a 長文 4.1週 ta2
 一万年あまり前、人間の前に、大きな悲劇ひげきがせまってきました。運命が、はじめて、人類じんるいに対して、冷たくつめ  をむけたのです。
 原因げんいんは、地球の気候きこう変化へんかです。多くの地方で、温度がどんどんあがりはじめました。氷河ひょうがは、後退こうたいしていきます。気候きこう変化へんかは、植物に大きな影響えいきょうをあたえました。植物を食べて暮らしく  ている動物たちも、当然とうぜん、大きな影響えいきょうをうけます。
 そのころ、地球上には、やく百万人の人間が暮らしく  ていたろう、と推定すいていする学者がいます。今日の地球上の人口からみれば、五千分の一という数です。
 しかし、彼らかれ は、有能ゆうのう狩人かりゅうどでした。肉食を主にする生きものとしては、すでにその数は、他の肉食じゅう比べくら 異常いじょうなほどに多くなりつつありました。
 彼らかれ 有能ゆうのうさの秘密ひみつは、石やり石斧せきふ棍棒こんぼうなどを使い、集団しゅうだんで行動することでした。寒い草原にすむ大形の草食じゅう、マンモスやトナカイに対して、とくにその戦法せんぽう有効ゆうこうだったのです。しかし、狩猟しゅりょう方法ほうほう発達はったつするにつれて、マンモスたちは人間に圧迫あっぱくされていきます。そこに気候きこう変化へんか加われくわ  ば、大形じゅうはどんどん姿すがたを消していくのです。人間の狩猟しゅりょうほうはますます有効ゆうこうになっていくのに、頼りたよ にしていた獲物えものが、いなくなってしまいました。
 多くの人が飢え死にう じ しました。それでも、人類じんるい滅びほろ ませんでした。マンモスのように地球上から消滅しょうめつしてしまう前に、新たな生きる道を見出していったのです。
 人間という生きものが、その内に秘めひ ている多様せい、それが、人間を救いすく ました。
 自分をとりまく状態じょうたい変われか  ば、それに応じおう て自分も変わるか  ことができる。いわば、何でも屋の人間のしぶとさです。
 (中略ちゅうりゃく
 多様な新しい暮らしく  方のなかでも、とくに大切なのは、植物を食べる、という生き方でした。のちになって、人間の生活に大きな
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革命かくめいをひきおこすが、そのなかで育っていったからです。
 もともと、人間は、肉を食べるあいまに、食べやすい木の実、果実かじつをつまんでいた、と思われます。しかし、肉がなかなか手に入りにくくなり、植物に頼ったよ て生きていくというのは、さぞかし大変たいへんなことだったにちがいありません。
 葉を食べて栄養えいようとするのは、人間の身体にとって無理むりでした。木の実や、木の根っこには、しばしばどくがありました。草の実、たねは、かたいからにおおわれていて、そのままでは食べても消化しません。
 わたしは、アフリカの奥地おくちで、固くかた なったトウモロコシのつぶを、二つの石を使ってこなにして食べている人々の暮らしく  を見ました。そのままではダメなものを、こな変えか て食べる。これも大変たいへん知恵ちえです。それにしても、挽臼ひきうすを知らない人々の労働ろうどうのなんとつらいことか。一食分のトウモロコシをこなにするのに、女性じょせいは一日の半分近くを使っていました。
 当時の人々の遺体いたいの多くは、やせていました。マンモスがいたころの人々の遺体いたいに、栄養えいようの取りすぎのあとがのこっているのとは、まさに正反対です。また、草のたねにふくまれている糖分とうぶんのせいでしょう。虫歯がふえてきました。
 きびしい生活のなかで、人間の内に秘めひ た研究心が活動しはじめます。かつて、マンモスの行動を観察かんさつし、その弱点をついて成功せいこうした人間が、今度は、食べられる植物に、鋭いするど 目をむけていきます。
 人類じんるいが、はじめて農業という新しい生活方法ほうほうをあみ出した西アジア、いわゆるオリエントには、ムギが野生していました。アジアの山岳さんがく地帯ちたいでは、イネの祖先そせんが、野生していました。そのほか、中国のアワ、アメリカ大陸    たいりくのイモやトウモロコシなど、まとまって収穫しゅうかくすることができ、栄養えいよう豊富ほうふな野生の植物に、当時の人間は注目して行ったのです。
 (羽仁はに進『羽仁はに進の世界歴史れきし物語』)
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a 長文 4.2週 ta2
 道のはじまり
 それはすばらしいことでした。以前いぜん人々が狩りか をしてくらしていた時代には、一つの山に動物がいなくなると、人々はべつの山へと移動いどうしなければなりませんでした。えもののない日は十日でもニ十日でも、食事をせずに、食糧しょくりょうをさがし歩かなければなりませんでした。
 ところが、いまではちがいます。一つの水田はよく年も、そのまたよく年も、きちんきちんと実りをあげてくれました。畑でとれた作物は、長く保存ほぞんすることもできました。雪にうもれた季節きせつにも、梅雨つゆの長雨の季節きせつにも、人間は安心してその土地で、くらすことができました。
 畑しごとのない日には、べつのしごとをすることもできました。はたおりをして、着物をつくることもできました。わらしごとをして、わらじやむしろや、なわをつくることもできました。農作業の道具をつくったり、どうしたらお米がたくさんとれるようになるかと、みんなでゆっくり考えあう、ゆとりもできていきました。
 畑をたがやすということは、それほどすばらしいことでした。一つの土地にすみつくということは、たいへん幸せなことでした。家と畑とをむすぶ道は、こうして毎日ふみかためられていきました。家と畑とをむすぶ道も、しっかりつくられていきました。
 お米がたくさんとれるようになると、あまったお米は、べつの物と交換こうかんすることができました。漁村ぎょそんでとれた海のさかなと交換こうかんすることができました。山村でおられたぬのと、交換こうかんすることができました。村と村とをつなぐ道も、こうしてつくられていきました。
 お米がたくさんとれるようになると、十人の人をやしなうのに、八人が畑へしごとにでれば、すむようになりました。あとの二人はべつのしごとにつくことができました。武士ぶしになったり、坊さんぼう  になったり、貴族きぞくや学者や技術ぎじゅつ者になることができました。そして、商人になることもできました。こうして都市ができました。大きな都がつくられていきました。物と物との交換こうかんは、さらに活発になりました。人と人との行き来もしだいにさかんになりました。
 ちがった土地の人たちが、たがいに交流しあうようになると、ちがったくらしのちえも交換こうかんされました。くらしの技術ぎじゅつはさらに進歩
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していきました。
 技術ぎじゅつがすすむと、さらにたくさんのお米がとれるようになりました。物と物との交換こうかんも、ちえとちえとの交換こうかんも、いっそう活発になりました。道はいよいよたいせつなものになりました。道をつくる技術ぎじゅつも、物をはこぶ技術ぎじゅつも進歩していきました。でこぼこ道がたいらになっていきました。広い道がつくられるようになりました。荷車もとおれるようになりました。そこで交通は、もっと活発になりました。
 人類じんるいの文明は、そのようにして発達はったつしてきたのでした。道のはたらきは、そのようにしていよいよ重要じゅうようになってきたのでした。
 では道は、人が使わなくなったとき、どうかわっていったでしょうか。大むかし人々がまだけものを追ってくらしていた時代には、そこにけものがいなくなれば、人間はべつの山へと移動いどうしていきました。人の使わなくなった古い道は、いつか土にうもれてしまいました。草ぼうぼうになり、ジャングルのように木がしげって、もうあとかたもなくなってしまいました。
 そうです。道はいつの時代にも、人間がそこをとおってこそ道でした。どんなにりっぱな道をつくっても、人間がそこをとおらなくなったとき、道はあれはてはい道になっていきました。江戸えど時代に、にぎやかに人の行き来した街道かいどうも、明治めいじにはいって鉄道ができだれもが使わなくなると、とたんにさびれていきました。また、山のむこうがわとこちらがわとをむすんでいたとうげの道も、りっぱな自動車道がトンネルでつうじると、しだいしだいにわすれられていきました。
 
 「道は生きている」(富山とみやま和子)講談社こうだんしゃ青い鳥文庫より
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a 長文 4.3週 ta2
 並木なみきの道、石の道
 長い長い街道かいどうは、全国各地かくちから都へむけて、みつぎものをとどけるための道であり、また戦争せんそうにでかけていくための道であり、戦争せんそうや、都づくりの工事にかりだされる人たちが、故郷こきょうをあとに都へむけて旅立つための道でした。旅人たちは、じぶんの食糧しょくりょうをかついで何日も何十日もさびしい道を歩きつづけたのでした。ニワトリの声でもいいから聞きたいなあと思うほど、心細いことばかりでした。病気になる人もありました。水も食糧しょくりょうもなくなって、死んでいく人もありました。並木道なみきみちは、そんな旅人たちをやさしくたすけてくれたのです。
 やけつくような暑い日ざしのま夏には、並木なみきのこずえはすずしいかげをつくりだしてくれました。雨がふれば、雨やどりの場所になりました。夜がくれば、木かげはねる場所になりました。そして、食糧しょくりょうのない旅人には、木の実を提供ていきょうしてくれました。ですから大むかしの並木なみきは、いまとちがって、カキやナシなど、くだもののなる木だったのです。
 街道かいどうにはところどころに、駅もおかれていきました。駅にはウマを何頭もおきました。
 それは、いざといういそぎの知らせのばあいには、役人がウマをのりついで、早馬を走らせることができるようにした制度せいどでした。
 鎌倉かまくら時代になりました。源頼朝みなもとのよりとも鎌倉かまくら幕府ばくふをひらくと、幕府ばくふはこんどはまわりの山を切りひらいて、切りどおしの道をつくっていきました。それは戦争せんそうにそなえてのものでした。いざ戦争せんそうというときに、各地かくち散らばっち   てくらしている武士ぶしたちが、いちはやく鎌倉かまくらはせ参じる  さん  ことができるよう、街道かいどうをととのえていったのです。いまも鎌倉かまくらには切りどおしの道がたくさんのこっています。
 道はこのようにして、すこしずつととのえられていきました。旅館もたつようになりました。並木なみきのしゅるいはくだもののなる木から、いつかサクラやウメにかわり、さらにスギやヒノキやマツ
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並木なみきへと、かわっていったのです。
 それにしてもくだもののなる並木道なみきみちとは、なんとすばらしいちえだったことでしょう。ドイツにも、むかしはそんな並木道なみきみちがありました。けれどもそれは旅人たちのためにつくられたものではなく、領主りょうしゅたちが、ただ実をとることを目的もくてきに、じぶんの畑の一部として植えたものでした。しかも、日本よりは千年ものちのことだったのです。
 くだもののなる木の並木道なみきみちは、いまでも日本にあります。長野県飯田いいだ市のりンゴ並木なみきは子どもたちが植えそだててきたものです。また茨城いばらき県日立市には、アンズの並木道なみきみちがあります。
 
 「道は生きている」(富山とみやま和子)講談社こうだんしゃ青い鳥文庫より
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a 長文 4.4週 ta2
 自然しぜんってどんな色?」と聞かれたら、何と答えるだろう? たいていの人は、緑色と答えるにちがいないし、実際じっさいみんなそう思っている。だから「水と緑の町づくり」などという標語ひょうごがそこらじゅうに掲げかか られているのである。
 目に入る「自然しぜん」が一望いちぼうすなである砂漠さばくの国でも、水と緑はオアシスの象徴しょうちょうであり、人々はそこに安らぎを感じる。だから水と緑は、人間という動物にもともとしっかり結びついむす   ているものであるらしい。
 たぶんそういう理由からだろう、かつてはずいぶんこっけいなこともおこなわれていた。道路を作るので、草木の緑におおわれたおかに切り通しを作る。新しい道の両側りょうがわは、赤茶けた土そのままのがけで、何ともうるおいがないし、荒れあ た感じがする。それにいつ土が崩れくず てくるかもわからないから、がっちりとコンクリートでおおってしまう。そうなると、ますます味気ない。そこで、とにかく緑にしようということで、コンクリートを緑色に塗っぬ たのである。
 確かたし に少し遠くからは緑にみえる。けれど、所詮しょせんはペンキで緑色に塗っぬ ただけである。人間の感覚かんかくはこんなことではだまされないはずだ。
 昔、モンシロチョウで実験じっけんしてみたことがある。ケージの地面にいろいろな色の大きな紙を敷きし 、チョウがどの色の紙の上をよく飛ぶと かを調べたのだ。やはり緑色の紙の上を、もっとも好んこの 飛ぶと ようであった。なるほど、チョウは緑色であれば紙でもいいのだな、とぼくは思った。
 けれどこれは、チョウチョにはたいへん失礼しつれいな思いちがいであった。ほんものの草を植えた植木鉢うえきばちをたくさん並べなら たら、チョウは緑色の紙など見向きもせず、ほんものの草の上ばかりを飛んと だのである。
 コンクリートを緑色に塗るぬ のはその後まもなくやめになった。やはりほんものの草でなければ、ということはだれにでもすぐにわかっ
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たからだろう。
 だが、それでどうなったか? 次の方法ほうほうは、道路わきの斜面しゃめん法面のりめん)に牧草ぼくそうのたねを播くま ことであった。こうして多くの高速道路の両側りょうがわが、外国産こくさん牧草ぼくそうでおおわれる始末しまつとなった。
 それは見るからにモダンな、最新さいしんのハイウェイという印象いんしょう与えあた たことはたしかだったが、人工の産物さんぶつであることも明らかであった。それはどことなくよそよそしい、疑似ぎじ自然しぜんなのだ。
 同じような擬似ぎじ自然しぜんは、どこにでも見ることができる。
 かつてアフリカのモンバサに行ったときもそうだった。いかにもモンバサらしい熱帯ねったい風景ふうけいの中で、ぼくはついに虫を一ぴきも見ることはできなかった。ホテルの人にたずねたら、たえず殺虫さっちゅうざい撒いま て、退治たいじしていますから、ということだった。
 これも作られた疑似ぎじ自然しぜんである。昼になれば時折ときおりどこからかチョウチョが飛んと でくるけれども、それも偶然ぐうぜんのことにすぎない。南の色濃いいろこ 植物たちがぼくらを包んつつ でいるけれども、それはあたかも観葉植物かんようしょくぶつ園の中にいるのとほとんど同じことだ。観光かんこう客たちはこういう場所にきて、熱帯ねったいの気分を満喫まんきつして帰る。もちろんそれはけっこうなことだけれど、なんだかへんである。
 水と緑のあるゆとりの町づくり、自然しぜんとのふれあい、自然しぜんとの共生きょうせい……ことばはさまざまにあるが、意味しているところは同じである。美しく管理かんりされ、不愉快ふゆかいな「雑草ざっそう」もなく、いやな虫もいない、疑似ぎじ自然しぜん。それをところどころにとり込んこ だ町。つまりそういう町を作ろうということである。
 そこにあるのは「美しい自然しぜん」「調和のある、やさしくてゆとりのある平和な緑」という幻想げんそうだけだ。日本人は昔から自然しぜん愛しあい た、などという誤っあやま 思い込みおも こ 陥らおちい ぬよう、もう少し醒めさ 認識にんしき必要ひつようなのではないか。
 (日高敏隆としたか『春の数えかた』)
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a 長文 5.1週 ta2
 ちえくらべ
「人々をすくうには、くさり戸(地名)の大岩にトンネルをほるしかない。」
 禅海ぜんかいはそう思いました。村々をまわって、村の人たちに協力きょうりょくしてくれるようたのみましたが、だれも本気にしてはくれません。
「あの大岩にあなをあけるなんて、できるはずがない。」
「あのぼうさんは大ぼらふきだ。」
「気がへんだ。」
と、村の人たちはわらうばかりでした。
「しかたがない。それならば一人でほっていこう。」と、禅海ぜんかいは心にきめました。石工いしくの使う「のみ」と「つち」を手にいれると、力いっぱいつちをふりました。岩はほんのひとかけら、かけただけでした。朝からばんまでぜん海は、つちをふりました。くる日もくる日も岩をきざみつづけました。雨の日も風の日も手を休めませんでした。村の人たちはわらいました。
「いよいよほんとうに気がくるった。」
 一年がたちました。岩にはほんのわずかのくぼみができただけでした。村の人たちはまたわらいました。
「一年間ほりつづけて、たったあれだけか。」
 それでも禅海ぜんかいはやめませんでした。くだかれる岩はほんのひとかけらです。しかし、心をこめてきざんでいけば、岩もまたかくじつに、それにこたえてくれるのです。一生かかるかもしれません。完成かんせいしないで死んでしまうかもしれません。それでもじぶんはほりつづけるのだと、禅海ぜんかいはかたく決心していました。
 三年たち、四年たちました。人々はもうわらいませんでした。あなの入り口に、そっと食事をおいてくれるようになりました。しかしそれで、トンネルができようとは、だれも信じしん ませんでした。大岩の長さは百メートル近くもあります。それなのにほったあなは、まだ数メートルです。「きのどくなぼうさんだ。」と、人々は思ったのです。
 十年たちました。二十年になりました。
 禅海ぜんかいはねるまもおしんで、つちをふるいつづけました。暗い岩の中ですわりつづけているので、目も見えなくなりました。足もたたなくなりました。着物はぼろぼろになり、からだはほねと皮ばかりにやせこけて人間かどうかわからないようなすがたになりまし
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た。けれど、どうでしょう。トンネルは、もう半分ほどにほりすすんでいたのです。
 人々の目は、おどろきにかわっていました。それまで、あざわらっていたことを深くはじるようになっていました。人々は考えこんでしまったのです。「たった一人でも、あれだけのことができるのだ。みんなで力をあわせてほっていけば、ほんとうにトンネルができるかもしれないぞ。」と。
 こうしていつか人々も協力きょうりょくするようになりました。お金をだしあって石工たちをよびあつめ、おおぜいで岩にとりくんでいったのです。そしてある日のことです。まっ暗な岩あなに、とつぜん光がさしこみました。トンネルがぬけたのです。岩にぽっかりとあながあき、山国川やまくにがわの流れが、むこうがわに見えました。それは、禅海ぜんかいがほりはじめてから三十年目のことでした。
 禅海ぜんかいが、のみ一本でつくったこのトンネルは、「青ノ洞門どうもん」とよばれています。長さ八十五メートル、はば三・六メートル、高さ二・七メートルのりっぱなトンネルでした。禅海ぜんかいは死ぬと、土地の人たちに手あつくほうむられました。

 「道は生きている」(富山とみやま和子)講談社こうだんしゃ青い鳥文庫より
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a 長文 5.2週 ta2
 道はやさしい道でした
 いまの道は、歩く人には、たいへんきびしい道ですね。あっちを見たり、こっちを見たり、きょろきょろしたりしなければ、自動車がこわくて歩けません。いちばん強い自動車がいちばん大いばりで走っています。弱い歩行者は道のすみで、小さくなって歩いています。
 歩道橋をつくっても、お年よりや病人やからだの不自由ふじゆうな人や、うば車のお母さんはとりのこされてしまいます。いまの道は、弱い立場の人たちのことを、わすれているようです。
 でも、むかしの道はちがいました。弱い人たちにとてもやさしい道でした。
 東京の愛宕山あたごやまの神社のおまいりの坂道は、石段いしだんが急なことで知られています。とちゅうでうしろをふりかえったりすると、目がくらみ、足がすくんでしまいます。よほどの勇気ゆうきをださないと、のぼれない坂道です。ところがその近くにもう一つ、べつの道がつけられてありました。すこし遠まわりになるけれども、ずっとゆるやかな坂道です。そして、このゆるやかな坂道には「女坂」、急な坂道のほうには「男坂」と名まえがつけられてありました。
 なぜ、べつにもう一つ、ゆるやかな道をこしらえたのでしょう。それは、むかしの人たちのやさしい心づかいからでした。神社におまいりをしたいのは、足のじょうぶな人ばかりとはかぎりません。女性じょせいもいれば、お年よりも、子どもたちもいます。からだの弱い人もいます。からだの弱い人たちこそ、じょうぶになるようおまいりをしたいのです。そのような人たちも安心してのぼれるよう、わざわざまわり道をこしらえたのでした。
 東京の上野駅の近くには、湯島天神ゆしまてんじんがあります。天神さまは、菅原道真すがわらのみちざね公をまつった学問の神さまの神社です。ですから受験生じゅけんせいたちは、「しけんに合格ごうかくしますように。」と、おおぜいおまいりにやってきます。この湯島天神にもゆるやかな女坂がつくられています。
 女坂は江戸えど時代に、日本じゅうのあちこちの神社やお寺につくられていきました。おまいりの旅がブームになり、女性じょせいも子どももお年よりも、だれもがおまいりにでかけるようになったとき、弱い人たちのことをみんなで考えあうようになったのです。
 いまでも、女坂がのこされているところが少なくありません。
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でも中には自動車のための道にかわってしまったところもあります。ひょっとしたら、あなたもどこかで女坂を見たことがあるのかもしれません。それともあなたの見た女坂は、もう、いまでは自動車道にかわってしまっているのかもしれません。むかしの人たちの道づくりのやさしい心を、いまのわたしたちももう一度、見なおす必要ひつようがありますね。

 「道は生きている」(富山とみやま和子)講談社こうだんしゃ青い鳥文庫より
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a 長文 5.3週 ta2
 車と人間
 ひとむかしまえまでは、道路は「往来おうらい」とよばれ、歩行者とせいぜい自転車が行き来する、わたしたちのくらしのための場所でした。
 「外であそんでいらっしゃい。」と、お母さんは、子どもたちにいいました。外とは、道のことを意味していたのです。道は、子どもたちのかけがえのないあそび場でもありました。
 屋台のお店がならぶとき、道はマーケットになりました。家の前にえん台をおけば、夕すずみの場所になりました。お客さんとお茶話をする応接間おうせつまにもなりました。道はお母さんたちの井戸いどばた会議かいぎ会議かいぎ場であり、また近所のおじさんたちが集まって、立ち話をする広場でもありました。道はそれほどに、わたしたちのくらしのすみずみとむすびついていたのです。
 その道が、いつのまに、あそんではいけない場所にかわってしまったのでしょう。ならんで歩いても、立ち話をしてもいけない場所になってしまったのでしょうか。自動車が走るようになってから、道はすっかりかわったのです。
 自動車は、とてもべんりなのりものでした。人間は、もうじぶんの足で歩かずに、どこへでもいくことができました。重い荷物もらくらくと、はこぶことができました。また、スピードをあげて走るのは、とても気持ちのよいことでした。
 人々は、このすばらしいのりもののために、道をゆずってあげました。人間は、すみっこのほうを小さくなって歩きました。でこぼこ道は舗装ほそうをし、まがった道はまっすぐにつくりなおしてあげました。さて、自動車が走りやすくなると、だれもが車を使いたくなりました。道はみるまに満員まんいんになりました。
「もっと道を広げたらいい。」
 だれもがそう考えました。家々をたちのかせ、並木なみきをはらい、道を広げていきました。自動車はまた、すいすいと走るようになりました。すいすいと走る車を見ると、ほかの人たちも車がほしくなりました。また自動車がふえました。車は身うごきがとれなくなりました。
「のろのろ走っているのでは、自動車の意味がない。もっと道を広げよう。」
「もう一本、道をつくろう。」
 また家がたちのかされました。路面電車もバスも追いだされて、道は広げられ、車は流れるようになりました。路面電車がなく
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なって、足をうばわれた市民しみんたちは、じぶんで車を運転するようになりました。
 道はまた、車で満員まんいんになりました。そこでもう一本、道が必要ひつようになりました。もう、いたちごっこでした。こうしてみるまに日本じゅうが、車でいっぱいになったのです。
 いまではわたしたちは、車なしでは一日も生きていけなくなっています。毎日使う一まいの紙も、たった一本のえんぴつも、車ではこばれてきます。じゃ口からでる水道の水も、電波で送られてくるテレビの画面も、どこかでかならず、車のおせわになっています。わたしたちのくらしは、自動車で、がんじがらめにされています。
 
 「道は生きている」(富山とみやま和子)講談社こうだんしゃ青い鳥文庫より
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a 長文 5.4週 ta2
 あらためてわが日本語をかえりみると、ただちに気付くきづ のが「わたし」という一人称いちにんしょうの多様さである。日本語ほど一人称いちにんしょう代名詞だいめいしに多くのバラエティを与えあた ている言葉はほかにないのではあるまいか。「わたくし」「わたし」に始まり、「ぼく」、「われ」、「おれ」、「自分」、「手前」、「うち」、「わし」、「それがし」、「吾がわ はい」、「当方」、「こちら」、「小生」、さらに「あっし」とか「あたい」とか、「わて」とか、「おいら」「こちとら」といったものまで加えれくわ  ば、その数、ゆうに二十を越えるこ  という。英語えいごやフランス語、ドイツ語などでは一人称いちにんしょう代名詞だいめいしはそれぞれ、I、Je、Ichたった一語である。それに対して、日本語には、なぜこんなにたくさん「自分」をあらわす言葉があるのか。それは日本人が他の民族みんぞくよりも、ひと一倍「自分」に注意を払いはら 、「自己じこ」に深い関心かんしんを持っていることを語っているのだろうか。
 端的たんてきにいえばそうである。しかし、だからといって日本人に自我じが意識いしきが強いとは必ずしもかなら   いえそうにない。いや、むしろ欧米おうべい人に対して日本人は「自分」を主張しゅちょうすることがずっとひかえめであり、日本では「個人こじん」という意識いしき、「われ」の自覚じかく西欧せいおう人にくらべてかなり遅れおく ているというのが「通説つうせつ」になっている。たしかに日本で個人こじん主義しゅぎ芽生えめば たのは、ようやく第二次大戦たいせん後といってもいい。そして現在げんざい至っいた ても「」の意識いしきはまだまだ希薄きはくで、日本の社会全体は画一主義しゅぎ貫かつらぬ れている。画一主義しゅぎとはぼつ個性こせいてきということであり、要するによう   」が「全体」に埋没まいぼつしてしまっている状況じょうきょうである。それなのに、日本人が他民族みんぞくよりも「自分」に注意を向け、つねに「自己じこ」を意識いしきしているといえるのだろうか。
 じつは日本人の自己じこ意識いしきは他民族みんぞく、たとえば欧米おうべい人のそれとは質的しつてき異なっこと  ているのである。ヨーロッパ人は自分というものを、実体てきにとらえようとする。自分というのは、それこそ、かけがえのない存在そんざいであり、独立どくりつした一人格じんかく信じしん ている。ヨーロッ
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パの哲学てつがくが古代ギリシアのむかしから一貫いっかんして求めもと てきたのは、ただひたすら「自分」というものの本質ほんしつであった。「なんじ自身を知れ!」というデルフォイの神託しんたく哲学てつがくの出発点としたソクラテス、「われ思う、ゆれにわれ在りあ 」を哲学てつがくの原点に据えす たデカルト、「人間とは自分の存在そんざい自覚じかくした存在そんざい者だ」とするキルケゴール……ヨーロッパの哲学てつがくは、「自分」という実体へ向かっての旅だったといってもよい。
 それに対して日本人は自分という一の人間を実体としてではなく、機能きのうとして考えてきた。個人こじんはけっして単独たんどく存在そんざいするのではない。つねに「世間」で他の多勢おおぜいの人たちとさまざまな人間関係かんけいのなかで生きるのだ――というのが日本人の人間かん前提ぜんていだった。げんに「人間」という言葉自体がそうした考え方を正直に語っている。この言葉はいうまでもなく中国から受け入れた漢語であるが、この漢語の意味はもともと人間の世界、すなわち「世間」ということなのである。ところがそれが日本ではいつの間にか「人」そのものをあらわす言葉になった。ということは、日本人にとって「世間」も「人」も同一のように思われていたからにちがいない。日本人は社会と個人こじんを一体化して考えてきたのである。
 日本人はヨーロッパ人のように自然しぜんと対決するのではなく、自然しぜんに親しみ、自然しぜんに同化することによって安らぎをてきた。それと同じことが社会についてもいえる。日本人は欧米おうべい人のように個人こじんを社会に対置たいちすることなく、世間と自分とをひとしなみに表象ひょうしょうしてきたのだ。「渡るわた 世間におにはない」ということわざがその一端いったんを語っている。日本の自然しぜん優しいやさ  山河さんがであるように、日本の世間も――他民族みんぞくの社会とくらべれば――結構けっこう、心安い社会だったからであろう。

 (森本哲郎てつろう『日本語 表とうら』)
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 きぬの道、しおの道
 しおは人間にとっても、ウシやウマにとっても、生きていくためにかかすことができません。食糧しょくりょう保存ほぞんするにも、みそやしょうゆをつくるにも、つけものをつけるにも、むかしからなくてはならないものでした。しおをそまつにすると、目がつぶれる。」むかしの人たちはそういって、しおをたいせつにしたものです。それは、外国でもおなじでした。ヨーロッパやアフリカの国々では、むかし、しおのかたまりが、お金として使われたほどでした。王さまへのみつぎものにも、金や銀や宝石ほうせきや、きぬぬのとおなじように、しおが使われたりしたのです。
 そのしおは、中国やヨーロッパやアメリカでは、地下からとることができました。地下からとるしおは「岩塩がんえん」とよばれ、鉄や石炭などのように、山をほってとりだすのです。けれども日本では、しおは山からはとれませんでした。山国にすむ人たちは、よそからしおをもらわなければ、生きていくことができませんでした。
 さいわい日本は、海にかこまれています。海は、むげんのしお宝庫ほうこでした。そこで海べの人たちは、海水からしおをつくって、山国の人たちにとどけたのです。それが、しおの道でした。
 まず海岸のすなはまに、大きなすなの池をいくつもいくつもつくります。その池に海水をくんで、何日もかけて日にほします。すると水分がじょうはつして、だんだんこい塩水しおみずになっていきます。それをさいごに大きな鉄のかまでにつめるのです。海水を日にほすためのすなの池は「塩田えんでん」とよばれました。瀬戸内海せとないかいや九州や、三陸さんりくの海岸など、日本のあちこちのすなはまで、塩田えんでん風景ふうけいがくりひろげられていきました。
 しおの道は、山のさちと海の幸とを交換こうかんする道でした。山国の人と海べの人とが心をかよわせる道でした。
 しおの道は、日本じゅうのいたるところにありました。日本列島の大部分は山国です。そして海岸ではいたるところでしおがつくられていたからです。
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 山と海とをつなぐ道ならたいていは、しおをはこんだ歴史れきしがあります。たとえば信州しんしゅうの山村には、日本海がわからは、姫川ひめがわにそった糸魚川いといがわ街道かいどうしお売りのウシの列が、ぞろぞろとつづきました。また太平洋がわからは、富士川ふじがわ天竜川てんりゅうがわをさかのぼり、とうげをこえてしおがはこばれていきました。
 みなさんは戦国せんごく時代、上杉うえすぎ謙信けんしんが、てき武田たけだ信玄しんげんしおを送ったという話をきいたことがありますか。信玄しんげん甲斐かいの国(いまの山梨やまなし県)の武将ぶしょうです。甲斐かいの国は山国なので、しおはいつも遠くの海べにたよっていました。ところがそのころ、太平洋がわには、駿府すんぷ(いまの静岡しずおか県)の今川ががんばっていました。一方日本海がわには、越後えちご(いまの新潟にいがた県)の上杉うえすぎがにらみをきかせていました。
 そしてとうとう、おそれたことがおこりました。信玄しんげんをこらしめようと考えた太平洋がわの今川は、甲斐かいへつうずるしおの道を、国ざかいでつぎつぎにふさいでしまったのです。しおの道がたたれるということは、生きていけなくなるということです。甲斐かいの国の人たちはこまりはてました。これを知った日本海がわ上杉うえすぎはきのどくに思いました。上杉うえすぎ謙信けんしん武田たけだ信玄しんげんとはてきどうしです。けれども謙信けんしんは、日本海がわから甲斐かいしおを送ってあげたのです。
 ふだんはてきどうしでも、相手がほんとうにこまったとき、たすけてあげることを「てきしおを送る。」といいますね。それは、この話からきていることばです。
 この話は、道というものがどれほどたいせつなやくわりをはたしたか、よく教えてくれます。
 
 「道は生きている」(富山とみやま和子)講談社こうだんしゃ青い鳥文庫より
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 川の道
 大むかしから山にすむ人たちは、山おくにわけ入って山の木を切りだし、川の水で下流へ送りました。小さな荷物ならば、まがりくねった山道でも、人がかついだり、ウシやウマをのせてはこぶこともできました。けれども重くて長い木材もくざいばかりは、どうしても川の水にたよらねばなりませんでした。木を一本一本谷におとし、谷川を流します。それをとちゅうのゆるやかなところにあつめて、いかだに組みなおし、いかだ流しで下流に送るのです。
 山の木を切りたおすのも、谷におとすのも、いかだ流しをするのも、おおぜいでおこなういのちがけのしごとでした。山村の人たちには、そんなくらしがあったのです。
 「木曽きそのなかのりさあん」といううたがありますね。木曽川きそがわはむかしから、木曽きそヒノキでにぎわった川でした。
 「なかのりさん」とは、いかだ流しをするおじさんたちのことです。「木曽きそのなかのりさあん」といううたは、きけんないかだ流しをするおじさんたちが、いせいよくうたう、しごとのうたです。
 では川の水は下流では、どんなふうに使われたでしょうか。日本の川はあばれ川です。大雨のたび、水はあふれて、平野を水びたしにさせました。そしてすこし日照りひで がつづけば、水はたちまちかれて水不足みずぶそくになりました。大雨のたび、水は山から土砂どしゃをはこんできて、川をあさくさせました。川があさくなれば、つぎの雨では、水はあふれて流れをかえました。
 川があさかったり、水が少なかったり、流れがあっちへいったりこっちへいったりしてうごきまわっているのでは、いかだ流しはできません。船もとおれません。人間もすめません。お米もつくれません。日本の平野は、むかしはそんな不毛ふもうの土地だったのです。
 むかしから日本人は、そのあばれ川をなだめすかして、川をきちんとしたものに、つくりかえていきました。ゆたかな水が、いつもおなじ場所をゆるやかに流れるよう、水の交通整理をしていったのです。
 あばれ川をおさめることを治水ちすいといいます。さて水をおさめると、人々はその川から水をひいて、水田をひらいていきました。これが農業用水です。用水には船もうかべられました。人々は川の水でイネをそだて、そして、とれたお米を川の水で町へとはこんでいったのです。
 お米をはこんでいった船は、町からはなにをつんで帰ってきたで
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しょうか。町で売られている着物や茶わんもありました。おけや草かりがまやほうちょうもありました。毎日使う紙もありました。なによりもたいせつな肥料ひりょうがありました。町の人たちのだすトイレのごみは、むかしはごみではなく、農地のかけがえのない養分ようぶんになったのです。
 
 「道は生きている」(富山とみやま和子)講談社こうだんしゃ青い鳥文庫より
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 おまいりの道
 日光へのおまいりの道は豪華ごうかそのものでした。日光の東照宮とうしょうぐうには徳川とくがわ家康いえやすがまつられています。毎年、春の家康いえやす命日めいにちにはお祭りがおこなわれ、京都からも天皇てんのうのお使いが、はるばるおまいりにいきました。ふつうの人たちも、みんな、でかけていったので、そうでなくとも日光街道かいどうはにぎやかになりました。しかも江戸えど将軍家しょうぐんけにとっては、ご先祖せんぞさまをまつったお宮です。ですから幕府ばくふは全精力せいりょくをかたむけて、りっぱな大名行列をおこないました。江戸えど時代、将軍しょうぐんの日光まいりは十九回おこなわれていますが、さいしょのころは、それでもしっそなものでした。ところがだんだんぜいたくになり、たとえば十代将軍しょうぐん家治いえはるのときには、行列のウマの数だけでも三十五万頭でした。江戸えどから日光まで武士ぶし足軽あしがる人夫にんぷなど人とウマとが、ひとつづきにつづいたといわれています。
 このような大がかりな行列のためには、沿道えんどうの人たちは、五年も六年もまえから準備じゅんびをかさねなければなりませんでした。江戸えどから日光まで三日かかりましたが、将軍しょうぐんの宿にあてられた埼玉さいたま県の岩槻いわつきや、茨城いばらき県の古河こがや、栃木とちぎ県の宇都宮うつのみやのおしろでは、そのためにおしろ修理しゅうりしたりしなければなりませんでした。
 利根川とねがわをわたるために、利根川とねがわには船橋もつくられました。船橋とは、船をつなぎあわせてつくる、水にういた橋のことです。船を五十そうも六十そうもくさりで横につないで、川はばいっぱいにわたします。その上に、あつさ十センチもある大きな板をのせて、はば十五メートルほどの道をこしらえました。板の上にはさらにむしろをあつくしいていきました。その上に土をかぶせていきました。土の上にはすなをのせました。
 このようにして、りっぱな道が水の上につくられたのでした。道の両側りょうがわには、はば数十センチほど、みどりのシバを植えました。ふとくて青いタケも植え、小さなマツも植えていきました。
 なんとみごとな道だったことでしょう。それが、あの大きな利根川とねがわをわたる、水にういたうき橋だったのです。
 橋が水に流されたり、ごみがひっかかったりしないように、上流
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にももう一つ、船をつないだ船橋をつくりました。そこで、川の流れをかんししたり、ごみをひろいあげました。
 橋をつくった人たちは、行列がおわるまで、どんなにか、はらはらしたことでしょう。それは、いのちがけの思いだったことでしょう。この利根川とねがわの船橋は、三年がかりの大工事のすえ、ようやくつくりあげたものでした。しかしせっかくつくりあげた船橋も、行列がおわるとまた、とりはずされました。
 みなさんの中には夏休みに、日光へいく人もあるでしょう。日光街道かいどう例幣使れいへいし街道かいどう天皇てんのうのお使いがおまいりにとおった道)には、いまも一万四千本のみごとなスギ並木なみきがのこされています。そのスギ並木なみきを見たら、むかしその下を将軍しょうぐんたちの行列が、ぞろぞろととおっていったことを思いうかべてみてください。
 
 「道は生きている」(富山とみやま和子)講談社こうだんしゃ青い鳥文庫より
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 お茶わん一ぱいでお米は何つぶありますか? やく三〇〇〇つぶ(〇・五合)だそうです。わたし子供こどものころ、そのなかにときどきすこし黒い小さな斑点はんてんがついたつぶ混じっま  ていました。気がつくと気持ちが悪いので、はしでつまみ出したこともありましたが、たいていは気にしないで食べていました。親が「とりのぞかないと、おなかが痛くいた なるよ」と注意をしたことはなかったからです。いつのまにか、そんな黒い斑点はんてんりゅうはなくなり、真っ白のごはんになりました。
 斑点はんてんりゅう混じっま  ていると、見た目に悪いので、農薬を使って黒い斑点はんてんりゅうがでないようにしているのです。お茶わんに四つぶ(〇・一%以上いじょう)あると、二等米に格下げかくさ になり、が下がってしまうのです。農薬を使わざるをえません。
 お米にいたずらして斑点はんてんりゅうを作るのはカメムシです。ヘクサムシ、ヘコキムシとも呼ばよ れ、触れるふ  悪臭あくしゅうを出して身を守ろうとする、小さな平べったい五角形の虫です。
 夏がすぎいねを出すころ、カメムシは一部の田に飛んと できてちち吸うす ので、被害ひがいにあった一部の田んぼの一部のつぶ斑点はんてんりゅうになります。一〇アール(=一反)の田にはやく二三〇〇万つぶのモミがあるので、この〇・一%は二万三〇〇〇つぶになります。これ以下いかにするには、計算上カメムシを六〇ぴき未満みまんにする必要ひつようがあるので農薬がまかれるのです。
 害虫がいちゅうと聞くと、いねを病気にしたり、収穫しゅうかくりょう減らしへ  たりする「悪い虫」と思いがちです。しかしカメムシはそんなことはしません。収穫しゅうかくりょう減らさへ  ず、人間の健康けんこうをそこねない程度ていどのいたずらです。それさえ人間は許せゆる なくなり、カメムシを害虫がいちゅう仲間なかまに入れてしまったのです。
 いまから三〇年ほど前、都市住民じゅうみんは、カメムシのいたずらをも許せゆる ない自分になっていることに気づかぬまま、農薬のこわさに気づき、「反農薬」を訴えうった 、農薬を使う農業を否定ひていしました。
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百姓ひゃくしょうさんも使いたくて使っているわけではないので、農薬で作ってくれる人が、ごく少数ながらあらわれました。すると農薬を使っている多くのお百姓ひゃくしょうさんが、こんどは「悪い人」に見えてくるのです。農薬を使わざるをえない現実げんじつは知っていても、反農薬の世論せろん押さお れた農業関係かんけい者は、決められたとおりに農薬をまくことを省略しょうりゃくする「しょう農薬」や、濃度のうどをうすくすることを意味する「てい農薬」にしているので不安ふあんに思わなくてよいと反論はんろんしました。
中略ちゅうりゃく
 悪循環あくじゅんかん断ち切るた き ため、福岡ふくおか県農業改良かいりょう普及ふきゅう所に勤務きんむしていた宇根うねゆたかさんは「虫見板」を使い、田のなかにいる虫に改めてあらた  関心かんしんを持ってもらう試みこころ を開始しました。かぶをたたき、虫見板の上に落ちてくる虫を、害虫がいちゅう益虫えきちゅう、ただの虫に見分ける能力のうりょくをまずつけてもらいます。つぎに害虫がいちゅう繁殖はんしょくし、被害ひがいをあたえようとするタイミングを学んでもらい、そのときに農薬をまくように指導しどうしていったのです。それまでよりは時間はかかるけれど、田のなかの自然しぜん関心かんしんを持ち、つきあえる能力のうりょく養っやしな ていくのは楽しいものです。そのうえこわい農薬の使用りょう減りへ 健康けんこうにもよいし、経済けいざいてきにも助かります。防除ぼうじょれきにしたがうと一三回まくところが、二〜四回になった人もいます。これだけの効果こうかがあると、運動は大きくなり、福岡ふくおか県から佐賀さが県へも広がりました。

(森住明弘あきひろ環境かんきょうとつきあう50話』)
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