長文集  5月4週  ○あらためてわが日本語を  ta-05-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2015/06/16 15:53:48
 【長文が二つある場合、読解問題用の長文
は一番目の長文です。】
 ぼくの友だちにも、たいていおじさんがい
る。おじさんというのは、つまり両親の兄弟
ということで、ぼくたちは、そのおじさんの
オイ、女だったらメイということなのだそう
だ。
 話をきいてみると、友だちのおじさんは、
けっこういいおじさんだという。どこからど
こまでいいおじさんというわけにはいかない
が、あるおじさんは宿題を教えてくれる。あ
るおじさんはいっしょに動物園へつれていっ
てくれる。あるおじさんはお小遣いをくれ 
る。
 なかにはスポーツマンのおじさんがいて、
そのおじさんは有名なスキーの選手なのだそ
うだ。ジャンプの名手で、全日本大会とかい
うと、そのおじさんは一等か、二等か、まか
りまちがっても三等になる。一等のときは新
聞に写真がでる。三等のときだって、ちゃん
と名まえだけはでる。
 そういうおじさんを持った友だちは、ほん
とうに幸福だとぼくは思う。いっしょにスキ
ー場へ行けば、どんなにか得意だろう。日本
一か日本三の選手に、手をとってスキーを教
えてもらえるからだ。
 けれども、友だちにきくと、実際はそんな
ことはないそうだ。スキーを教えてくれるな
んて、とんでもない。そのおじさんは自分の
練習にいそがしくて、オイやメイのことなん
かかまっていられないそうだ。

(北杜夫「ぼくのおじさん」)∵
 【1】あらためてわが日本語をかえりみる
と、ただちに気付くのが「わたし」という一
人称の多様さである。日本語ほど一人称代名
詞に多くのバラエティを与えている言葉はほ
かにないのではあるまいか。【2】「わたく
し」「わたし」に始まり、「ぼく」、「わ 
れ」、「おれ」、「自分」、「手前」、「う
ち」、「わし」、「それがし」、「吾が輩(
はい)」、「当方」、「こちら」、「小  
生」、さらに「あっし」とか「あたい」とか
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、「わて」とか、「おいら」「こちとら」と
いったものまで加えれば、その数、ゆうに二
十を越えるという。【3】英語やフランス語
、ドイツ語などでは一人称の代名詞はそれぞ
れ、I、Je、Ichたった一語である。そ
れに対して、日本語には、なぜこんなにたく
さん「自分」をあらわす言葉があるのか。【
4】それは日本人が他の民族よりも、ひと一
倍「自分」に注意を払い、「自己」に深い関
心を持っていることを語っているのだろうか

 端的にいえばそうである。しかし、だから
といって日本人に自我意識が強いとは必ずし
もいえそうにない。【5】いや、むしろ欧米
人に対して日本人は「自分」を主張すること
がずっとひかえめであり、日本では「個人」
という意識、「我」の自覚が西欧人にくらべ
てかなり遅れているというのが「通説」にな
っている。【6】たしかに日本で個人主義が
芽生えたのは、ようやく第二次大戦後といっ
てもいい。そして現在に至っても「個」の意
識はまだまだ希薄で、日本の社会全体は画一
主義で貫かれている。画一主義とは没個性的
ということであり、要するに「個」が「全体
」に埋没してしまっている状況である。【7
】それなのに、日本人が他民族よりも「自 
分」に注意を向け、つねに「自己」を意識し
ているといえるのだろうか。
 じつは日本人の自己意識は他民族、たとえ
ば欧米人のそれとは質的に異なっているので
ある。ヨーロッパ人は自分というものを、実
体的にとらえようとする。【8】自分という
のは、それこそ、かけがえのない存在であり
、独立した一個の人格と信じている。ヨーロ
ッ∵パの哲学が古代ギリシアのむかしから一
貫して求めてきたの は、ただひたすら「自
分」というものの本質であった。【9】「な
んじ自身を知れ!」というデルフォイの神託
を哲学の出発点としたソクラテス、「われ思
う、ゆえにわれ在り」を哲学の原点に据えた
デカルト、「人間とは自分の存在を自覚した
存在者だ」とするキルケゴール……ヨーロッ
パの哲学史は、「自分」という実体へ向かっ
ての旅だったといってもよい。【0】
 それに対して日本人は自分という一個の人
間を実体としてではなく、機能として考えて
きた。個人はけっして単独に存在するのでは
ない。つねに「世間」で他の多勢(おおぜい
)の人たちとさまざまな人間関係のなかで生
きるのだ――というのが日本人の人間観の前
提だった。げんに「人間」という言葉自体が
そうした考え方を正直に語っている。この言
葉はいうまでもなく中国から受け入れた漢語
であるが、この漢語の意味はもともと人間の
世界、すなわち「世 間」ということなので
ある。ところがそれが日本ではいつの間にか
「人」そのものをあらわす言葉になった。と
いうことは、日本人にとって「世間」も「人
」も同一のように思われていたからにちがい
ない。日本人は社会と個人を一体化して考え
てきたのである。
 日本人はヨーロッパ人のように自然と対決
するのではなく、自然に親しみ、自然に同化
することによって安らぎを得てきた。それと
同じことが社会についてもいえる。日本人は
欧米人のように個人を社会に対置することな
く、世間と自分とをひとしなみに表象してき
たのだ。「渡る世間に鬼はない」という諺が
その一端を語ってい る。日本の自然が優し
い山河であるように、日本の世間も――他民
族の社会とくらべれば――結構、心安い社会
だったからであろう。

 (森本哲郎『日本語 表と裏』)