1. 【1】ここに茶わんが一つあります。中には
熱い湯がいっぱいはいっております。ただそれだけではなんのおもしろみもなく
不思議もないようですが、よく気をつけて見ていると、だんだんにいろいろの
微細なことが目につき、さまざまの
疑問が
起こって来るはずです。【2】ただ一ぱいのこの
湯でも、
自然の
現象を
観察し
研究することの
好きな人には、なかなかおもしろい
見物です。
2.
第一に、
湯の
面からは白い
湯げが立っています。【3】これはいうまでもなく、
熱い水蒸気が
冷えて小さな
滴になったのが
無数に
群がっているので、ちょうど雲や
霧と同じようなものです。この茶わんを
縁側の
日向へ
持ち出して、日光を
湯げにあて、
向こう側に黒い
布でもおいてすかして見ると、
滴の
粒の大きいのはちらちらと目に見えます。【4】場合により、
粒があまり大きくないときには、日光にすかして見ると、
湯げの中に、
虹のような、赤や青の色がついています。これは白い
薄雲が月にかかったときに見えるのと
似たようなものです。【5】この色についてはお話しすることがどっさりありますが、それはまたいつか
別のときにしましょう。
3. 【6】すべて
全く透明なガス体の
蒸気が
滴になる
際には、
必ず何かその
滴の
心になるものがあって、そのまわりに
蒸気が
凝ってくっつくので、もしそういう
心がなかったら、
霧は
容易にできないということが
学者の
研究でわかって来ました。【7】その
心になるものは
通例、
顕微鏡でも見えないほどの、
非常に細かい
塵のようなものです。空気中には、それが
自然にたくさん
浮遊しているのです。【8】空中に
浮かんでいた雲が
消えてしまった
跡には、今言った
塵のようなものばかりが
残っていて、
飛行機などで
横からすかして見ると、ちょうど
煙が広がっているように見えるそうです。
4. 【9】茶わんから上がる
湯げをよく見ると、
湯が
熱いかぬるいかが、おおよそわかります。
締め切った
室で、人の
動き回らないときだと∵ことによくわかります。
熱い湯ですと
湯げの
温度が高くて、
周囲の空気に
比べてよけいに
軽いために、どんどん
盛んに立ちのぼります。【0】
反対に
湯がぬるいと、
勢いが弱いわけです。
湯の
温度を計る
寒暖計があるなら、いろいろ自分でためしてみるとおもしろいでしょう。もちろんこれは、まわりの空気の
温度によっても
違いますが、おおよその見当はわかるだろうと思います。
5.(寺田
寅彦 大正十一年五月、赤い鳥)
6.※「
通常は
芯という字が
遣われることが多いと思いますが原本は「
心」となっています。