長文 5.3週
1. 【1】ここに茶わんが一つあります。中には熱いあつ がいっぱいはいっております。ただそれだけではなんのおもしろみもなく不思議ふしぎもないようですが、よく気をつけて見ていると、だんだんにいろいろの微細びさいなことが目につき、さまざまの疑問ぎもん起こっお  て来るはずです。【2】ただ一ぱいのこのでも、自然しぜん現象げんしょう観察かんさつ研究けんきゅうすることの好きす な人には、なかなかおもしろい見物みものです。
2. だい一に、めんからは白いげが立っています。【3】これはいうまでもなく、熱いあつ 水蒸気すいじょうき冷えひ て小さなしずくになったのが無数むすう群がっむら  ているので、ちょうど雲やきりと同じようなものです。この茶わんを縁側えんがわ日向ひなた持ち出しも だ て、日光をげにあて、向こうむ  がわに黒いぬのでもおいてすかして見ると、しずくつぶの大きいのはちらちらと目に見えます。【4】場合により、つぶがあまり大きくないときには、日光にすかして見ると、げの中に、にじのような、赤や青の色がついています。これは白いうす雲が月にかかったときに見えるのとたようなものです。【5】この色についてはお話しすることがどっさりありますが、それはまたいつかべつのときにしましょう。
3. 【6】すべて全くまった 透明とうめいなガス体の蒸気じょうきしずくになるさいには、必ずかなら 何かそのしずくしんになるものがあって、そのまわりに蒸気じょうき凝っこ てくっつくので、もしそういうしんがなかったら、きり容易よういにできないということが学者がくしゃ研究けんきゅうでわかって来ました。【7】そのしんになるものは通例つうれい顕微鏡けんびきょうでも見えないほどの、非常ひじょうに細かいちりのようなものです。空気中には、それが自然しぜんにたくさん浮遊ふゆうしているのです。【8】空中に浮かんう  でいた雲が消えき てしまったあとには、今言ったちりのようなものばかりが残っのこ ていて、飛行機ひこうきなどでよこからすかして見ると、ちょうどけむりが広がっているように見えるそうです。
4. 【9】茶わんから上がるげをよく見ると、熱いあつ かぬるいかが、おおよそわかります。締め切っし き へやで、人の動き回らうご まわ ないときだと∵ことによくわかります。熱いあつ ですとげの温度おんどが高くて、周囲しゅういの空気に比べくら てよけいに軽いかる ために、どんどん盛んさか に立ちのぼります。【0】反対はんたいがぬるいと、勢いいきお が弱いわけです。温度おんどを計る寒暖計かんだんけいがあるなら、いろいろ自分でためしてみるとおもしろいでしょう。もちろんこれは、まわりの空気の温度おんどによっても違いちが ますが、おおよその見当はわかるだろうと思います。

5.(寺田寅彦とらひこ 大正十一年五月、赤い鳥)

6.※「通常つうじょうしんという字が遣わつか れることが多いと思いますが原本は「しん」となっています。