長文集  6月1週  ○絹の道、塩の道(感)  ta2-06-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2011/01/31 18:28:10
 絹の道、塩の道
 【1】塩は人間にとっても、ウシやウマに
とっても、生きていくためにかかすことがで
きません。食糧を保存するにも、みそやしょ
うゆをつくるにも、つけものをつけるにも、
むかしからなくてはならないものでした。【
2】「塩をそまつにすると、目がつぶれ  
る。」むかしの人たちはそういって、塩をた
いせつにしたもので す。それは、外国でも
おなじでした。ヨーロッパやアフリカの国々
では、むかし、塩のかたまりが、お金として
使われたほどでした。【3】王さまへのみつ
ぎものにも、金や銀や宝石や、絹の布とおな
じように、塩が使われたりしたのです。
 その塩は、中国やヨーロッパやアメリカで
は、地下からとることができました。地下か
らとる塩は「岩塩」とよばれ、鉄や石炭など
のように、山をほってとりだすのです。【4
】けれども日本では、塩は山からはとれませ
んでした。山国にすむ人たちは、よそから塩
をもらわなければ、生きていくことができま
せんでした。
 さいわい日本は、海にかこまれています。
海は、むげんの塩の宝庫でした。【5】そこ
で海べの人たちは、海水から塩をつくって、
山国の人たちにとどけたのです。それが、塩
の道でした。
 まず海岸のすなはまに、大きなすなの池を
いくつもいくつもつくります。その池に海水
をくんで、何日もかけて日にほします。【6
】すると水分がじょうはつして、だんだんこ
い塩水(しおみず)になっていきます。それ
をさいごに大きな鉄のかまでにつめるので 
す。海水を日にほすためのすなの池は「塩田
(えんでん)」とよばれました。【7】瀬戸
内海や九州や、三陸の海岸など、日本のあち
こちのすなはまで、塩田(えんでん)風景が
くりひろげられていきました。
 塩の道は、山の幸(さち)と海の幸とを交
換する道でした。山国の人と海べの人とが心
をかよわせる道でした。
 塩の道は、日本じゅうのいたるところにあ
りました。【8】日本列島の大部分は山国で
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す。そして海岸ではいたるところで塩がつく
られていたからです。∵
 山と海とをつなぐ道ならたいていは、塩を
はこんだ歴史があります。たとえば信州の山
村には、日本海側からは、姫川にそった糸魚
川(いといがわ)街道を塩売りのウシの列が
、ぞろぞろとつづきました。【9】また太平
洋側からは、富士川や天竜川をさかのぼり、
峠をこえて塩がはこばれていきました。
 みなさんは戦国時代、上杉謙信が、敵の武
田信玄に塩を送ったという話をきいたことが
ありますか。信玄は甲斐の国(いまの山梨 
県)の武将です。【0】甲斐の国は山国なの
で、塩はいつも遠くの海べにたよっていまし
た。ところがそのころ、太平洋側には、駿府
(いまの静岡県)の今川氏ががんばっていま
した。一方日本海側には、越後(いまの新潟
県)の上杉氏がにらみをきかせていました。
 そしてとうとう、おそれたことがおこりま
した。信玄をこらしめようと考えた太平洋側
の今川氏は、甲斐へつうずる塩の道を、国ざ
かいでつぎつぎにふさいでしまったのです。
塩の道がたたれるということは、生きていけ
なくなるということです。甲斐の国の人たち
はこまりはてました。これを知った日本海側
の上杉氏はきのどくに思いました。上杉謙信
と武田信玄とは敵どうしです。けれども謙信
は、日本海側から甲斐へ塩を送ってあげたの
です。
 ふだんは敵どうしでも、相手がほんとうに
こまったとき、たすけてあげることを「敵に
塩を送る。」といいますね。それは、この話
からきていることばです。
 この話は、道というものがどれほどたいせ
つなやくわりをはたしたか、よく教えてくれ
ます。
 
 「道は生きている」(富山和子)講談社青
い鳥文庫より