1.【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
2. ぼくの友だちにも、たいていおじさんがいる。おじさんというのは、つまり両親の兄弟ということで、ぼくたちは、そのおじさんのオイ、女だったらメイということなのだそうだ。
3. 話をきいてみると、友だちのおじさんは、けっこういいおじさんだという。どこからどこまでいいおじさんというわけにはいかないが、あるおじさんは宿題を教えてくれる。あるおじさんはいっしょに動物園へつれていってくれる。あるおじさんはお
小遣いをくれる。
4. なかにはスポーツマンのおじさんがいて、そのおじさんは有名なスキーの
選手なのだそうだ。ジャンプの名手で、全日本大会とかいうと、そのおじさんは一等か、二等か、まかりまちがっても三等になる。一等のときは新聞に写真がでる。三等のときだって、ちゃんと名まえだけはでる。
5. そういうおじさんを持った友だちは、ほんとうに幸福だとぼくは思う。いっしょにスキー場へ行けば、どんなにか
得意だろう。日本一か日本三の
選手に、手をとってスキーを教えてもらえるからだ。
6. けれども、友だちにきくと、
実際はそんなことはないそうだ。スキーを教えてくれるなんて、とんでもない。そのおじさんは自分の練習にいそがしくて、オイやメイのことなんかかまっていられないそうだ。
7.(北
杜夫「ぼくのおじさん」)∵
8. 【1】あらためてわが日本語をかえりみると、ただちに
気付くのが「わたし」という
一人称の多様さである。日本語ほど
一人称代名詞に多くのバラエティを
与えている言葉はほかにないのではあるまいか。【2】「わたくし」「わたし」に始まり、「ぼく」、「われ」、「おれ」、「自分」、「手前」、「うち」、「わし」、「それがし」、「
吾が輩」、「当方」、「こちら」、「小生」、さらに「あっし」とか「あたい」とか、「わて」とか、「おいら」「こちとら」といったものまで
加えれば、その数、ゆうに二十を
越えるという。【3】
英語やフランス語、ドイツ語などでは
一人称の
代名詞はそれぞれ、I、Je、Ichたった一語である。それに対して、日本語には、なぜこんなにたくさん「自分」をあらわす言葉があるのか。【4】それは日本人が他の
民族よりも、ひと一倍「自分」に注意を
払い、「
自己」に深い
関心を持っていることを語っているのだろうか。
9.
端的にいえばそうである。しかし、だからといって日本人に
自我意識が強いとは
必ずしもいえそうにない。【5】いや、むしろ
欧米人に対して日本人は「自分」を
主張することがずっとひかえめであり、日本では「
個人」という
意識、「
我」の
自覚が
西欧人にくらべてかなり
遅れているというのが「
通説」になっている。【6】たしかに日本で
個人主義が
芽生えたのは、ようやく第二次
大戦後といってもいい。そして
現在に
至っても「
個」の
意識はまだまだ
希薄で、日本の社会全体は画一
主義で
貫かれている。画一
主義とは
没個性的ということであり、
要するに「
個」が「全体」に
埋没してしまっている
状況である。【7】それなのに、日本人が他
民族よりも「自分」に注意を向け、つねに「
自己」を
意識しているといえるのだろうか。
10. じつは日本人の
自己意識は他
民族、たとえば
欧米人のそれとは
質的に
異なっているのである。ヨーロッパ人は自分というものを、実体
的にとらえようとする。【8】自分というのは、それこそ、かけがえのない
存在であり、
独立した一
個の
人格と
信じている。ヨーロッ∵パの
哲学が古代ギリシアのむかしから
一貫して
求めてきたのは、ただひたすら「自分」というものの
本質であった。【9】「なんじ自身を知れ!」というデルフォイの
神託を
哲学の出発点としたソクラテス、「われ思う、ゆえにわれ
在り」を
哲学の原点に
据えたデカルト、「人間とは自分の
存在を
自覚した
存在者だ」とするキルケゴール……ヨーロッパの
哲学史は、「自分」という実体へ向かっての旅だったといってもよい。【0】
11. それに対して日本人は自分という一
個の人間を実体としてではなく、
機能として考えてきた。
個人はけっして
単独に
存在するのではない。つねに「世間」で他の
多勢の人たちとさまざまな人間
関係のなかで生きるのだ――というのが日本人の人間
観の
前提だった。げんに「人間」という言葉自体がそうした考え方を正直に語っている。この言葉はいうまでもなく中国から受け入れた漢語であるが、この漢語の意味はもともと人間の世界、すなわち「世間」ということなのである。ところがそれが日本ではいつの間にか「人」そのものをあらわす言葉になった。ということは、日本人にとって「世間」も「人」も同一のように思われていたからにちがいない。日本人は社会と
個人を一体化して考えてきたのである。
12. 日本人はヨーロッパ人のように
自然と対決するのではなく、
自然に親しみ、
自然に同化することによって安らぎを
得てきた。それと同じことが社会についてもいえる。日本人は
欧米人のように
個人を社会に
対置することなく、世間と自分とをひとしなみに
表象してきたのだ。「
渡る世間に
鬼はない」という
諺がその
一端を語っている。日本の
自然が
優しい山河であるように、日本の世間も――他
民族の社会とくらべれば――
結構、心安い社会だったからであろう。
13. (森本
哲郎『日本語 表と
裏』)