長文 1.1週
1.【1】「いってきまあす。」
2.
私は冬休みの間、毎日
寝坊していたので、学校が始まって朝起きるのがとてもつらい。八時に出てギリギリなので、七時四十五分に起きた今朝は、とてもあせった。
3. 【2】毎朝、となりの
棟の
真衣ちゃんとマンションのエントランスで待ち合わせしているのだが、今日は
約束の五十分には間に合うはずもない。大急ぎでしたくをして、家を出たら、八時を少し
過ぎてしまった。
4. 【3】ハアハア。小走りで学校に向かう。気がつくと、マフラー、
手袋はおろか、なんとコートまで
忘れてしまった。今朝は
特に冷え込む朝だと言うのに。取りに
戻る時間はない。
炎を
吐く龍のように、口から息が白く出てくる。ハアハア、ハアハア。【4】ランドセルの中のペンケースがカタッカタッとリズミカルに
踊る。
私の耳はキーンと
冷えて
感覚がなくなっている。手の指もしびれたようになってきた。く、苦しい。
私は休まずに走り
続けた。
周りの
景色が後ろに
飛んでいく。
5. 【5】やっとの思いで
昇降口に入ると、その時、チャイムが鳴った。まだ安心はできない。これから三階までかけのぼらなければならないのだ。
廊下や
階段を走ってはいけないことはわかっているが、この
際しかたがない。【6】と、全速力で行こうとした時、後ろから、
6.「山根さん、おはよう。」
7.と、
担任の中田先生に声をかけられた。あせった。しかし、先生といっしょに行けば
遅刻はまぬがれる。
私は、先生と
並んで歩くかっこうになった。
8.【7】「今朝は本当に寒いわねえ。あら、山根さん、上着も着ないでずいぶん
薄着ね。寒くなかったの?」
9.「あ、は、はい。
薄着って言うか……。」
10.「でもね、先生が小学生の
頃に
比べたら、今は冬もずいぶん
暖かくなったわよ。」∵
11. 【8】先生によると、昔は、冬になると朝は決まって
霜柱や氷が
張り、東京でも
窓にはつららが見られたそうだ。手足の指は
霜焼けになって、
ひび割れやあかぎれで
皮膚がピリピリしたと言う。さらに、そんなに寒いのに男の子はみんな半ズボンでかけまわっていたらしい。【9】昔は、そんなに寒かったんだ。今の寒さなんてたいしたことないんだ。心の中でそう思うと、
私はコートも着ていないのに寒さを感じなくなっていた。そして、
凍りつきそうだった耳もほっぺたも、
校舎の中のほっとするような
暖かさの中で、ほてり始め、
溶け出しそうだった。
12. 【0】
廊下や
階段にいた
生徒は、みんな教室に
吸い込まれ、三階に着いたときには、
誰もいなくなっていた。先生がふと、
私を見た。
13.「そういえば、あなた今日は
寝坊?
遅刻じゃない?」
14.それを
最後まで聞かないうちに、
私はぴょんと、
扉が半分開いていた教室に
飛び込んだ。
15.「セーフ!」
16.そして先生に向かって、両手を大きく開いてみせたのだった。
17.(言葉の森
長文作成委員会 φ)
長文 1.2週
1. 【1】カブトムシやクワガタの生活する
雑木林では、ミヤマカミキリ、ノコギリカミキリなどの
大型の
種から、サビカミキリの
仲間の小さな
種まで、さまざまなカミキリムシが生活しています。【2】細い
枯れ枝の一部に小さな
孔があいていたり、木のかじりくずがもりあがってでていれば、たいていは、カミキリムシがいるか、でたあとと見てよいでしょう。
2. このような
枯れ木は、
樹皮があっても中は
完全に食いあらされ、かんたんに
折れてしまいます。【3】カミキリムシの
幼虫は、
樹の皮の部分だけのこして、中を食べてトンネル
状にしてしまいます。その一部に白いイモムシが入っているので、ちょうど、
鉄砲の中に
弾をこめたように見えるので、
鉄砲虫ともよばれます。
3. 【4】このような食べ方をしますから、ヒトがだいじに育てている
樹木についたとなると、やはり
害虫にされてしまいます。たとえば、シロスジカミキリの
幼虫はイチジクの
樹をよく食べます。子どもがイチジクの実をとりに
樹に登ると、
枝の中が、がらんどうで
折れてしまうことがあり、やはり
嫌われる
資格は、じゅうぶんにあります。
4. 【5】キボシカミキリ、クワカミキリ、トラフカミキリなどは、クワにつくので
養蚕家は
嫌います。クロカミキリ、マツノマダラカミキリはマツにつきますから、一時、マツの
立ち枯れの
原因として大さわぎされました。【6】このような
状態は、森林の
害虫とよばれてもしかたのない面もありますが、そうではない見方もできます。
5. 前に
枯れ木に多いといいました。
枯れた木が、そのまま林の中にごろごろしていると、後から新しい
木の芽がでるのをじゃますることになります。【7】
枯れ木はなるべく早く
分解して、新しい木を生やしたほうが、森林にとってはぐあいのよいことです。
枯れ木を食べる
昆虫は、この
枯れ木や
倒木の
分解を早める
働きをします。ようするに森林の中のそうじ屋になるのです。
6. 【8】この点では、けっしてわるい虫ではありません。林の
樹木の∵
若返り、つまり森林の
若さを
保つ働きをしています。同時に、この
幼虫たち、あるいは
成虫も、トリや小さなケモノの食べ物にもなりますから、森林の
自然の一部としてのぞくことはできません。
7. 【9】マツの
害虫と考えられているマツノマダラカミキリについても、おもしろいことがわかっています。たしかに、このカミキリムシの
幼虫はマツの
材部を食べあらします。この点は
害虫とよばれてもしかたのないことです。【0】ところが、生きている
樹木についた
幼虫は、中心の
材部を食べても、
樹皮と
材部のあいだにある、水や
養分の通る
管のあるところは、あまり食べないものです。
8. というのは、ここを早く食べてしまうと、
樹が弱るのも早くなって、自分の食べ物をだめにしてしまう
危険性があるからです。ようするに、なるべく
樹自体は長生きさせながら、あまり植物の
成長に
関係しない場所を食べているのです。ですから、マツの中でカミキリが少しばかり食べても、それほど急に、
樹がだめになることはありません。
9. (「いい虫わるい虫」
奥井一満 日本少年文庫より)
長文 1.3週
1. 【1】いまから三十七年あまり前、ちょうど、第二次世界
大戦が終わって、アメリカと日本のあいだで、
物資やヒトの
移動がさかんになりました。この時、アメリカから、小さな白いガが日本に
侵入してきました。【2】おそらく、サナギが荷物の一部にくっついて日本に
渡り、こちらで羽化したのでしょう。
2. このガは日本の
環境にうまくあったのか、たちまちふえはじめました。これがアメリカシロヒトリです。そして
幼虫は、
街の中の
樹の葉を
丸坊主にしていきました。【3】その後、日本の
各地で、この
昆虫の大発生が見られるようになりましたが、やがてまた、あまり見られなくなりました。いまでは、時々、かぎられた
地域で発生するのが、見られるていどになりました。
3. 【4】このガの
幼虫は、ふ化すると
最初は
網を
張り何百
匹もの小さなケムシが
集団で
網の中で生活しながら葉を
丸坊主にしていきます。サクラ、クワ、イチョウ、プラタナス、クヌギなど、なんでも食べ、このままふえると、日本中の
樹の葉を食べつくしてしまうのではないかと思えるほどの
勢いでした。
4. 【5】ところが、このケムシは、
成長すると
網の中から出て、
単独で歩きまわり葉を食べるようになります。そしてじゅうぶん
成長した
幼虫が、
樹の皮の下や、
割れ目の中などに入ってサナギになります。【6】そしてつぎの
成虫が羽化しますが、この
成虫は、あれほどたくさんいた
幼虫ほどの数がいません。そしてつぎの
幼虫は、そんなに多くはならないのです。
5. バッタの大発生のようなことにはけっしてなりません。【7】また、このガは都会の中にはよく見られても、森林の
害虫になって、山の
樹々を食べつくしたことは一度もありません。
6. じつは、このガの
幼虫が、
網から出て
散らばって活動をはじめると、スズメやそのほかのトリにほとんど食べられてしまうのです。【8】トリのほか、クモやカマキリ、アシナガバチなどにも食べられてしまいます。じっさいには、〇・五パーセントていどの
生存率∵といわれますから、二百
匹のうち一
匹だけが生きのこることになります。
7. 【9】
成虫は、八百から千
個ほどの
卵を
産みますから、一つの親からせいぜい四、五
匹の子どもが生きのこることになるのでしょう。これでもよくのこるほうで、じっさいにはもっと少なくなります。ですから、とても大発生を
続けることにはならないのです。【0】まして、森林や山にはトリやほかの
昆虫がたくさんいますから、みんな食べられてしまうので、森林の中まで
侵入する力がないのです。都会で目立つのは、この
幼虫を食べる、トリやクモが少ないことを意味しているのです。
8. また、この
幼虫は葉を食べるだけで、
樹そのものは
害しません。
樹は
勢いさえよければ、葉を食べられても、つぎの年の春には新しい
芽からまた葉をつけていきます。
樹の
寿命が活発であるかぎり、葉が食べられても、それほど大きな
被害にはならないのです。
9. ある先生は、このガの
生態を
観察しているうちに、それほど
恐ろしい昆虫でないことがわかり、「アメリカシロヒトリなんて三流
害虫さ」といいました。
私たちの目にいかにも大きな
害をあたえそうに見える
昆虫でも、
自然界の中ではたいした
存在ではないのです。
10. このことから考えさせられることは、「トリやクモの住めないような世界こそ
恐ろしい」ということです。アメリカシロヒトリは、そんなすき間をねらって葉を食べているのです。
11. (「いい虫わるい虫」
奥井一満 日本少年文庫より)
長文 1.4週
1.
誰だって
失敗なんかしたくない。
2.
失敗することははずかしいことだと思っている。だから、なるべくなら
失敗しないように、細心の注意をはらう。 (
中略)
3.
失敗することは、そんなに悪いことなんだろうか。そんなにはずかしいことなんだろうか。
4.
私のところにアルバイトにきてくれていた女の子は、とても
優秀で、なにをしても
完ぺきに近い仕事ぶりだった。
5. そんな
彼女だから、たまには小さなミスでもして、注意されたりすると、さぁたいへん、
全然たいしたことでもないのに、ぽろぽろと
涙を流し、その日は一日中落ちこんでいる。
6. これでは注意したほうもたまらない。「これ、まちがってるんじゃない?」と言い、「あっ、そうか。いっけなーい」ですんじゃう会話が、
突然泣きだされ、あげくにしょんぼりされてしまってはなにも言えなくなってしまう。
7.
実際、おこられることを
極端に
恐れる人がいる。おこられると思っただけで
心臓がとまりそうになったり、じんわりと
涙がうかんできたり……。
必要以上に反発する人もいる。そういう人たちは、心のどこかで、自分がおこられるようなことをするはずがない、おこられたりする自分はゆるせない、と思っているのではないだろうか。
8.
私が
出版社で
働いていたころ、おこられない日は一日もなかった。
9. 作業がおそいといってどなられ、センスがないといってののしられ、ミスでもしようものなら、「バカヤロー」と大きな
雷が落ちた。 いちいち気にしていたり、落ちこんでいたりしたら、三日もつづかなかっただろうと思う。
10. もちろん、あまりおこられるので、自分はこの仕事にむいていないのではないかと、けっこう
真剣に
悩んだこともあったけれど、なにより、それでもこの仕事が
好き、という気もちが
優先した。
11. それなら、おこられるにしても、おなじことでおこられないようにしよう。そのための
改善策を考えるしかない。∵
12. 作業がおそいのは、
手順が悪いせいではないか。センスが悪いといわれるのは、
想像力がかけているからではないか。ミスが多いのは、あせりながらとりかかっているせいではないか……。
13. おこられるポイントを、ひとつずつ整理して考えていくと、
案外挽回できるものだ。少しずつだけど、おこられる回数もへってくる。あげく、
私のことをどなりつづけた
雷オヤジから、こう言われた。
14.「おまえって、ほんとにおこりがいのあるやつだな。おまえみたいなのをおこるのは、楽しくってしかたがない」
15.「どういうことですか!」
16. さすがにむっとなる。人の気も知らないで、楽しいとはなにごとか。
17.「あのな。よーくおぼえておけよ。人はおこられなくなったら終わりだ。おこられることは自分をのばすチャンスなんだ。だから、おこられなくなったら、自分が見はなされたか期待されていないと思え」
18.
彼はそう答えた。それから、
私もだんだん年をかさねて、人に注意する立場になったとき、
彼が言ったことの意味がよくわかった。
19. こちらが注意して、すぐに
泣いたり、落ちこんだり、言いわけばかりする人のことは、もう二度と注意なんてしたくないと思う。
20. それより、多少
優秀じゃなくっても、おこられたことを
逆手にとってがんばる人のほうに注目する。そしてそういう人のほうが、
確実にのびるのだ。
21. なぜ
失敗したのか。どうしておこられたのか。
22. その理由を考え、それじゃぁこうしてみようと思うからこそ、つぎにつながる。そうして
成長していくのではないだろうか。
23.(
倉橋耀子「くよくよしないで、
笑っちゃえ!」)
長文 2.1週
1. 【1】ぼくは、学校では体も大きいほうだし、声も大きいからちょっといばっています。ドラえもんに出てくるジャイアンみたいだと悪口を言う子もいるくらいです。今はもう、四年生だから、
最近はあまりしないけれど、
低学年のころはしょっちゅうケンカをして、
友達を
泣かせていました。【2】それに大きい兄さんがニ人もいるので、みんなよりいろいろな遊びや
情報も知っていて、そういう点でもクラスの中ではちょっとリーダー
的な
存在かもしれません。
2. しかし、うちでは「
末っ子の
甘えん坊」と言われています。【3】兄さんニ人は年が近いのですが、ぼくは下の兄さんより八
歳も下なのです。だから、もう十
歳を
過ぎたのにときどき赤ちゃん
扱いされます。
特に、お母さんは、
3.「ひろちゃんはまだ小さいから。」
4.と、口ぐせのように言います。【4】もうとっくに
背はお母さんを
追い越しているのにです。
5. 先月の終わりごろ、真ん中の兄さんが、
6.「ひろさあ、母さん病院だし、今年は
節分やらなくてもいいよな。」
7.と、ぼそっと言いました。【5】お母さんは、
年末に具合が悪くなって、
緊急手術をし、今も入院しています。お医者さんから、病気の名前やどんな病気かを聞いたけれど、むずかしくてよくわかりませんでした。それより、病気になった理由が「
働きすぎ」だったのではないかと気になっています。【6】もともとあまり体がじょうぶではなかったのに、三人も男の子を生んで育てているので、とても
大変だったのだと思います。いつも、お母さん、もっと休めばいいのになあと思っていたのに、あまり休めないから、
無理がいったのだと思います。
8. 【7】ぼくは心の中で、
節分をやらないと幸せな一年が
過ごせないかもしれないと思い、少し心配になりましたが、
9.「うん、そうだね。おれは学校でも豆まきあるからいいし。」
10.と、強がって言いました。すると兄さんは、うなずいてバイクででかけてしまいました。∵
11. 【8】それなのに三日の夜になって、
突然バタバタと兄さんたちが帰ってきて、ぼくにマスに入った豆をもたせると、
12.「さあ、ひろ、かかってこい。」
13.と言うのです。マジックで
雑に
描いた
鬼のおめんをつけています。【9】ぼくは、大きな声で、
14.「
鬼は、外、福は、うち。」
15.と、兄さん
鬼に豆をぶつけました。
鬼は外、お母さん帰ってきて。心の中でそう
叫ぶと、
涙がぽろりとこぼれそうになり、ぼくはあわてて目をこすりました。【0】
16.(言葉の森
長文作成委員会 φ)
長文 2.2週
1. 【1】バッタの
害で有名なのは、日本より外国です。イナゴより一まわり大きいトビバッタの
仲間、日本ではダイミョウバッタとよんでいる
大型のバッタが、時々大発生をします。
2. アフリカ、インド、アメリカ、中国など、
大陸で起きます。【2】『
聖書』の中にも、東風がバッタの
大群を運んできて、
豊かな土地の植物を食べあらしていくことが書かれています。この
大群は、日本では
想像のできないような大きなものです。
3. 【3】たとえば、東アフリカで発生した
群は、先頭の
群のはばが一・六キロ、
厚さが三〇メートルになり、時速一〇キロのスピードで、
群が
通り過ぎるのに九時間かかった、というような
記録があります。【4】また、南アルジェリアで発生した
群が、三〇〇〇キロ
以上、風に乗って
移動し、イギリスまで
到着したという
記録もあります。
4. たいへんな数字で、もしこんなことが日本で起きたら、日本の農作物は、数日のうちに
全滅してしまうでしょう。
5. 【5】どうしてこんなことが起きるのか、だんだんわかってきました。このような大発生と大
移動をするバッタは、ダイミョウバッタの
仲間の、サバクバッタや、ロッキートビバッタなど、七
種ほどのバッタですが、いずれも、一つの
種が、
移動したり、しなかったりをくり返しているのです。
6. 【6】
移動しない時のバッタを
単独相のバッタとよび、
性質はおとなしく、体は緑色が多くて、一
匹一
匹草を食べて生活しています。ところが
移動するバッタは、
群集相のバッタとよばれ、
性質があらく、なんにでもかみつくようになり、
群がって生活し、体は黒っぽい色になって
翅が長くなります。
7. 【7】どうして一つの
種で、こんなちがいがでてくるかというと、まず第一は、ある
地域で、よい
条件の下で生活しているバッタから出発すると考えられています。∵
8.
条件がよいというのは、
気候がよく、食べ物が
豊富にあることを意味します。【8】こんな土地では、生まれた
個体がよく育ち、
成長のとちゅうで死ぬ数が少ないので、だんだんと数がふえることになります。
9. 数がふえれば、その
地域にいるバッタが、
仲間と出会う
率が高くなり、とうぜん、オスとメスの出会う
率も高く、たくさん、
卵を
産むことになります。【9】そのうえ、おたがいが
接触することが
刺激になって、体の中でのホルモンの
働きが活発になり、
卵の発育が早く、
単独相のバッタより短い期間で、
産卵をはじめるようになります。
10.
気候がよいから、つぎつぎに
若いバッタが生まれ、数はどんどんふえることになります。【0】数がふえればだんだん食べ物が少なくなります。すると、
我先にと草を食べるようになり、
競争が
激しくなります。
性質があらくなるのは、
競争に負けないようにするためでしょう。
11. (「いい虫わるい虫」
奥井一満 日本少年文庫より)
長文 2.3週
1. 【1】カもハエと同じ、二
枚翅の
昆虫です。これも新しい虫で、
成虫が地上を
飛びまわるのに、
幼虫は水の中の生活です。だいたい、動物は、水中生活から
陸上へと
移ってきたものです。
昆虫も進化が進むほど、
陸上生活をするものになります。【2】その中で、もう一度、
幼虫が水の生活にもどったことになりますから、カはよほど生活の場がなかったのでしょう。しかも、小さな体で短い一生ですから、ヒトの血を
吸わないかぎり、まったく目につかない
昆虫ですんだはずです。
2. 【3】血を
吸うカはメスです。オスは血を
吸わず、
樹にたまった水を
吸ったり
熟した
果物の
液を
吸うだけです。メスは
卵を
発達させたり、
卵を
産む時、水の上に
浮かべる卵がばらばらにならないように、
卵をくっつけるために、動物の
血液を
利用するのです。あの小さな体ですから、一
匹のカが
吸う血の
量はわずかです。
3. 【4】それでも
刺されれば
不快ですから、追いはらわれます。まして、ヒトからヒトへ
血液を
吸うたびに、病原体を持っていたヒトのウイルス(
日本脳炎ウイルスとかマラリア原虫)などを
媒介するとなれば、それがコガタアカイエカやハマダラカにかぎられるといってもカ全体がわる者にされてしまいます。【5】じっさいには血を
吸わないカもいますし、ヒトとまったく
関係のないカのほうが多いのです。ユスリカのように生物学の
実験材料に使われるものさえいるのです。
4. ところで、動物の
血液は体の外にでると、すぐ
固まって、流れでるのをふせぐようになっています。【6】小さなカが口で
刺した時、
血液が
固まってしまうと、口がつまってしまいます。そこで、カは、
血液を
溶かす物質を持っていて、これを
混ぜて
吸うのです。カに
刺されたあとがかゆいのは、この
物質がヒトの体の中にのこり、じゃまをするからです。
5. 【7】かゆいので、かけば、それだけ
散らばりますから、よけいかゆ∵くなります。カの方はじゅうぶんに血を
吸うと、この
液もださなくなり、
飛びさりますから、とちゅうでたたかずに血をわけてやったほうがかゆみは少ないのです。【8】それまでがまんできない場合のほうが多いのですが……。
6. カを研究している人たちは、一日のうちに一回、カのカゴの中に
腕を入れ、なん百
匹ものカに血を
吸わせます。それでもヒトにはなにも起きません。【9】病気のもとがないかぎり、カは、けっして、こわい虫でもなんでもありません。
恐ろしいのはよごれた
環境のほうでしょう。
7. ところで、あの小さなカが
飛んでいる時には、ブーンという耳ざわりな音がします。【0】夏の夜、
寝ているところでは気になる羽音ですが、あれは
仲間に自分の場所を知らせる音です。メスがえさを
求めて
飛ぶ羽音をたよりに、オスがやってきて
交尾します。同じような
振動音の
音叉をならすと、これにオスがいっぱい
寄ってきます。また、ヒトにかぎらず動物が
呼吸で
排出する
炭酸ガスは、カをひきつけます。ドライアイスの
煙は
炭酸ガスですから、これでカを集める
方法もあります。
8. (「いい虫わるい虫」
奥井一満 日本少年文庫より)
長文 2.4週
1.「ゆたかみーつけっ。真理子みーつけっ」
2. ひろしがさけび、みんないっせいに走りだした。
駐車場をとびだすと空気がうす青く、もう夕方がはじまっている。わーっという
歓声があがり、ひろしがカンをけって、今度はゆたかが
鬼になる。
3. カポーン。あちこちへこんだあきカンが、まのぬけた音をたててもう一度けられ、
鬼をのこしてみんなかけだした。
時夫は、T字路まで走って思い出したように立ちどまり、くるっとうしろをふりむいた。
4.「やっぱり」
5. やっぱり、だった。青屋根のたてものの
窓から、きょうもおばあさんが見ている。青屋根のたてものは、そこからへい一つへだてたキャベツ畑のむこうにあった。
6.「オレ、ぬける」
7. ぽつんと言って、
時夫はへいによじのぼると、ひょいととびおりた。ほこっと土のにおいがする。
8.「おい。どこ行くんだ。
養老院だぞ」
9.
背中ごしにゆたかの声がした。その青屋根には、ボケてしまった
老人がたくさんいるので、
子供たちはこわがってちかよらないのだ。
若い女の人の血をすって生きているおばあさんがいるとか、
子供の肉でつくったハンバーグが大
好物のおじいさんがいるとか、いろんなうわさがあった。
10. この
養老院では週に一度、
老人たちに
看護婦さんが何人かつきそって、
散歩に行くことになっていた。
時夫とおばあさんが出会ったのも、そんな
散歩の時だった。もう一
ヵ月ほど前になるだろうか。川ぞいの道でお父さんとキャッチボールをしている
時夫を、おばあさんは土手からながめていた。
11.「行くぞ、
時夫」
12. お父さんがそう言ったとき、やおら立ち上がったおばあさんはとつぜん、大きな声でこう言ったのだ。
13.「あんた、トキオ、いうんか。わたしはトキ、いうんじゃよ」
14. びっくりするほどしっかりした足どりで、つかつかとちかづいてきたおばあさんは
背がひくく、日にやけて、やせていた。∵
15.「
友達に、なってくれるかの」
16. おばあさんは
破顔一笑、そう言った。
17. それから毎日、おばあさんは
窓から
時夫を見つめていたのだ。あそびに来てほしいのかもしれない、
時夫は何度もそう思ったが、その
勇気はなかった。キャベツ畑のむこうの青屋根といえば、
子供たちにとって、おばけ
屋敷もおんなじだったのだ。
18. けれども、もう決心した。
時夫はぐっと
胸をはり、キャベツ畑のまん中の細い小道を、どんどん歩いていく。
19.「もどってこいよ。
鬼ばばあがいるぞ。」
20.「ハンバーグにされちゃうから」
21. みんなの声が、うしろからきこえていた。
22. 小さな
玄関を入り、病院のような待ち合い室をぬけると
階段があり、
窓を
目印にいくと、おばあさんの部屋はすぐにわかった。色あせた
畳の上に
冷蔵庫とテレビがおいてある。
時夫は
帽子をとっておじぎをした。
23.「待っとったよ。これはルームメイトのゆりこさんに、げんさんに、ひさしさん。これは
私の
友達のトキオ」
24. おばあさんはじゅんぐりに
紹介し、
冷蔵庫からジュースをだしてくれた。おばあさんが「ルームメイト」という言葉を使ったのが、なんとなくおかしくて、
時夫は心の中でくすっと
笑い、
緊張が、するっとほどけた。
25.「毎日毎日、カンけりしとったなあ」
26. おばあさんが言って、
27.「トキさんはまた、それを毎日毎日、見とったなあ」
28. ひさしさんが言った。ひさしさんは
白髪頭を短く
刈った、色白のおじいさんだ。
29.「見ていると、
私もいっしょに遊んでいるような気がしおってね」
30. おばあさんははずかしそうに
笑うのだった。∵
31. ゆりこさんと
呼ばれたおばあさんは長い
髪を左がわでおさげに
編んで、白い
浴衣を着ていた。部屋のすみの赤い
座布団の上にすわって、一心にお手玉している。
時夫の
視線に気がつくと、しずかに、ふわっと
笑った。小さな、白い、あどけない顔だった。
32.「アイスクリームがあるからおあがり。あんたのために買うといたに」
33. おばあさんが言った。紙のカップに入ったバニラアイスはかちかちにかたまって、
冷蔵庫のにおいがついていた。ずいぶん前から買ってあったんだな。
時夫はそう思いながら、さっきから
窓のそばでたばこをすっている、げんさんというおじいさんの横顔をちらりと見た。むっつりして、少しこわい横顔だった。
34.「テレビ、みようか。そろそろ大
乃国がでるころだな」
35. ひさしさんが言った。
36.「大
乃国? だめだめすもうは
桝田山だよ」
37.「おっ、しぶ
好みだな」
38. おすもう
好きのひさしさんと、やっぱりおすもう
好きの
時夫とはすっかり意気投合し、ハンバーグなんてうそばっかり、と、
時夫は心の中でつぶやいた。
39.(
江國香織「つめたいよるに」)
長文 3.1週
1.【1】「今日のお代わりは、三
班さあん。」
2. 日直の声で、三
班の五人はいっせいに立ち上がりました。今日は、フルーツヨーグルトサラダの日。
給食の中でもデザート
系は
特に人気です。【2】
昨日は
私のニ
班がお代わり
優先の日だったのですが、メニューは大
好物のスパゲティ・ミートソースでした。肉じゃがや、カレー、エビチリ、ビビンバなどが出る日は、みんな
大好きなのでほかの
班までお代わりがまわりません。【3】
給食は、ほとんど毎日おいしいです。魚が出る日はちょっとがっかりしますが、
給食の魚は食べやすいので
残しません。
3.
私は、学校にあがる前は、とても食が細くて、体も小さかったのですが、
給食のおかげで大きくなったと母がいつも言います。【4】
給食がおいしいこともあるけれど、
大勢で食べるからたくさん食べられるのかなあと思います。うちでは、兄弟がいないし、お父さんは仕事で
遅いので、たいがいお母さんと二人っきりのごはんなのです。
4. 【5】
昨日、お母さんに小学生のころの
給食の話を聞いてみました。すると、
5.「お母さんもね、実は食が細かったのよ。今はぽっちゃりしているけど。
子供のころは、おばあちゃんが、やせすぎをいつも心配していたの。【6】学校にあがっても、
低学年のころは、少ししか
給食が食べられないし、時間はかかるしで、
給食がいやだったわ。」
6.と、
驚くような話が
飛び出しました。
7.【7】「でもね、三年生の時の
担任の先生が、農家の息子で、お米や
野菜ができるまでの話をいつも
興味深く聞かせてくれたのよ。そのせいか、クラスではいつもお代わりの
競争をしていて、それに
巻き込まれるようになったことで、いつの間にかすっかり
食いしん坊になったのよねえ。」
8.【8】「やっぱり、食べることが楽しいと思って食べると、体にしっか∵り
取り込まれるのね。今は
取り込み過ぎて、
困っちゃうけどね。」
9.と
笑いました。
私は、それを聞いて、なるほどなあと心の中で思いました。【9】そして、前に
担任の先生が、
10.「
興味を持って、楽しみながら学んだことはしっかり身につくのです。」
11.と言ったことを思い出して、何だか
似ているなと思いました。
12. 今日の
給食も
完食でした。きれいに空っぽになった食
缶が
満足そうに
配膳台に
並んでいました。【0】
13.(言葉の森
長文作成委員会 φ)
長文 3.2週
1. 【1】化学
繊維が
発達し、
最近では、手間のかかる
養蚕をする人が少なくなりました。けれど、カイコを
飼っているところを見たことがある人、あるいは自分で
飼ったことがある人なら、だれでも知っていることですが、【2】平らな入れ物の中にクワの葉を入れ、そのままにしておいても
逃げだしもせず、あちこち歩きまわりもせず、ただクワさえきらさなければ、かんたんに
飼えます。
2. 【3】ほかの
昆虫を
飼う時には、
逃げないようにカゴやふたのある入れ物に入れ、えさや水やと、けっこう
苦労するものです。カイコはその心配がありません。やがて
完全に
成熟すると、入れ物のすみや、
枯れたクワの葉のあいだに糸をはり、
繭をつくります。【4】
養蚕家が、この時に入れ物の上に
繭をつくる
格子状のワクを
置いてやると、ここにはい上がって、一
匹が一つずつきれいに
繭をつくります。
卵からふ化した
幼虫が、
繭になるまでだいたい一か月で、そのあいだに四回、
脱皮をして
成長し、
繭の中でサナギになります。
3. 【5】
養蚕業では、
繭ができるとすぐに集め、大きさのそろったものを
選んで糸をとる工場に送ります。サナギが
成虫のカイコガになるのは一週間ほどですから、ガにならないうちに糸をとりはじめます。【6】これは、
繭を
煮ながら糸をやわらかくして、ほぐれた糸をまき取る
方法が
一般的です。これで、一つの
繭から切れずにつながった糸がとれます。
現在の大きな
良い繭は、千五百メートルほどの糸になります。この糸をより合わせ、
絹糸にして
布に
織ります。
4. 【7】このように
繭から一本のつながった糸をとるのですから、
繭の中で羽化したガが、
繭を
破って外にでたのではなんにもなりません。ヒトが糸をとるためには、
成虫になってはいけないので、どんなにたくさんカイコが
飼われても、すべて
殺されてしまうことになります。
5. 【8】つぎの
卵を
産ませる分は、
別に何
匹かのこしておけば、この∵ガ一
匹で千
個近い
卵を
産みますからいっこうにさしつかえありません。
幼虫の生活も、
子孫をつくることも、すべてヒトの計画どおりになっています。
6. 【9】そのうえ、羽化したガは
翅を持っていますが、
飛ぶことはできません。この
翅のはばたきはもともと
飛んでいたころのはばたきと同じですから、いつごろからか
飛べないガになってしまったのです。これも、たぶん、
飼育化の
結果でしょう。【0】すべての点が、ヒトが
飼いやすい、すなわち
管理しやすいようになっているのです。
7. こんな野生の
昆虫が、はじめからいるわけがありません。その
証拠に、今日ではカイコの
祖先型と考えられている野生のカイコ、これはクワの
樹につくのでクワコとよばれますが、これは、
成虫は
立派に
飛びますし、
幼虫は
群がることもなく、一
匹ずつかくれるように生活しています。
飼育もむずかしく、とてもカイコのようには
飼えませんし、注意しないとすぐ
逃げだしてしまいます。
8. (「いい虫わるい虫」
奥井一満 日本少年文庫より)
長文 3.3週
1. 【1】ヒトとイエバエの
対比を少し進めてみると、大きさはいうまでもないでしょう。
寿命はヒトを、
平均六十五年とすれば、イエバエはわずか二週間です。このあいだで
卵・
幼虫・サナギ・
成虫が終わってしまいます。
2. 【2】子どもは、今日の日本人の
平均的子どもの数は、二・二人すなわち、二人か三人、ハエは二百〜三百の
卵を
産みます。この
寿命と子どもの数で考えると、イエバエは一年間に、ものすごい数にふえることになります。【3】ある計算では、一対のハエの
子孫が、半年で
億の百倍
以上の数になるといわれます。
3. もちろん、ハエはこんなにはふえません。死んでしまう子どもが多いからです。ただし、この死んだ子どもは
卵であれ
幼虫であれ、
必ずほかの動物か植物の役に立っています。【4】その点ヒトでは、ほかの生き物にとって何の役にも立たない子どもが、生き
続けていることになります。
4. ハエが、短い期間で
大量の
卵を
産むことには、大きな意味があります。それは、
遺伝にかかわる問題が、短いあいだで
効果的にかたづくことです。【5】ある薬品に対して、
抵抗性のある
個体がいたとしましょう。ほかの
個体には
抵抗性がないと、薬品にであった場合、死んでしまうでしょう。
5. ところが、
抵抗性をもっている
個体は生きのこります。【6】これが
子孫をのこしていくと、子どもたちはみな、
抵抗性を持つものになります。しかも一生が短いから、この間に
抵抗性のないものが
死に絶え、
抵抗性のあるものが生きのこり、ハエの
群がすべて、
抵抗性のある
個体に入れかわる
結果になります。【7】このように短期間で、
仲間の
性質をすべて
変えてしまうことができます。
6. ヒトの場合は、一生が長く、生まれる子どもの数も少ないので、
特別な
性質を、グループ全体に入れかえてしまうには、ひじょうに長い、おそらく何万年という時間がかかるでしょう。
7. 【8】また、ハエとヒトの運動
性をくらべるとどうでしょうか。もち∵ろん、ヒトはハエのように
飛べません。その意味ではヒトの運動の
範囲は、ハエよりもせまいでしょう。
8. ところで、ハエのすばらしさはスピードの
調節のみごとさです。【9】そうとうな速さで
飛んできたハエは、そのまま速さを
変えずに、ぴたりと
壁にとまります。もし、これをヒトにあてはめると、百メートル、全力
疾走してきたヒトが、
壁の前で速度をゆるめず、ぴたりと止まることになるでしょう。
9. 【0】ヒトには、とてもこんなことはできません。百メートルのゴールは、そこで終わりではなく、走りぬける先があるから、全力で走ってこられるのです。ヒトはスピードを
加えるにも、おとすにも、助走が
必要です。これは運動の上からいえばむだな部分です。
10. ハエは、助走も
加速もせず、ある場所に自由にとまり、自由に
飛びだすことができます。こんな動き方は、ヒトが考えだしたどんな
飛行機でも、ヘリコプターでも、やることができません。むだな運動をしないことは、活動のエネルギーをたいせつにしていることになります。
11. (「いい虫わるい虫」
奥井一満 日本少年文庫より一部直す)
長文 3.4週
1. 美しい
景色をみて思わず、「きれいね」と口にでて、たのしい思いになる、それでもう十分とも思いますが、そのたのしい思いにさせてくれるものの
姿を、たしかめてみましょう。
2. 美しいものと、美しくないものと、わたくしはいま自分の部屋を見まわして、よりわけてみました。
3.
机の上のペン皿にあるえんぴつ、何本かのえんぴつの中で美しく目にうつるのは、けずりたてのえんぴつです。シンがまるくなったり、
折れたままのは美しいとは思えません。
4. お皿に
盛ったバナナは、あざやかな黄の色をしていて美しい。でも実をたべてしまった皮は、皮になった
瞬間に、もう美しいとは思えませんし、色もまたたちまち黒ずんできたなくなってしまいます。
5. けずりたてのえんぴつが美しく目にうつるのは、「どうぞ、いつでもすぐに使えますよ。」と、すぐに役にたつ
姿を見せてくれているからでしょう。
6. バナナの皮も、中に実をつつんでいるという、使命をもっているときは美しいのですが、その使命が終わって皮だけになった
瞬間に美しくなくなります。
7. こうしたことを思うと、人に心よい感動をあたえる美しさとは、そのものが役にたつという
姿を見せているところにあるのではないかと思われます。
8. 花が美しい、木々が美しいというのは、その命の美しさを感じるところにあります。命とは活動することであって、つまり、役目をはたしている
姿です。花も木も、せいいっぱいに生き、そして自分たちの
子孫を
永続させるために、花を
咲かせ、実をならし、その命を
充実させて、活動しているのです。
9. わたくしたちは
働く人を美しいと見ます。どんなにどろんこでも、
汗みどろでも、
働く姿は美しい。どろんこも、
汗も、
働く姿の美しさを引きたてます。これは、
働くという
行為が、活動そのものであり、役だつ使命をはたすことであり、
汗もどろんこもまた、そのためにあるからです。
10. でも、
働くことをやめて、
食卓にむかったときの、
汗みどろ、∵どろんこは、きたない、もう美しくは目にうつりません。このときの、どろんこや
汗は、
労働という中味をとってしまったあとの
残りもの、バナナの皮みたいな
存在になってしまったからでしょう。食事をするという
行為に、どろんこは
不要です。そこで、きれいにさっぱりと
洗いおとさなければなりません。
11. ですから、同じものでも、そのものが、そのものとして役にたたない場所にあるときは、美しく目にうつりません。
12.
髪の毛は、
髪にあるから美しい。ぬけおちた
髪の毛が、食物の中にでもはいっていたら、とてもゆううつです。
13. ショーウィンドーの商品がみな美しく見えるのは、「このとおり、役にたちますよ」と、マネキンに着せてみせたりして、たのしく、わかりやすく
飾られてあるからでしょう。
14. わたくしたちのおしゃれや、動作、マナーなども、その場にふさわしく、役にたつかたちであるとき、美しく見えるのです。
15. 急ぐときは、きびきびした動作が美しく、人にものをたずねるときは、その人に教わるという気持ちをあらわすのに
必要な
謙虚な動作、教えるときは相手によくわかるようにする動作が、気持ちよく美しくうつります。
16. ここでひとこと、気づいたことをいいそえますと、
必要と実用とは少しちがいます。
17. たとえば道を教わるとき、わたくしたちは、「すみませんが」ということばをそえますが、実用という面からいうと、このことばはなくてもよいわけです。「東京駅はどっちですか?」といえば、用はたせます。でも、それではぶっきらぼうです。「すみませんが」といいそえることで、心のあたたかみが
伝わります。「どうぞお茶をお飲みください」のときの「どうぞ」も同じで、こうしたやさしさがあって、ことばも、動作も美しくなります。
18. 「
必要」と「実用」とを、どうぞ、まちがえないでください。
19. わたくしたちが生きてゆく上では、実用
的な
衣・食・住のほかに、遊ぶことも、たのしむことも、安らぐことも
必要です。そうした
精神的に
必要なものとして、やさしさや美がつくりだされています。
20.(高田
敏子「詩の世界」)