長文 4.1週
1. 【1】一万年あまり前、人間の前に、大きな
悲劇がせまってきました。運命が、はじめて、
人類に対して、
冷たく背をむけたのです。
2.
原因は、地球の
気候の
変化です。多くの地方で、温度がどんどんあがりはじめました。【2】
氷河は、
後退していきます。
気候の
変化は、植物に大きな
影響をあたえました。植物を食べて
暮らしている動物たちも、
当然、大きな
影響をうけます。
3. その
頃、地球上には、
約百万人の人間が
暮らしていたろう、と
推定する学者がいます。【3】今日の地球上の人口からみれば、五千分の一という数です。
4. しかし、
彼らは、
有能な
狩人でした。肉食を主にする生きものとしては、すでにその数は、他の肉食
獣に
比べ、
異常なほどに多くなりつつありました。
5. 【4】
彼らの
有能さの
秘密は、石
槍や
石斧、
棍棒などを使い、
集団で行動することでした。寒い草原にすむ大形の草食
獣、マンモスやトナカイに対して、とくにその
戦法が
有効だったのです。しかし、
狩猟の
方法が
発達するにつれて、マンモスたちは人間に
圧迫されていきます。【5】そこに
気候の
変化が
加われば、大形
獣はどんどん
姿を消していくのです。人間の
狩猟法はますます
有効になっていくのに、
頼りにしていた
獲物が、いなくなってしまいました。
6. 多くの人が
飢え死にしました。それでも、
人類は
滅びませんでした。【6】マンモスのように地球上から
消滅してしまう前に、新たな生きる道を見出していったのです。
7. 人間という生きものが、その内に
秘めている多様
性、それが、人間を
救いました。
8. 自分をとりまく
状態が
変われば、それに
応じて自分も
変わることができる。【7】いわば、何でも屋の人間のしぶとさです。
9. (
中略)
10. 多様な新しい
暮らし方のなかでも、とくに大切なのは、植物を食べる、という生き方でした。のちになって、人間の生活に大きな∵
革命をひきおこす
芽が、そのなかで育っていったからです。
11. 【8】もともと、人間は、肉を食べるあいまに、食べやすい木の実、
果実をつまんでいた、と思われます。しかし、肉がなかなか手に入りにくくなり、植物に
頼って生きていくというのは、さぞかし
大変なことだったにちがいありません。
12. 【9】葉を食べて
栄養とするのは、人間の身体にとって
無理でした。木の実や、木の根っこには、しばしば
毒がありました。草の実、
種は、かたい
殻におおわれていて、そのままでは食べても消化しません。
13. 【0】
私は、アフリカの
奥地で、
固くなったトウモロコシの
粒を、二つの石を使って
粉にして食べている人々の
暮らしを見ました。そのままではダメなものを、
粉に
変えて食べる。これも
大変な
知恵です。それにしても、
挽臼を知らない人々の
労働のなんとつらいことか。一食分のトウモロコシを
粉にするのに、
女性は一日の半分近くを使っていました。
14. 当時の人々の
遺体の多くは、やせていました。マンモスがいた
頃の人々の
遺体に、
栄養の取りすぎのあとがのこっているのとは、まさに正反対です。また、草の
種にふくまれている
糖分のせいでしょう。虫歯がふえてきました。
15. きびしい生活のなかで、人間の内に
秘めた研究心が活動しはじめます。かつて、マンモスの行動を
観察し、その弱点をついて
成功した人間が、今度は、食べられる植物に、
鋭い目をむけていきます。
16.
人類が、はじめて農業という新しい生活
方法をあみ出した西アジア、いわゆるオリエントには、ムギが野生していました。アジアの
山岳地帯では、イネの
祖先が、野生していました。そのほか、中国のアワ、
アメリカ大陸のイモやトウモロコシなど、まとまって
収穫することができ、
栄養が
豊富な野生の植物に、当時の人間は注目して行ったのです。
17. (
羽仁進『
羽仁進の世界
歴史物語』)
長文 4.2週
1. 道のはじまり
2. 【1】それはすばらしいことでした。
以前人々が
狩りをしてくらしていた時代には、一つの山に動物がいなくなると、人々はべつの山へと
移動しなければなりませんでした。えもののない日は十日でもニ十日でも、食事をせずに、
食糧をさがし歩かなければなりませんでした。
3. 【2】ところが、いまではちがいます。一つの水田はよく年も、そのまたよく年も、きちんきちんと実りをあげてくれました。畑でとれた作物は、長く
保存することもできました。雪にうもれた
季節にも、
梅雨の長雨の
季節にも、人間は安心してその土地で、くらすことができました。
4. 【3】畑しごとのない日には、べつのしごとをすることもできました。はたおりをして、着物をつくることもできました。わらしごとをして、わらじやむしろや、なわをつくることもできました。【4】農作業の道具をつくったり、どうしたらお米がたくさんとれるようになるかと、みんなでゆっくり考えあう、ゆとりもできていきました。
5. 畑をたがやすということは、それほどすばらしいことでした。一つの土地にすみつくということは、たいへん幸せなことでした。【5】家と畑とをむすぶ道は、こうして毎日ふみかためられていきました。家と畑とをむすぶ道も、しっかりつくられていきました。
6. お米がたくさんとれるようになると、あまったお米は、べつの物と
交換することができました。【6】
漁村でとれた海のさかなと
交換することができました。山村でおられた
布と、
交換することができました。村と村とをつなぐ道も、こうしてつくられていきました。
7. お米がたくさんとれるようになると、十人の人をやしなうのに、八人が畑へしごとにでれば、すむようになりました。【7】あとの二人はべつのしごとにつくことができました。
武士になったり、
坊さんになったり、
貴族や学者や
技術者になることができました。そして、商人になることもできました。こうして都市ができました。大きな都がつくられていきました。【8】物と物との
交換は、さらに活発になりました。人と人との行き来もしだいにさかんになりました。
8. ちがった土地の人たちが、たがいに交流しあうようになると、ちがったくらしのちえも
交換されました。くらしの
技術はさらに進歩∵していきました。
9. 【9】
技術がすすむと、さらにたくさんのお米がとれるようになりました。物と物との
交換も、ちえとちえとの
交換も、いっそう活発になりました。道はいよいよたいせつなものになりました。道をつくる
技術も、物をはこぶ
技術も進歩していきました。【0】でこぼこ道がたいらになっていきました。広い道がつくられるようになりました。荷車もとおれるようになりました。そこで交通は、もっと活発になりました。
10.
人類の文明は、そのようにして
発達してきたのでした。道のはたらきは、そのようにしていよいよ
重要になってきたのでした。
11. では道は、人が使わなくなったとき、どうかわっていったでしょうか。大むかし人々がまだけものを追ってくらしていた時代には、そこにけものがいなくなれば、人間はべつの山へと
移動していきました。人の使わなくなった古い道は、いつか土にうもれてしまいました。草ぼうぼうになり、ジャングルのように木がしげって、もうあとかたもなくなってしまいました。
12. そうです。道はいつの時代にも、人間がそこをとおってこそ道でした。どんなにりっぱな道をつくっても、人間がそこをとおらなくなったとき、道はあれはて
廃道になっていきました。
江戸時代に、にぎやかに人の行き来した
街道も、
明治にはいって鉄道ができだれもが使わなくなると、とたんにさびれていきました。また、山のむこう
側とこちら
側とをむすんでいた
峠の道も、りっぱな自動車道がトンネルでつうじると、しだいしだいにわすれられていきました。
13.
14. 「道は生きている」(
富山和子)
講談社青い鳥文庫より
長文 4.3週
1.
並木の道、石の道
2. 【1】長い長い
街道は、全国
各地から都へむけて、みつぎものをとどけるための道であり、また
戦争にでかけていくための道であり、
戦争や、都づくりの工事にかりだされる人たちが、
故郷をあとに都へむけて旅立つための道でした。【2】旅人たちは、じぶんの
食糧をかついで何日も何十日もさびしい道を歩きつづけたのでした。ニワトリの声でもいいから聞きたいなあと思うほど、心細いことばかりでした。病気になる人もありました。水も
食糧もなくなって、死んでいく人もありました。【3】
並木道は、そんな旅人たちをやさしくたすけてくれたのです。
3. やけつくような暑い日ざしのま夏には、
並木のこずえはすずしい
木かげをつくりだしてくれました。雨がふれば、雨やどりの場所になりました。夜がくれば、木かげはねる場所になりました。【4】そして、
食糧のない旅人には、木の実を
提供してくれました。ですから大むかしの
並木は、いまとちがって、カキやナシなど、くだもののなる木だったのです。
4.
街道にはところどころに、駅もおかれていきました。駅にはウマを何頭もおきました。
5. 【5】それは、いざといういそぎの知らせのばあいには、役人がウマをのりついで、早馬を走らせることができるようにした
制度でした。
6.
鎌倉時代になりました。
源頼朝が
鎌倉に
幕府をひらくと、
幕府はこんどはまわりの山を切りひらいて、切りどおしの道をつくっていきました。【6】それは
戦争にそなえてのものでした。いざ
戦争というときに、
各地に
散らばってくらしている
武士たちが、いちはやく
鎌倉へ
はせ参じることができるよう、
街道をととのえていったのです。いまも
鎌倉には切りどおしの道がたくさんのこっています。
7. 【7】道はこのようにして、すこしずつととのえられていきました。旅館もたつようになりました。
並木のしゅるいはくだもののなる木から、いつかサクラやウメにかわり、さらにスギやヒノキやマツ∵
並木へと、かわっていったのです。
8. 【8】それにしてもくだもののなる
並木道とは、なんとすばらしいちえだったことでしょう。ドイツにも、むかしはそんな
並木道がありました。けれどもそれは旅人たちのためにつくられたものではなく、
領主たちが、ただ実をとることを
目的に、じぶんの畑の一部として植えたものでした。【9】しかも、日本よりは千年ものちのことだったのです。
9. くだもののなる木の
並木道は、いまでも日本にあります。長野県
飯田市のりンゴ
並木は子どもたちが植えそだててきたものです。また
茨城県日立市には、アンズの
並木道があります。【0】
10.
11. 「道は生きている」(
富山和子)
講談社青い鳥文庫より
長文 4.4週
1. 【1】「
自然ってどんな色?」と聞かれたら、何と答えるだろう? たいていの人は、緑色と答えるにちがいないし、
実際みんなそう思っている。だから「水と緑の町づくり」などという
標語がそこらじゅうに
掲げられているのである。
2. 【2】目に入る「
自然」が
一望の
砂である
砂漠の国でも、水と緑はオアシスの
象徴であり、人々はそこに安らぎを感じる。だから水と緑は、人間という動物にもともとしっかり
結びついているものであるらしい。
3. 【3】たぶんそういう理由からだろう、かつてはずいぶんこっけいなこともおこなわれていた。道路を作るので、草木の緑におおわれた
丘に切り通しを作る。新しい道の
両側は、赤茶けた土そのままの
崖で、何ともうるおいがないし、
荒れた感じがする。【4】それにいつ土が
崩れてくるかもわからないから、がっちりとコンクリートでおおってしまう。そうなると、ますます味気ない。そこで、とにかく緑にしようということで、コンクリートを緑色に
塗ったのである。
4.
確かに少し遠くからは緑にみえる。【5】けれど、
所詮はペンキで緑色に
塗っただけである。人間の
感覚はこんなことでは
欺されないはずだ。
5. 昔、モンシロチョウで
実験してみたことがある。ケージの地面にいろいろな色の大きな紙を
敷き、チョウがどの色の紙の上をよく
飛ぶかを調べたのだ。【6】やはり緑色の紙の上を、もっとも
好んで
飛ぶようであった。なるほど、チョウは緑色であれば紙でもいいのだな、とぼくは思った。
6. けれどこれは、チョウチョにはたいへん
失礼な思いちがいであった。【7】ほんものの草を植えた
植木鉢をたくさん
並べたら、チョウは緑色の紙など見向きもせず、ほんものの草の上ばかりを
飛んだのである。
7. コンクリートを緑色に
塗るのはその後まもなくやめになった。やはりほんものの草でなければ、ということは
誰にでもすぐにわかっ∵たからだろう。
8. 【8】だが、それでどうなったか? 次の
方法は、道路わきの
斜面(
法面)に
牧草のたねを
播くことであった。こうして多くの高速道路の
両側が、外
国産の
牧草でおおわれる
始末となった。
9. それは見るからにモダンな、
最新のハイウェイという
印象を
与えたことはたしかだったが、人工の
産物であることも明らかであった。【9】それはどことなくよそよそしい、
疑似自然なのだ。
10. 同じような
擬似自然は、どこにでも見ることができる。
11. かつてアフリカのモンバサに行ったときもそうだった。いかにもモンバサらしい
熱帯の
風景の中で、ぼくはついに虫を一
匹も見ることはできなかった。【0】ホテルの人にたずねたら、たえず
殺虫剤を
撒いて、
蚊を
退治していますから、ということだった。
12. これも作られた
疑似自然である。昼になれば
時折どこからかチョウチョが
飛んでくるけれども、それも
偶然のことにすぎない。南の
色濃い植物たちがぼくらを
包んでいるけれども、それはあたかも
観葉植物園の中にいるのとほとんど同じことだ。
観光客たちはこういう場所にきて、
熱帯の気分を
満喫して帰る。もちろんそれはけっこうなことだけれど、なんだか
変である。
13. 水と緑のあるゆとりの町づくり、
自然とのふれあい、
自然との
共生……ことばはさまざまにあるが、意味しているところは同じである。美しく
管理され、
不愉快な「
雑草」もなく、いやな虫もいない、
疑似自然。それをところどころにとり
込んだ町。つまりそういう町を作ろうということである。
14. そこにあるのは「美しい
自然」「調和のある、やさしくてゆとりのある平和な緑」という
幻想だけだ。日本人は昔から
自然を
愛した、などという
誤った
思い込みに
陥らぬよう、もう少し
醒めた
認識が
必要なのではないか。
15. (日高
敏隆『春の数えかた』)
長文 5.1週
1. ちえくらべ
2.【1】「人々をすくうには、くさり戸(地名)の大岩にトンネルをほるしかない。」
3.
禅海はそう思いました。村々をまわって、村の人たちに
協力してくれるようたのみましたが、だれも本気にしてはくれません。
4.「あの大岩にあなをあけるなんて、できるはずがない。」
5.【2】「あのぼうさんは大ぼらふきだ。」
6.「気がへんだ。」
7.と、村の人たちはわらうばかりでした。
8.「しかたがない。それならば一人でほっていこう。」と、
禅海は心にきめました。
石工の使う「のみ」と「つち」を手にいれると、力いっぱいつちをふりました。【3】岩はほんのひとかけら、かけただけでした。朝から
晩まで
禅海は、つちをふりました。くる日もくる日も岩をきざみつづけました。雨の日も風の日も手を休めませんでした。村の人たちはわらいました。
9.「いよいよほんとうに気がくるった。」
10. 【4】一年がたちました。岩にはほんのわずかのくぼみができただけでした。村の人たちはまたわらいました。
11.「一年間ほりつづけて、たったあれだけか。」
12. それでも
禅海はやめませんでした。くだかれる岩はほんのひとかけらです。【5】しかし、心をこめてきざんでいけば、岩もまたかくじつに、それにこたえてくれるのです。一生かかるかもしれません。
完成しないで死んでしまうかもしれません。それでもじぶんはほりつづけるのだと、
禅海はかたく決心していました。
13. 【6】三年たち、四年たちました。人々はもうわらいませんでした。あなの入り口に、そっと食事をおいてくれるようになりました。しかしそれで、トンネルができようとは、だれも
信じませんでした。大岩の長さは百メートル近くもあります。【7】それなのにほったあなは、まだ数メートルです。「きのどくなぼうさんだ。」と、人々は思ったのです。
14. 十年たちました。二十年になりました。
15.
禅海はねるまもおしんで、つちをふるいつづけました。暗い岩の中ですわりつづけているので、目も見えなくなりました。【8】足もたたなくなりました。着物はぼろぼろになり、からだはほねと皮ばかりにやせこけて人間かどうかわからないようなすがたになりまし∵た。けれど、どうでしょう。トンネルは、もう半分ほどにほりすすんでいたのです。
16. 【9】人々の目は、おどろきにかわっていました。それまで、あざわらっていたことを深くはじるようになっていました。人々は考えこんでしまったのです。「たった一人でも、あれだけのことができるのだ。みんなで力をあわせてほっていけば、ほんとうにトンネルができるかもしれないぞ。」と。
17. 【0】こうしていつか人々も
協力するようになりました。お金をだしあって石工たちをよびあつめ、おおぜいで岩にとりくんでいったのです。そしてある日のことです。まっ暗な岩あなに、とつぜん光がさしこみました。トンネルがぬけたのです。岩にぽっかりとあながあき、
山国川の流れが、むこう
側に見えました。それは、
禅海がほりはじめてから三十年目のことでした。
18.
禅海が、のみ一本でつくったこのトンネルは、「青ノ
洞門」とよばれています。長さ八十五メートル、はば三・六メートル、高さ二・七メートルのりっぱなトンネルでした。
禅海は死ぬと、土地の人たちに手あつくほうむられました。
19. 「道は生きている」(
富山和子)
講談社青い鳥文庫より
長文 5.2週
1. 道はやさしい道でした
2. 【1】いまの道は、歩く人には、たいへんきびしい道ですね。あっちを見たり、こっちを見たり、きょろきょろしたりしなければ、自動車がこわくて歩けません。いちばん強い自動車がいちばん大いばりで走っています。弱い歩行者は道のすみで、小さくなって歩いています。
3. 【2】歩道橋をつくっても、お年よりや病人やからだの
不自由な人や、うば車のお母さんはとりのこされてしまいます。いまの道は、弱い立場の人たちのことを、わすれているようです。
4. でも、むかしの道はちがいました。弱い人たちにとてもやさしい道でした。
5. 【3】東京の
愛宕山の神社のおまいりの坂道は、
石段が急なことで知られています。とちゅうでうしろをふりかえったりすると、目がくらみ、足がすくんでしまいます。よほどの
勇気をださないと、のぼれない坂道です。ところがその近くにもう一つ、べつの道がつけられてありました。【4】すこし遠まわりになるけれども、ずっとゆるやかな坂道です。そして、このゆるやかな坂道には「女坂」、急な坂道のほうには「男坂」と名まえがつけられてありました。
6. なぜ、べつにもう一つ、ゆるやかな道をこしらえたのでしょう。【5】それは、むかしの人たちのやさしい心づかいからでした。神社におまいりをしたいのは、足のじょうぶな人ばかりとはかぎりません。
女性もいれば、お年よりも、子どもたちもいます。からだの弱い人もいます。【6】からだの弱い人たちこそ、じょうぶになるようおまいりをしたいのです。そのような人たちも安心してのぼれるよう、わざわざまわり道をこしらえたのでした。
7. 東京の上野駅の近くには、
湯島天神があります。【7】天神さまは、
菅原道真公をまつった学問の神さまの神社です。ですから
受験生たちは、「しけんに
合格しますように。」と、おおぜいおまいりにやってきます。この湯島天神にもゆるやかな女坂がつくられています。
8. 【8】女坂は
江戸時代に、日本じゅうのあちこちの神社やお寺につくられていきました。おまいりの旅がブームになり、
女性も子どももお年よりも、だれもがおまいりにでかけるようになったとき、弱い人たちのことをみんなで考えあうようになったのです。
9. 【9】いまでも、女坂がのこされているところが少なくありません。∵でも中には自動車のための道にかわってしまったところもあります。ひょっとしたら、あなたもどこかで女坂を見たことがあるのかもしれません。【0】それともあなたの見た女坂は、もう、いまでは自動車道にかわってしまっているのかもしれません。むかしの人たちの道づくりのやさしい心を、いまのわたしたちももう一度、見なおす
必要がありますね。
10. 「道は生きている」(
富山和子)
講談社青い鳥文庫より
長文 5.3週
1. 車と人間
2. 【1】ひとむかしまえまでは、道路は「
往来」とよばれ、歩行者とせいぜい自転車が行き来する、わたしたちのくらしのための場所でした。
3. 「外であそんでいらっしゃい。」と、お母さんは、子どもたちにいいました。外とは、道のことを意味していたのです。【2】道は、子どもたちのかけがえのないあそび場でもありました。
4. 屋台のお店がならぶとき、道はマーケットになりました。家の前にえん台をおけば、夕すずみの場所になりました。お客さんとお茶話をする
応接間にもなりました。【3】道はお母さんたちの
井戸ばた
会議の
会議場であり、また近所のおじさんたちが集まって、立ち話をする広場でもありました。道はそれほどに、わたしたちのくらしのすみずみとむすびついていたのです。
5. 【4】その道が、いつのまに、あそんではいけない場所にかわってしまったのでしょう。ならんで歩いても、立ち話をしてもいけない場所になってしまったのでしょうか。自動車が走るようになってから、道はすっかりかわったのです。
6. 【5】自動車は、とてもべんりなのりものでした。人間は、もうじぶんの足で歩かずに、どこへでもいくことができました。重い荷物もらくらくと、はこぶことができました。また、スピードをあげて走るのは、とても気持ちのよいことでした。
7. 【6】人々は、このすばらしいのりもののために、道をゆずってあげました。人間は、すみっこのほうを小さくなって歩きました。でこぼこ道は
舗装をし、まがった道はまっすぐにつくりなおしてあげました。【7】さて、自動車が走りやすくなると、だれもが車を使いたくなりました。道はみるまに
満員になりました。
8.「もっと道を広げたらいい。」
9. だれもがそう考えました。家々をたちのかせ、
並木をはらい、道を広げていきました。自動車はまた、すいすいと走るようになりました。【8】すいすいと走る車を見ると、ほかの人たちも車がほしくなりました。また自動車がふえました。車は身うごきがとれなくなりました。
10.「のろのろ走っているのでは、自動車の意味がない。もっと道を広げよう。」
11.「もう一本、道をつくろう。」
12. 【9】また家がたちのかされました。路面電車もバスも追いだされて、道は広げられ、車は流れるようになりました。路面電車がなく∵なって、足をうばわれた
市民たちは、じぶんで車を運転するようになりました。
13. 道はまた、車で
満員になりました。【0】そこでもう一本、道が
必要になりました。もう、いたちごっこでした。こうしてみるまに日本じゅうが、車でいっぱいになったのです。
14. いまではわたしたちは、車なしでは一日も生きていけなくなっています。毎日使う一まいの紙も、たった一本のえんぴつも、車ではこばれてきます。じゃ口からでる水道の水も、電波で送られてくるテレビの画面も、どこかでかならず、車のおせわになっています。わたしたちのくらしは、自動車で、がんじがらめにされています。
15.
16. 「道は生きている」(
富山和子)
講談社青い鳥文庫より
長文 5.4週
1. 【1】あらためてわが日本語をかえりみると、ただちに
気付くのが「わたし」という
一人称の多様さである。日本語ほど
一人称代名詞に多くのバラエティを
与えている言葉はほかにないのではあるまいか。【2】「わたくし」「わたし」に始まり、「ぼく」、「われ」、「おれ」、「自分」、「手前」、「うち」、「わし」、「それがし」、「
吾が輩」、「当方」、「こちら」、「小生」、さらに「あっし」とか「あたい」とか、「わて」とか、「おいら」「こちとら」といったものまで
加えれば、その数、ゆうに二十を
越えるという。【3】
英語やフランス語、ドイツ語などでは
一人称の
代名詞はそれぞれ、I、Je、Ichたった一語である。それに対して、日本語には、なぜこんなにたくさん「自分」をあらわす言葉があるのか。【4】それは日本人が他の
民族よりも、ひと一倍「自分」に注意を
払い、「
自己」に深い
関心を持っていることを語っているのだろうか。
2.
端的にいえばそうである。しかし、だからといって日本人に
自我意識が強いとは
必ずしもいえそうにない。【5】いや、むしろ
欧米人に対して日本人は「自分」を
主張することがずっとひかえめであり、日本では「
個人」という
意識、「
我」の
自覚が
西欧人にくらべてかなり
遅れているというのが「
通説」になっている。【6】たしかに日本で
個人主義が
芽生えたのは、ようやく第二次
大戦後といってもいい。そして
現在に
至っても「
個」の
意識はまだまだ
希薄で、日本の社会全体は画一
主義で
貫かれている。画一
主義とは
没個性的ということであり、
要するに「
個」が「全体」に
埋没してしまっている
状況である。【7】それなのに、日本人が他
民族よりも「自分」に注意を向け、つねに「
自己」を
意識しているといえるのだろうか。
3. じつは日本人の
自己意識は他
民族、たとえば
欧米人のそれとは
質的に
異なっているのである。ヨーロッパ人は自分というものを、実体
的にとらえようとする。【8】自分というのは、それこそ、かけがえのない
存在であり、
独立した一
個の
人格と
信じている。ヨーロッ∵パの
哲学が古代ギリシアのむかしから
一貫して
求めてきたのは、ただひたすら「自分」というものの
本質であった。【9】「なんじ自身を知れ!」というデルフォイの
神託を
哲学の出発点としたソクラテス、「われ思う、ゆれにわれ
在り」を
哲学の原点に
据えたデカルト、「人間とは自分の
存在を
自覚した
存在者だ」とするキルケゴール……ヨーロッパの
哲学史は、「自分」という実体へ向かっての旅だったといってもよい。【0】
4. それに対して日本人は自分という一
個の人間を実体としてではなく、
機能として考えてきた。
個人はけっして
単独に
存在するのではない。つねに「世間」で他の
多勢の人たちとさまざまな人間
関係のなかで生きるのだ――というのが日本人の人間
観の
前提だった。げんに「人間」という言葉自体がそうした考え方を正直に語っている。この言葉はいうまでもなく中国から受け入れた漢語であるが、この漢語の意味はもともと人間の世界、すなわち「世間」ということなのである。ところがそれが日本ではいつの間にか「人」そのものをあらわす言葉になった。ということは、日本人にとって「世間」も「人」も同一のように思われていたからにちがいない。日本人は社会と
個人を一体化して考えてきたのである。
5. 日本人はヨーロッパ人のように
自然と対決するのではなく、
自然に親しみ、
自然に同化することによって安らぎを
得てきた。それと同じことが社会についてもいえる。日本人は
欧米人のように
個人を社会に
対置することなく、世間と自分とをひとしなみに
表象してきたのだ。「
渡る世間に
鬼はない」という
諺がその
一端を語っている。日本の
自然が
優しい山河であるように、日本の世間も――他
民族の社会とくらべれば――
結構、心安い社会だったからであろう。
6. (森本
哲郎『日本語 表と
裏』)
長文 6.1週
1.
絹の道、
塩の道
2. 【1】
塩は人間にとっても、ウシやウマにとっても、生きていくためにかかすことができません。
食糧を
保存するにも、みそやしょうゆをつくるにも、つけものをつけるにも、むかしからなくてはならないものでした。【2】「
塩をそまつにすると、目がつぶれる。」むかしの人たちはそういって、
塩をたいせつにしたものです。それは、外国でもおなじでした。ヨーロッパやアフリカの国々では、むかし、
塩のかたまりが、お金として使われたほどでした。【3】王さまへのみつぎものにも、金や銀や
宝石や、
絹の
布とおなじように、
塩が使われたりしたのです。
3. その
塩は、中国やヨーロッパやアメリカでは、地下からとることができました。地下からとる
塩は「
岩塩」とよばれ、鉄や石炭などのように、山をほってとりだすのです。【4】けれども日本では、
塩は山からはとれませんでした。山国にすむ人たちは、よそから
塩をもらわなければ、生きていくことができませんでした。
4. さいわい日本は、海にかこまれています。海は、むげんの
塩の
宝庫でした。【5】そこで海べの人たちは、海水から
塩をつくって、山国の人たちにとどけたのです。それが、
塩の道でした。
5. まず海岸のすなはまに、大きなすなの池をいくつもいくつもつくります。その池に海水をくんで、何日もかけて日にほします。【6】すると水分がじょうはつして、だんだんこい
塩水になっていきます。それをさいごに大きな鉄のかまでにつめるのです。海水を日にほすためのすなの池は「
塩田」とよばれました。【7】
瀬戸内海や九州や、
三陸の海岸など、日本のあちこちのすなはまで、
塩田風景がくりひろげられていきました。
6.
塩の道は、山の
幸と海の幸とを
交換する道でした。山国の人と海べの人とが心をかよわせる道でした。
7.
塩の道は、日本じゅうのいたるところにありました。【8】日本列島の大部分は山国です。そして海岸ではいたるところで
塩がつくられていたからです。∵
8. 山と海とをつなぐ道ならたいていは、
塩をはこんだ
歴史があります。たとえば
信州の山村には、日本海
側からは、
姫川にそった
糸魚川街道を
塩売りのウシの列が、ぞろぞろとつづきました。【9】また太平洋
側からは、
富士川や
天竜川をさかのぼり、
峠をこえて
塩がはこばれていきました。
9. みなさんは
戦国時代、
上杉謙信が、
敵の
武田信玄に
塩を送ったという話をきいたことがありますか。
信玄は
甲斐の国(いまの
山梨県)の
武将です。【0】
甲斐の国は山国なので、
塩はいつも遠くの海べにたよっていました。ところがそのころ、太平洋
側には、
駿府(いまの
静岡県)の今川
氏ががんばっていました。一方日本海
側には、
越後(いまの
新潟県)の
上杉氏がにらみをきかせていました。
10. そしてとうとう、おそれたことがおこりました。
信玄をこらしめようと考えた太平洋
側の今川
氏は、
甲斐へつうずる
塩の道を、国ざかいでつぎつぎにふさいでしまったのです。
塩の道がたたれるということは、生きていけなくなるということです。
甲斐の国の人たちはこまりはてました。これを知った日本海
側の
上杉氏はきのどくに思いました。
上杉謙信と
武田信玄とは
敵どうしです。けれども
謙信は、日本海
側から
甲斐へ
塩を送ってあげたのです。
11. ふだんは
敵どうしでも、相手がほんとうにこまったとき、たすけてあげることを「
敵に
塩を送る。」といいますね。それは、この話からきていることばです。
12. この話は、道というものがどれほどたいせつなやくわりをはたしたか、よく教えてくれます。
13. 「道は生きている」(
富山和子)
講談社青い鳥文庫より
長文 6.2週
1. 川の道
2. 【1】大むかしから山にすむ人たちは、山おくにわけ入って山の木を切りだし、川の水で下流へ送りました。小さな荷物ならば、まがりくねった山道でも、人がかついだり、ウシやウマをのせてはこぶこともできました。【2】けれども重くて長い
木材ばかりは、どうしても川の水にたよらねばなりませんでした。木を一本一本谷におとし、谷川を流します。それをとちゅうのゆるやかなところにあつめて、いかだに組みなおし、いかだ流しで下流に送るのです。
3. 【3】山の木を切りたおすのも、谷におとすのも、いかだ流しをするのも、おおぜいでおこなういのちがけのしごとでした。山村の人たちには、そんなくらしがあったのです。
4. 「
木曽のなかのりさあん」といううたがありますね。【4】
木曽川はむかしから、
木曽ヒノキでにぎわった川でした。
5. 「なかのりさん」とは、いかだ流しをするおじさんたちのことです。「
木曽のなかのりさあん」といううたは、きけんないかだ流しをするおじさんたちが、いせいよくうたう、しごとのうたです。
6. 【5】では川の水は下流では、どんなふうに使われたでしょうか。日本の川はあばれ川です。大雨のたび、水はあふれて、平野を水びたしにさせました。そしてすこし
日照りがつづけば、水はたちまちかれて
水不足になりました。【6】大雨のたび、水は山から
土砂をはこんできて、川をあさくさせました。川があさくなれば、つぎの雨では、水はあふれて流れをかえました。
7. 川があさかったり、水が少なかったり、流れがあっちへいったりこっちへいったりしてうごきまわっているのでは、いかだ流しはできません。【7】船もとおれません。人間もすめません。お米もつくれません。日本の平野は、むかしはそんな
不毛の土地だったのです。
8. むかしから日本人は、そのあばれ川をなだめすかして、川をきちんとしたものに、つくりかえていきました。【8】ゆたかな水が、いつもおなじ場所をゆるやかに流れるよう、水の交通整理をしていったのです。
9. あばれ川をおさめることを
治水といいます。さて水をおさめると、人々はその川から水をひいて、水田をひらいていきました。【9】これが農業用水です。用水には船もうかべられました。人々は川の水でイネをそだて、そして、とれたお米を川の水で町へとはこんでいったのです。
10. お米をはこんでいった船は、町からはなにをつんで帰ってきたで∵しょうか。【0】町で売られている着物や茶わんもありました。おけや草かりがまやほうちょうもありました。毎日使う紙もありました。なによりもたいせつな
肥料がありました。町の人たちのだすトイレのごみは、むかしはごみではなく、農地のかけがえのない
養分になったのです。
11. 「道は生きている」(
富山和子)
講談社青い鳥文庫より
長文 6.3週
1. おまいりの道
2. 【1】日光へのおまいりの道は
豪華そのものでした。日光の
東照宮には
徳川家康がまつられています。毎年、春の
家康の
命日にはお祭りがおこなわれ、京都からも
天皇のお使いが、はるばるおまいりにいきました。【2】ふつうの人たちも、みんな、でかけていったので、そうでなくとも日光
街道はにぎやかになりました。しかも
江戸の
将軍家にとっては、ご
先祖さまをまつったお宮です。ですから
幕府は全
精力をかたむけて、りっぱな大名行列をおこないました。【3】
江戸時代、
将軍の日光まいりは十九回おこなわれていますが、さいしょのころは、それでもしっそなものでした。ところがだんだんぜいたくになり、たとえば十代
将軍家治のときには、行列のウマの数だけでも三十五万頭でした。【4】
江戸から日光まで
武士・
足軽・
人夫など人とウマとが、ひとつづきにつづいたといわれています。
3. このような大がかりな行列のためには、
沿道の人たちは、五年も六年もまえから
準備をかさねなければなりませんでした。【5】
江戸から日光まで三日かかりましたが、
将軍の宿にあてられた
埼玉県の
岩槻や、
茨城県の
古河や、
栃木県の
宇都宮のお
城では、そのためにお
城を
修理したりしなければなりませんでした。
4. 【6】
利根川をわたるために、
利根川には船橋もつくられました。船橋とは、船をつなぎあわせてつくる、水にういた橋のことです。船を五十そうも六十そうもくさりで横につないで、川はばいっぱいにわたします。【7】その上に、あつさ十センチもある大きな板をのせて、はば十五メートルほどの道をこしらえました。板の上にはさらにむしろをあつくしいていきました。その上に土をかぶせていきました。土の上にはすなをのせました。
5. 【8】このようにして、りっぱな道が水の上につくられたのでした。道の
両側には、はば数十センチほど、みどりのシバを植えました。ふとくて青いタケも植え、小さなマツも植えていきました。
6. なんとみごとな道だったことでしょう。【9】それが、あの大きな
利根川をわたる、水にういたうき橋だったのです。
7. 橋が水に流されたり、ごみがひっかかったりしないように、上流∵にももう一つ、船をつないだ船橋をつくりました。そこで、川の流れをかんししたり、ごみをひろいあげました。
8. 【0】橋をつくった人たちは、行列がおわるまで、どんなにか、はらはらしたことでしょう。それは、いのちがけの思いだったことでしょう。この
利根川の船橋は、三年がかりの大工事のすえ、ようやくつくりあげたものでした。しかしせっかくつくりあげた船橋も、行列がおわるとまた、とりはずされました。
9. みなさんの中には夏休みに、日光へいく人もあるでしょう。日光
街道や
例幣使街道(
天皇のお使いがおまいりにとおった道)には、いまも一万四千本のみごとなスギ
並木がのこされています。そのスギ
並木を見たら、むかしその下を
将軍たちの行列が、ぞろぞろととおっていったことを思いうかべてみてください。
10.
11. 「道は生きている」(
富山和子)
講談社青い鳥文庫より
長文 6.4週
1. 【1】お茶わん一ぱいでお米は何
粒ありますか?
約三〇〇〇
粒(〇・五合)だそうです。
私が
子供のころ、そのなかにときどきすこし黒い小さな
斑点がついた
粒が
混じっていました。気がつくと気持ちが悪いので、はしでつまみ出したこともありましたが、たいていは気にしないで食べていました。【2】親が「とりのぞかないと、おなかが
痛くなるよ」と注意をしたことはなかったからです。いつのまにか、そんな黒い
斑点粒はなくなり、真っ白のごはんになりました。
2. 【3】
斑点粒が
混じっていると、見た目に悪いので、農薬を使って黒い
斑点粒がでないようにしているのです。お茶わんに四
粒(〇・一%
以上)あると、二等米に
格下げになり、
値が下がってしまうのです。農薬を使わざるをえません。
3. 【4】お米にいたずらして
斑点粒を作るのはカメムシです。ヘクサムシ、ヘコキムシとも
呼ばれ、
触れると
悪臭を出して身を守ろうとする、小さな平べったい五角形の虫です。
4. 【5】夏がすぎ
稲が
穂を出すころ、カメムシは一部の田に
飛んできて
穂の
乳を
吸うので、
被害にあった一部の田んぼの一部の
粒が
斑点粒になります。一〇アール(=一反)の田には
約二三〇〇万
粒のモミがあるので、この〇・一%は二万三〇〇〇
粒になります。【6】これ
以下にするには、計算上カメムシを六〇
匹未満にする
必要があるので農薬がまかれるのです。
5.
害虫と聞くと、
稲を病気にしたり、
収穫量を
減らしたりする「悪い虫」と思いがちです。しかしカメムシはそんなことはしません。
収穫量も
減らさず、人間の
健康をそこねない
程度のいたずらです。【7】それさえ人間は
許せなくなり、カメムシを
害虫の
仲間に入れてしまったのです。
6. いまから三〇年ほど前、都市
住民は、カメムシのいたずらをも
許せない自分になっていることに気づかぬまま、農薬のこわさに気づき、「反農薬」を
訴え、農薬を使う農業を
否定しました。【8】お∵
百姓さんも使いたくて使っているわけではないので、
無農薬で作ってくれる人が、ごく少数ながらあらわれました。すると農薬を使っている多くのお
百姓さんが、こんどは「悪い人」に見えてくるのです。【9】農薬を使わざるをえない
現実は知っていても、反農薬の
世論に
押された農業
関係者は、決められたとおりに農薬をまくことを
省略する「
省農薬」や、
濃度をうすくすることを意味する「
低農薬」にしているので
不安に思わなくてよいと
反論しました。【0】
7.(
中略)
8.
悪循環を
断ち切るため、
福岡県農業
改良普及所に
勤務していた
宇根豊さんは「虫見板」を使い、田のなかにいる虫に
改めて関心を持ってもらう
試みを開始しました。
株をたたき、虫見板の上に落ちてくる虫を、
害虫、
益虫、ただの虫に見分ける
能力をまずつけてもらいます。つぎに
害虫が
繁殖し、
被害をあたえようとするタイミングを学んでもらい、そのときに農薬をまくように
指導していったのです。それまでよりは時間はかかるけれど、田のなかの
自然に
関心を持ち、つきあえる
能力を
養っていくのは楽しいものです。そのうえこわい農薬の使用
量が
減り、
健康にもよいし、
経済的にも助かります。
防除暦にしたがうと一三回まくところが、二〜四回になった人もいます。これだけの
効果があると、運動は大きくなり、
福岡県から
佐賀県へも広がりました。
9.(森住
明弘『
環境とつきあう50話』)