長文 9.4週
1. 【1】武士ぶしの教育において第一に重んじられたのは、品格ひんかく形成けいせいであった。それに対して思慮しりょ知識ちしき雄弁ゆうべんなどの知的ちてき才能さいのうはそれほど重要じゅうようされなかった。
2. 【2】すでに武士ぶしの教育に美的びてき価値かち重要じゅうよう役割やくわり占めし ていたことは述べの たが、知性ちせい教養きょうよう人として欠かか せないものであるにせよ、武士ぶしの教育の本質ほんしつからいえば付随ふずいてきなものだった。【3】知能ちのう優秀ゆうしゅうなことはむろん尊ばたっと れたが、知性ちせいを表すのに用いられる「知」という漢字は、主として「叡智えいち」を意味し、単なるたん  知識ちしき従属じゅうぞくてき地位ちいしかあたえられなかったのである。
3. 【4】武士ぶし道の枠組みわくぐ 支えるささ  三つの柱は「」「」「」とされ、それはすなわち「知恵ちえ」「仁愛じんあい」「勇気ゆうき」を意味した。なぜならサムライは本質ほんしつてきには行動の人であるからだ。そのため学問はサムライの行動範囲はんいの外におかれた。【5】彼らかれ 武士ぶしとしての職分しょくぶん関係かんけいすることにのみ学問を利用りようした。宗教しゅうきょうと神学は僧侶そうりょや神宮にまかされ、サムライはそれらが勇気ゆうき養うやしな のに役立つ場合に限っかぎ 必要ひつようとしたのである。【6】あるイギリスの詩人がいったように、サムライは「人間を救うすく のは教義きょうぎではない、教義きょうぎを正当化するものは人間である」と信じしん ていた。また哲学てつがく儒学じゅがく)と文学は武士ぶし知的ちてき訓練くんれん主要しゅような部分を形成けいせいしてはいたが、これらの学問でさえ、追求ついきゅうされたのは客観きゃっかんてき事実ではなかった。【7】文学はひまをまぎらす娯楽ごらくとして求めもと られ、哲学てつがく軍事ぐんじ問題や政治せいじ問題の解明かいめいのためでなければ、あとは品格ひんかく形成けいせいする実践じっせんてきな助けになるものとして学ばれた。
4. 【8】以上いじょう述べの たことから、武士ぶし道の教育科目が、主として剣術けんじゅつ弓術きゅうじゅつ柔術じゅうじゅつもしくは「やわら」、乗馬、槍術そうじゅつ戦略せんりゃく戦術せんじゅつ、書道、道徳どうとく、文学、歴史れきしなどだったとしても、驚くおどろ 値しあたい ないだろう。これらのうち柔術じゅうじゅつと書道については多少の説明せつめいがいる。∵【9】書が優秀ゆうしゅうなことは大いに重んじられたが、それは日本の文字が絵画てき性質せいしつをもっており、それ自体が芸術げいじゅつてき価値かちがあったからであろう。また、書体はその人の人柄ひとがらを表すものと信じしん られていたからである。【0】さらに柔術じゅうじゅつ簡単かんたん定義ていぎすると、攻撃こうげき防御ぼうぎょのための解剖かいぼうてき知識ちしき応用おうようするということになる。柔術じゅうじゅつ筋力きんりょく頼らたよ ない、という点で相撲すもうとは異なること  。また、いかなる武器ぶきも使わないという点で、ほかの攻撃こうげき方法ほうほうとも異なること  。そのわざは、相手の身体の一部をつかんだり、叩いたた たりして、相手を気絶きぜつもしくは抵抗ていこうできないようにするものである。その目的もくてきてき殺すころ ことではなく、一時てきに行動できなくさせることであった。
5. 軍事ぐんじ教育において当然とうぜんあるべきはずなのに、武士ぶし道の教育ではあえて外されていたものが数学であった。だが、これは封建ほうけん時代の戦闘せんとうが科学てき正確せいかくさをもって戦わたたか れなかったという事実によって、一応いちおう説明せつめいがつくであろう。そればかりか、サムライの教育全体から見ても、数学てき概念がいねんを育てることは芳しくかんば  なかったのである。
6. それは武士ぶし道が損得そんとく勘定かんじょうを考えず、むしろ貧困ひんこん誇るほこ からである。武士ぶし道にあっては、ヴェンティディウス(シェークスピアげきの登場人物)がいうように、「武人ぶじんとくである功名こうみょう心は、名を汚すよご 利益りえきよりも、むしろ損失そんしつ選ぶえら 」ものだった。かのドン・キホーテ      が黄金や領土りょうどよりも、かれ錆びついさ   やりとやせこけたロバを誇りほこ とした、ようにである。わがサムライは、この誇大妄想こだいもうそうに取りつかれたラ・マンチャの騎士きしに、心から同情どうじょうするのである。

7.(新渡戸にとべ稲造いなぞうちょみさき龍一りゅういちろうやく武士ぶし道――いま、拠っよ て立つべき「日本の精神せいしん」』(PHP研究所)による)