長文集  2月4週  ○ゆたかみーつけっ  te-02-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/12/14 12:51:29
「ゆたかみーつけっ。真理子みーつけっ」 
 ひろしがさけび、みんないっせいに走りだ
した。駐車場をとびだすと空気がうす青く、
もう夕方がはじまっている。わーっという歓
声があがり、ひろしがカンをけって、今度は
ゆたかが鬼になる。 
 カポーン。あちこちへこんだあきカンが、
まのぬけた音をたててもう一度けられ、鬼を
のこしてみんなかけだした。時夫(ときお)
は、T字路まで走って思い出したように立ち
どまり、くるっとうしろをふりむいた。 
「やっぱり」 
 やっぱり、だった。青屋根のたてものの窓
から、きょうもおばあさんが見ている。青屋
根のたてものは、そこからへい一つへだてた
キャベツ畑のむこうにあった。 
「オレ、ぬける」 
 ぽつんと言って、時夫(ときお)はへいに
よじのぼると、ひょいととびおりた。ほこっ
と土のにおいがする。 
「おい。どこ行くんだ。養老院だぞ」 
 背中ごしにゆたかの声がした。その青屋根
には、ボケてしまった老人がたくさんいるの
で、子供たちはこわがってちかよらないの 
だ。若い女の人の血をすって生きているおば
あさんがいるとか、子供の肉でつくったハン
バーグが大好物のおじいさんがいるとか、い
ろんなうわさがあった。 
 この養老院では週に一度、老人たちに看護
婦さんが何人かつきそって、散歩に行くこと
になっていた。時夫(ときお)とおばあさん
が出会ったのも、そんな散歩の時だった。も
う一ヵ月ほど前になるだろうか。川ぞいの道
でお父さんとキャッチボールをしている時夫
(ときお)を、おばあさんは土手からながめ
ていた。 
「行くぞ、時夫(ときお)」 
 お父さんがそう言ったとき、やおら立ち上
がったおばあさんはとつぜん、大きな声でこ
う言ったのだ。 
「あんた、トキオ、いうんか。わたしはトキ
、いうんじゃよ」 
 びっくりするほどしっかりした足どりで、
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つかつかとちかづいてきたおばあさんは背が
ひくく、日にやけて、やせていた。 ∵
「友達に、なってくれるかの」 
 おばあさんは破顔一笑、そう言った。 
 それから毎日、おばあさんは窓から時夫(
ときお)を見つめていたのだ。あそびに来て
ほしいのかもしれない、時夫(ときお)は何
度もそう思ったが、その勇気はなかった。キ
ャベツ畑のむこうの青屋根といえば、子供た
ちにとって、おばけ屋敷もおんなじだったの
だ。 
 けれども、もう決心した。時夫(ときお)
はぐっと胸をはり、キャベツ畑のまん中の細
い小道を、どんどん歩いていく。 
「もどってこいよ。鬼ばばあがいるぞ。」 
「ハンバーグにされちゃうから」 
 みんなの声が、うしろからきこえていた。
 
 小さな玄関を入り、病院のような待ち合い
室をぬけると階段があり、窓を目印にいくと
、おばあさんの部屋はすぐにわかった。色あ
せた畳の上に冷蔵庫とテレビがおいてある。
時夫(ときお)は帽子をとっておじぎをした
。 
「待っとったよ。これはルームメイトのゆり
こさんに、げんさん に、ひさしさん。これ
は私の友達のトキオ」 
 おばあさんはじゅんぐりに紹介し、冷蔵庫
からジュースをだしてくれた。おばあさんが
「ルームメイト」という言葉を使ったのが、
なんとなくおかしくて、時夫(ときお)は心
の中でくすっと笑い、緊張が、するっとほど
けた。 
「毎日毎日、カンけりしとったなあ」 
 おばあさんが言って、 
「トキさんはまた、それを毎日毎日、見とっ
たなあ」 
 ひさしさんが言った。ひさしさんは白髪(
しらが)頭を短く刈った、色白のおじいさん
だ。 
「見ていると、私もいっしょに遊んでいるよ
うな気がしおってね」 
 おばあさんははずかしそうに笑うのだった
。 ∵
 ゆりこさんと呼ばれたおばあさんは長い髪
を左がわでおさげに編んで、白い浴衣を着て
いた。部屋のすみの赤い座布団の上にすわっ
て、一心にお手玉している。時夫(ときお)
の視線に気がつくと、しずかに、ふわっと笑
った。小さな、白い、あどけない顔だった。
 
「アイスクリームがあるからおあがり。あん
たのために買うといたに」 
 おばあさんが言った。紙のカップに入った
バニラアイスはかちかちにかたまって、冷蔵
庫のにおいがついていた。ずいぶん前から買
ってあったんだな。時夫(ときお)はそう思
いながら、さっきから窓のそばでたばこをす
っている、げんさんというおじいさんの横顔
をちらりと見た。むっつりして、少しこわい
横顔だった。 
「テレビ、みようか。そろそろ大乃国がでる
ころだな」 
 ひさしさんが言った。 
「大乃国? だめだめすもうは桝田山だよ」
 
「おっ、しぶ好みだな」 
 おすもう好きのひさしさんと、やっぱりお
すもう好きの時夫(ときお)とはすっかり意
気投合し、ハンバーグなんてうそばっかり、
と、時夫(ときお)は心の中でつぶやいた。
 

(江國(えくに)香織「つめたいよるに」)