長文 2.4週
1.「ゆたかみーつけっ。真理子みーつけっ」 
2. ひろしがさけび、みんないっせいに走りだした。駐車ちゅうしゃ場をとびだすと空気がうす青く、もう夕方がはじまっている。わーっという歓声かんせいがあがり、ひろしがカンをけって、今度はゆたかがおにになる。 
3. カポーン。あちこちへこんだあきカンが、まのぬけた音をたててもう一度けられ、おにをのこしてみんなかけだした。時夫ときおは、T字路まで走って思い出したように立ちどまり、くるっとうしろをふりむいた。 
4.「やっぱり」 
5. やっぱり、だった。青屋根のたてもののまどから、きょうもおばあさんが見ている。青屋根のたてものは、そこからへい一つへだてたキャベツ畑のむこうにあった。 
6.「オレ、ぬける」 
7. ぽつんと言って、時夫ときおはへいによじのぼると、ひょいととびおりた。ほこっと土のにおいがする。 
8.「おい。どこ行くんだ。養老ようろう院だぞ」 
9. 背中せなかごしにゆたかの声がした。その青屋根には、ボケてしまった老人ろうじんがたくさんいるので、子供こどもたちはこわがってちかよらないのだ。若いわか 女の人の血をすって生きているおばあさんがいるとか、子供こどもの肉でつくったハンバーグが大好物こうぶつのおじいさんがいるとか、いろんなうわさがあった。 
10. この養老ようろう院では週に一度、老人ろうじんたちに看護婦かんごふさんが何人かつきそって、散歩さんぽに行くことになっていた。時夫ときおとおばあさんが出会ったのも、そんな散歩さんぽの時だった。もう一ヵ月かげつほど前になるだろうか。川ぞいの道でお父さんとキャッチボールをしている時夫ときおを、おばあさんは土手からながめていた。 
11.「行くぞ、時夫ときお」 
12. お父さんがそう言ったとき、やおら立ち上がったおばあさんはとつぜん、大きな声でこう言ったのだ。 
13.「あんた、トキオ、いうんか。わたしはトキ、いうんじゃよ」 
14. びっくりするほどしっかりした足どりで、つかつかとちかづいてきたおばあさんはがひくく、日にやけて、やせていた。∵ 
15.「友達ともだちに、なってくれるかの」 
16. おばあさんは破顔一笑はがんいっしょう、そう言った。 
17. それから毎日、おばあさんはまどから時夫ときおを見つめていたのだ。あそびに来てほしいのかもしれない、時夫ときおは何度もそう思ったが、その勇気ゆうきはなかった。キャベツ畑のむこうの青屋根といえば、子供こどもたちにとって、おばけ屋敷やしきもおんなじだったのだ。 
18. けれども、もう決心した。時夫ときおはぐっとむねをはり、キャベツ畑のまん中の細い小道を、どんどん歩いていく。 
19.「もどってこいよ。鬼ばばおに  あがいるぞ。」 
20.「ハンバーグにされちゃうから」 
21. みんなの声が、うしろからきこえていた。 
22. 小さな玄関げんかんを入り、病院のような待ち合い室をぬけると階段かいだんがあり、まど目印めじるしにいくと、おばあさんの部屋はすぐにわかった。色あせたたたみの上に冷蔵庫れいぞうことテレビがおいてある。時夫ときお帽子ぼうしをとっておじぎをした。 
23.「待っとったよ。これはルームメイトのゆりこさんに、げんさんに、ひさしさん。これはわたし友達ともだちのトキオ」 
24. おばあさんはじゅんぐりに紹介しょうかいし、冷蔵庫れいぞうこからジュースをだしてくれた。おばあさんが「ルームメイト」という言葉を使ったのが、なんとなくおかしくて、時夫ときおは心の中でくすっと笑いわら 緊張きんちょうが、するっとほどけた。 
25.「毎日毎日、カンけりしとったなあ」 
26. おばあさんが言って、 
27.「トキさんはまた、それを毎日毎日、見とったなあ」 
28. ひさしさんが言った。ひさしさんは白髪(しらが頭を短く刈っか た、色白のおじいさんだ。 
29.「見ていると、わたしもいっしょに遊んでいるような気がしおってね」 
30. おばあさんははずかしそうに笑うわら のだった。∵
31. ゆりこさんと呼ばよ れたおばあさんは長いかみを左がわでおさげに編んあ で、白い浴衣ゆかたを着ていた。部屋のすみの赤い座布団ざぶとんの上にすわって、一心にお手玉している。時夫ときお視線しせんに気がつくと、しずかに、ふわっと笑っわら た。小さな、白い、あどけない顔だった。 
32.「アイスクリームがあるからおあがり。あんたのために買うといたに」 
33. おばあさんが言った。紙のカップに入ったバニラアイスはかちかちにかたまって、冷蔵庫れいぞうこのにおいがついていた。ずいぶん前から買ってあったんだな。時夫ときおはそう思いながら、さっきからまどのそばでたばこをすっている、げんさんというおじいさんの横顔をちらりと見た。むっつりして、少しこわい横顔だった。 
34.「テレビ、みようか。そろそろ大国がでるころだな」 
35. ひさしさんが言った。 
36.「大国? だめだめすもうは桝田ますだ山だよ」 
37.「おっ、しぶ好みこの だな」 
38. おすもう好きす のひさしさんと、やっぱりおすもう好きす 時夫ときおとはすっかり意気投合し、ハンバーグなんてうそばっかり、と、時夫ときおは心の中でつぶやいた。 

39.(江國えくに香織かおり「つめたいよるに」)