなの挨拶あいさつをするのだから、不気味というほかはない。そのことばを発するときの子どもの心情を思えば、なおさら苦しくなってくる。
 子どもの挨拶あいさつは、「おはよう」「ありがとう」で十分だ。顔を合わせたとき、いきなり「おばちゃん」とか「ひろし」とか呼びかけて話しだしてもよいし、別れるときは「じゃね」でも「ばいばい」でもかまわない。要は、そのときどきの相手に対する気持ちがもっともよく伝えられる、その子に合った方法を選ばせることだ。だから、かならずしも、挨拶あいさつはことばにならなければならぬ必要はない。わたしの診察しんさつ室でも、やって来た子どもの大半は、目やしぐさで親愛の情をみせてくれる。ウインクをしたり、首を傾けかたむ たり、口をとがらせたり、手を挙げたり、からだ中でずっこけたようすをしたりする。なかには、あかんべえをしたり、いきなり傍らかたわ にやってきてつばを引っかけたり、わたしの頭をぽかりとやったりもする。それが、ひとつも恨みうら ではなく、熱烈ねつれつなエールであり、優れた挨拶あいさつになっているのだ。
 こうした子どもたちもちゃんと挨拶あいさつができるようになるにつれ、しだいに親愛の情が薄れうす 距離きょりが遠のいていくように感ぜられる。あるいは、かれらには情は残っているのだが、それをストレートな方法で表現しえなくなってくるのかも知れぬ。いずれにしても、ここにもことばの持つさびしさがある。
 ことばの豊富さは、また、ことばの上だけでの整合性を生む。経験で確かめ立証するよりも、ことばの上でのつじつまを合わせることによって、他人だけでなく自分をも納得させようとする。おとなの大切にしている物をこわすなど、失策をしたときに、「ネコがした」とか「友だちがした」といい、さらに追及ついきゅうされれば「だっ
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て、ネコがいたんだもん」とか「あの子は、この前もこわしたじゃないか」などと弁明する。これが「うそをつく」という悪に決めつけられるのだが、ことばの上での「だれが」や「どうして」という性急な追及ついきゅうが、子どものうそを作りあげてしまうのだ。子どもにとっては、しでかした事実にもともと否定も肯定こうていもない。ただそういう事実が起きただけだ。自分にもまわりにもことばさえなければ、それですむ。ところが、そこに論理性と価値観が強力に立ち現われると、一定度のことばの操作を覚えた子は、その土俵にあがらざるをえぬ。結果は明らかではあるが、懲りこ ずにことばの土俵にはまり込みこ 、ますます事実からの逃避とうひ巧妙こうみょうとなる。
 ことばは、その抽象ちゅうしょう性がしっかりした概念がいねんを形成し、実体との統合と論理的実証が可能となったとき、はじめて有用性をもつ。子どものことばがそのようになるまでは、あまりに早くことばの世界に入れないのがよい。多くのおとなに囲まれ、ことばにあふれた環境かんきょうで育つ子どもは不幸である。きょうだいがなく、両親と祖父母、そのうえにおじ、おばやお手伝いさんなどがいて、いつもことばでかまわれていたら、実のない操り人形ができてしまう。おとなの社交の場に、つねに子どもを引き連れるのも、ことばを形式的にしか覚えさせない。いわんや、お話レコードとかテレビのお話教室を聴かき せて、上手に上品にしゃべらせようと目論むなどは、ことばの形成の筋道を誤るものだ。
 ことばの形成にとって大切なのは、子ども自身による体験だ。子どもが主体的に、多くの事物や人間と接触せっしょくし、それらに対する概念がいねんをきっちりと持つことが先決だ。そのうえに、ことばの持つ調べやリズム、イントネーションなどの感覚的面白さが加わったとき、子どもはそのことばをわがものにする。この際、ことばを発する人間の情念も、大きくものをいうだろう。心がこもっていなかったり、うそいつわりがあったり、論理をねじまげたりしていれば、それらのことばは、受けつけられない。もし受けつけられれば、方便をこしらえるだけだ。真実を、心をこめて伝えようとするとき、子どもはそのことばを正しく身につける。

(毛利子来「新エミール」より)
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 人間としてバランスのよい身体感受性を育てるためには、いろいろな方法があります。子どもの遊びはその一つです。たとえば「ハンカチ落とし」という遊びがあります。内側を向いて円陣えんじんを組み、「おに」がその後ろを周回し、誰かだれ の後ろにハンカチを落とします。それに気がつかずに一周してかた叩かたた れたらその人が次の「おに」というゲームです。
 この遊びはどんな知覚を開発するためのゲームなのでしょうか。
 ハンカチは背後で落とされますから、もちろん目には見えないし、音もしません。ハンカチが空中を落下するときの空気の振動しんどうは「おに」の騒がしいさわ   足音に比べればほとんど知覚不能でしょう。それでもかんのよい子は、ハンカチが地面に落ちる前に、自分の後ろに「おに」がハンカチを落としたことを察知します。いったいこの子は何を感知したのでしょう。
 それは「おに」の心に浮かんう  だ「邪念じゃねん」です。
 「この子の後ろにハンカチを落としてやろう」という、「おに」の心に一瞬いっしゅんきざした「悪意」を感知するのです。
 別にオカルト的な話をしているのではありません。人間はだれでも緊張きんちょうすると心拍しんぱく数が上がり、発汗はっかんし、呼吸が浅くなり、体臭たいしゅうが変化します。恐怖きょうふや不安だけでなく、羨望せんぼうや敵意も、そのような微弱びじゃくな身体信号を発信します(ウソ発見器はその原理を応用したものです)。
 かんのよい子どもは、自分の後ろでハンカチを落とした瞬間しゅんかんの「おに」の緊張きんちょうがもたらすこの微弱びじゃくな身体信号を敏感びんかんに感知することができます。
 ぼくはそれを「邪念じゃねんを感知した」というふうに言っただけです。
 しかし、これはたいへんにすぐれた身体能力開発ゲームだとぼくは思います。というのも、原始の時代においては、ぼくたちの祖先は暗い森の中で、肉食じゅうや敵対的な異族と隣り合わせとな あ  て暮らしていたはずだからです。そのときに、自分を攻撃こうげきしてくるものが発するわずかな身体信号を感知できる個体とできない個体では、ど
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ちらが生存確率が高かったか、考えるまでもありません。ですから、生き延びるためのスキルとして、その当時から、ぼくたちの祖先は、感覚を統御とうぎょし、錬磨れんまするためのエクササイズを「遊び」というかたちで子どもたちに繰り返さく かえ せていたのではないでしょうか。
 「かくれんぼ」というのは、おそらく起源的には狩猟しゅりょうのための感覚訓練であったとぼくは思います。見えないところに、見つからないように隠れかく ているものが発信する微弱びじゃく恐怖きょうふと期待の身体信号、それを感知するための訓練だったのではないでしょうか。
 「鬼ごっこおに   」にせよ「かんけり」にせよ、その種の遊びで子どもに要求されるのは、単に足が速いとか、高いところに上れるというような単純な身体運用能力ではなく、それよりむしろ「気配を察知する」総合的な身体感受性であっただろうと思います。

 (内田樹『疲れつか すぎて眠れねむ ぬ夜のために』)
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