長文集  5月3週  ★ここに茶わんが(感)  sa2-05-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】ここに茶わんが一つあります。中に
は熱い湯がいっぱいはいっております。ただ
それだけではなんのおもしろみもなく不思議
もないようですが、よく気をつけて見ている
と、だんだんにいろいろの微細なことが目に
つき、さまざまの疑問が起こって来るはずで
す。【2】ただ一ぱいのこの湯でも、自然の
現象を観察し研究することの好きな人には、
なかなかおもしろい見物(みもの)です。
 第一に、湯の面からは白い湯げが立ってい
ます。【3】これはいうまでもなく、熱い水
蒸気が冷えて小さな滴になったのが無数に群
がっているので、ちょうど雲や霧と同じよう
なものです。この茶わんを縁側の日向へ持ち
出して、日光を湯げにあて、向こう側に黒い
布でもおいてすかして見ると、滴の粒の大き
いのはちらちらと目に見えます。【4】場合
により、粒があまり大きくないときには、日
光にすかして見ると、湯げの中に、虹のよう
な、赤や青の色がついています。これは白い
薄雲が月にかかったときに見えるのと似たよ
うなものです。【5】この色についてはお話
しすることがどっさりありますが、それはま
たいつか別のときにしましょう。
 【6】すべて全く透明なガス体の蒸気が滴
になる際には、必ず何かその滴の心(しん)
になるものがあって、そのまわりに蒸気が凝
ってくっつくので、もしそういう心(しん)
がなかったら、霧は容易にできないというこ
とが学者の研究でわかって来ました。【7】
その心(しん)になるものは通例、顕微鏡で
も見えないほどの、非常に細かい塵のような
ものです。空気中には、それが自然にたくさ
ん浮遊しているのです。【8】空中に浮かん
でいた雲が消えてしまった跡には、今言った
塵のようなものばかりが残っていて、飛行機
などで横からすかして見ると、ちょうど煙が
広がっているように見えるそうです。
 【9】茶わんから上がる湯げをよく見ると
、湯が熱いかぬるいかが、おおよそわかりま
す。締め切った室(へや)で、人の動き回ら
ないときだと∵ことによくわかります。熱い
湯ですと湯げの温度が高くて、周囲の空気に
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比べてよけいに軽いために、どんどん盛んに
立ちのぼります。【0】反対に湯がぬるいと
、勢いが弱いわけで す。湯の温度を計る寒
暖計があるなら、いろいろ自分でためしてみ
るとおもしろいでしょう。もちろんこれは、
まわりの空気の温度によっても違いますが、
おおよその見当はわかるだろうと思います。

(寺田寅彦 大正十一年五月、赤い鳥)

※「通常は芯という字が遣われることが多い
と思いますが原本は「心(しん)」となって
います。