長文 7.1週
1. 【1】
私は、自分自身の
体験を
紹介しながら丸暗記についてだいぶ
否定的なことを
述べてきました。しかし、それは丸暗記でやっていくことの
限界について
指摘するのが
目的で、暗記による
知識の
獲得そのものが「意味がない」と考えているわけではありません。【2】それどころか、いろいろなことが「わかる」ようになるベースを頭の中につくるときには、むしろ暗記は
必要不可欠だと考えています。
2. そもそも、何もない、まったくのゼロの
状態から何かを生み出すことはできません。【3】物事を
理解することも同じで、自分の中に
理解するための
必要な
要素となるものを
最低限持っていなければ、これを使ってテンプレートをつくっていくこともできません。【4】つまり、わからないものをわかるようにするにも、
最低限必要となる
知識を
準備しておく
必要があるということです。
3. そのためには
基礎的な
知識は暗記によって頭の中に入れてしまうのです。【5】たとえば算数でいえば
誰もが通る「九九」などはその代表でしょう。漢字や
英単語だってマニアックなもの
以外はともかく
覚えておいたほうがいいに決まっています。
4. 【6】また、なかには子どものころ、「百人一首」や「いろはがるた」などを遊びを通じて
覚えた人もいるでしょう。こうした昔の人が
残した短い言葉の中には、生きていくうえでの
知恵が
凝縮されて
残されています。【7】こういうものを持っているのが先人たちが
積み重ねてきた文化の強みで、これを
有効利用しない手はないのです。たとえ丸暗記をしたその時点ではきちんと意味が
理解できなかったとしても、さまざまな
経験を
積む中で、
理解は深まっていくでしょう。【8】そして、いずれはそこからさらに
別の知見を
導き出すというような、生きた
知識として使えるという
可能性があるのです。
5. 【9】これはまさに人間の
営みそのものです。言語が
誕生したといわれる
約七万五〇〇〇年前の人といまの人を
比べると、
人類の
知的∵
能力という点では同じだという
説があります。【0】しかし、持っている
知識の
量や深さ
に関しては、二〇〇〇年前の人に
比べてもいまのほうが
圧倒的に
優れているといえます。これは
得られた知見を後世に
伝えるということを人間が昔から
愚直に行ってきた
成果で、こうした
財産として
私たちが持っているものを
理解のための道具として使わない手はないのです。
6. もちろん、こうした
知識も
誰かに言われるままの受け身の
状態で
覚えているうちは、それが
伝えている知見を
理解することはできないでしょう。でもとりあえず、
最初はそれで
構わないと思います。ここで
重要なのは、「とりあえず自分の頭の中に
備える」ことなのです。これをきちんとやっておけば、さまざまな
経験をする中でいずれそのことがわかるようになるし、
必要な
状況が
訪れたときにはその知見を使うことができるようになるというわけです。
7.(畑村
洋太郎「畑村式「わかる」
技術」(
講談社現代新書)より)
長文 7.2週
1. 【1】日本の文化について、ある外国人が、次のように書いているのを読んだことがあります。
2. 日本は二階
建ての家で、二階には西洋式の生活や
風俗や文化が、なにからなにまでそろっている。【2】また一階にはむかしながらの生活や
風俗、日本式の文化がそのまま
残っている。しかし、ふしぎなことは、その一階と二階とを
結ぶ階段が見あたらないことである。──と、そういうたとえを引いて日本の文化の
姿を
批評しているのです。このたとえも、たしかにおもしろいと思います。【3】わたしたちの生活のまわりを
見渡しても、たとえば洋服と和服(着物)、
靴とげた、いすの生活と
畳の
暮らし、洋食と日本
料理、西洋画と日本画、西洋音楽と日本音楽、──といったように、一方では西洋のものがさかんにとりいれられていながら、一方では日本にむかしから
伝わっているものがよろこばれています。【4】町を歩いてみても、ヨーロッパやアメリカの町にくらべて少しもおとらない、りっぱなビルディングが立ちならび、電車や自動車が目まぐるしく走っている。【5】ところが、その町の中にも、のれんをかけ、店さきに
畳をしいた、むかしふうのお店があるし、
白壁の
土蔵も見られるし、また神社の
鳥居がたっていたり、お寺のあたりからお
線香の
煙りがにおってきたりする。【6】きれいな
訪問着に
着飾ったむすめさんが、デラックスな自動車から
降りても、わたしたちはあたりまえのこととしてふしぎに思いませんが、外国人の目から見ると、ずいぶんめずらしいことなのでしょう。【7】それと同じことで、よくおすし屋や、おそば屋などの店さきに、テレビが
置いてあって、そのそばに、
酉の市で買ってきた大きなくまでが
掛かっていたりする、そんな
風景も、外国人にはふしぎでたまらないようです。
3. 【8】一九五七年に日本を
訪れたソビエトの作家エレンブルグは、次のように書いています。
4. 「日本は、外から来るものをおどろかせる。
最初に目にうつるすべてのものが、ひどく
矛盾しているように思われる。【9】電化された汽車、いすの
背の角度を自由に
調節できる、乗り心地のよい車∵室、そこには
食堂もついている。
給仕のむすめが
香の高いコーヒーを運んでくれる。着物
姿のふたりの日本のむすめが手文庫に
似た小さな箱をあけて、生魚やほした
昆布をつめ合わせたお米の
弁当を食べている。【0】食事がおわると、本をとり出す。ひとりはサルトル(フランスの作家)の
小説を手にしているし、もうひとりは
家政の教科書を読んでいる。こんな
光景を見ていると、自分がいったい世界のどこにいるのか、アジアにいるのか、ヨーロッパにいるのか、アメリカにいるのか、わからなくなる。しかも古い時代、新しい時代、さまざまな
世紀がからみ合っているのだ。
5. 日本では、どの日本人も一日のうち何時間かはヨーロッパ
的な、またはアメリカ
的な生活を送り、また何時間かはむかしながらの日本の生活を送っている。日本人の中には、たがいに
異なる二つの世界がいっしょに
存在している。」
6. わたしたちは日ごろ見なれていて、なんとも思わないことが、外国人の目にはこのようにうつっているのです。
7.「日本人のこころ」(
岡田章雄著 筑摩書房)より
長文 7.3週
1. 【1】いまから二千二百年ほどむかしの話です。中国に、
秦という国があって、
始皇帝という王様が、大きな
勢力をふるっていました。【2】その
宮殿は、中国の
歴史の中でこれほど大きなものはなかったと言われているほど、りっぱなものでした。【3】なにひとつ
不足のなかったこの
皇帝でも年をとるということだけはどうすることもできません。【4】「なんとかして年をとらない
方法はないだろうか」と考えた
皇帝はおしまいに家来に言いつけて、
仙人のところへ行って、
不老長生の薬、つまり年をとらないで、
永久に死なない薬を手に入れさせることにしました。【5】学者のことばによれば、東のほうの海に
蓬莱山という島がある。その山の中には
仙人が住んでいて、そのふしぎな薬を作っているのだということでした。【6】そこでたくさんの船が用意されて、どこかわからない
蓬莱の島をさがしに東へ東へと向かったのですが、その島はとうとう見つからず、その
仙人の薬も手にはいらなかったということです。その使いのひとりに
徐福という家来がいました。【7】その
徐福が日本に
渡ってきて死んだという
伝説が
残っています。和歌山県の
新宮市に、その
徐福の
墓と
伝えられているお
墓がありますが、ほんとうにその人の
墓かどうかわかりません。
2. 【8】これは中国の人々でさえ、まだ日本の島を知らなかった大むかしの話です。しかし中国では、太陽ののぼる東の海、その海の向こうに、ふしぎな力をもった
仙人の住む島があると考えられていたようです。
3. 【9】ところが大むかしの日本人は、反対に西の海の向こうに理想の国があるように考えていたのです。それは「
常夜の国」と
呼ばれていました。太陽が
沈んでしまう西の海の向こうですから、そこはいつも暗い夜の国なのです。【0】それでも日本人にとっては、いつも西の海をこえて行った
大陸が、あこがれの国だったようです。どうしてでしょうか。
4. こんなふうに考えてみることはできないでしょうか。太陽は東の∵海からのぼるとはいっても、その海はひろい太平洋で、いつも
荒波がうち
寄せています。小さな船では、遠く乗り出すことなどはとうていできません。しかも、遠くまで海がつづいているばかりで、島の
影も見えません。海の向こうから
敵のおそってくる心配も、まったくありません。ですから、東の海はただ
自然のおそろしさがあるばかりで、ほかのことなどは考えなかったのでしょう。
5. それにくらべて、西の海は波もおだやかです。船でこぎ出して行けば、
壱岐や対馬のような島々があり、その先には、もう
朝鮮半島の
山影が
浮かんでいるのが見えます。半島に
渡れば、そこには日本人の知らない高い文化がさかえていたのです。また、半島のほうから
渡って来る人々も多かったでしょう。その人々の生活や
風俗は、日本人にくらべてずっと高いものだったにちがいありません。そして、
大陸の
影響を受けて、日本の文化はいつも、西から東のほうへと進んでいきました。
土器の作り方にしても、農業の始まりにしても、また鉄の道具を使うことにしても、いつも文化の流れは、西から東へと流れていました。日本にとっては、文化の光は、太陽の光と反対に、いつも西の海の向こうから、かがやいてきたのです。そこで、日本人の理想の国は西の海の向こうにある、と考えられたのだと思われます。
6.「日本人のこころ」(
岡田章雄著 筑摩書房)より
長文 7.4週
1. 【1】言葉は
風景のようなものだ。いや、山や野に
咲く生きた
花畠のような気もする。
種子は同じでも、時と場所によって、
咲かせる花は
違う。
2. たとえば今、東京・新宿には
高層ビルが林立して、まるで二十一
世紀の
未来都市のように見える。【2】
戦後、新宿西口がまだ
闇市の時代に、
私は、フランス文学科の学生だったが、駅前マーケットの間を詩を書こうとしてほっつき歩いていたから、今日の
街の
風景を見ると、まったく
隔世の感がある。
3. 【3】本当にバラック
建築つづきの
ごった煮の
街で、
混乱をきわめていたが、しかし
一種の活気があった。
戦争の暗い時代から
解放されたということで、文学や
芸術、自由が
沸騰していた。【4】しかも、アメリカ
軍の
占領下にあって、言葉には米語スラングが
氾濫していた。
4. そうした
混乱の一時期ののち、
朝鮮戦争を
境に、また、だんだん世の中が
静まり、しだいに日本の社会も
姿を整えていった。
5. 【5】かくて今や、新宿の空を見上げれば、
忽然として
夢のような東京
都庁をはじめ
超高層ビルが立ちならび、ビルの谷間を、
朝晩通勤の人々の列が
埋めている。【6】まことに、
夢か
現かという想いがする。
6. その間に
私たちの日本語も
変わった。これは
当然のことだ。世の中が
変わり都市ができれば、文明の、こうした
風景が
出現する。人間の生活も
変わる。【7】ビル
街ができれば歩き方も
違ってくるし、ファッションも
変わるというものだろう。人間の生活が
変われば言葉も
変わる。
当然話し方も
違ってくる。人それぞれの考え方も、
環境によって
変わっていくことであろう。
7. 【8】このごろ、日本語が
乱れている、
敬語が目茶苦茶だ、外来語の∵カタカナが多すぎる、
若者の
変な
造語がさっぱりわからない、日本語はこの先どうなるんだと、よく話題になる。たしかにそういう気がしないわけでもない。だが、本当にそうだろうか。
8. 【9】ここで、正しい言葉とは一体何だろうと、もう一度考えてみる
必要がある。もし正しい言葉というものが、一つだけはっきり定まっているのであれば、たしかに、
皆がそれだけを使えば用は足りることになる。
9. 【0】たとえば水を飲みたいということを言いたいとき、意味が
伝わりさえすればいいのであれば、「水が飲みたい」という言い方が一つあれば
充分だ。しかし、
現実はどうだろうか。そんな
簡単なものではない。
10. 人間の生活や心は
限りなく
豊かだ。そこで言葉にもひねりをかけようとする。「ああ、水が飲みてぇな」とか「
喉がからっからだ」とか、なぜか一本調子の言い方から外してみたくなる。
11.
特に、
若者は言葉の
冒険をすることで
自己主張をしたり、目立ちたがる。また、自分たちの遊び心や、グループの
仲間意識などを
満足させようとする。
12.
若者ばかりでない。
職人さんなども、自分たちの
職業の
特色を表わすために、言葉にひねりをかけることがある。
13. 正しい言葉というものは、たしかにある。しかし、
実際に生活のなかで言葉が活きているのは、ひねりをかけて、そこからちょっと外した
姿である。だから、
逆に活きている言葉は、正しい言葉の
外側にあるともいえる。
14.(
栗田 勇『日本文化のキーワード――七つのやまと言葉でその
宝庫を開く』(
祥伝社))
長文 8.1週
1. 【1】なぞの女王ヒミコが使いをおくったのは、
黄河の
流域にあった
魏の国でした。そのころには、南の
揚子江の下流の地方に
呉の国があり、またその上流の、山の多い地方には
蜀の国がありました。この三つの国を三国といいます。
2. 【2】南の
呉の国は
魏の国をこまらせようとして、
南朝鮮の
韓国と手を
結んでいました。そこで
魏の国でもこれと
対抗するため、その
韓国の(海をこえて)向こうにあるヤマタイ国を味方につけておこうとしたのです。
3. 【3】漢
民族は、むかしから自分たちのいる地方を「
中華」と
呼び、自分たちがいちばんすぐれた
民族だとしていました。(
中華料理とか
中華そばとかいう時の、あの
中華です。)【4】そして、まわりの地方にいるほかの
民族をみんな
野蛮人あつかいして、それぞれ東は
東夷、北は
北荻、南は
南蛮、西は
西戎、とよんでいました。【5】日本
民族は、漢
民族から見れば
東夷、つまり東のほうの
野蛮人にあたるわけです。日本
民族はべつとして、ほかの
民族は、みんなひろい
大陸の、
陸続きの土地に住んでいます。【6】ですから漢
民族としては、
中華を
誇りにしてはいても、いつもまわりの地方にいる
野蛮人、つまり、ほかの
民族がこの
中華の土地に
攻めこんでくるのを
防ぐために、心を
悩まし、力を
尽くさなければならなかったのです。
4. 【7】三千年にわたる長い中国の
歴史は、また漢
民族と、まわりの
違った
民族との間のはげしい
争いの
歴史でした。【8】世界に名高い
万里の
長城は、あの
不老長生の薬を
求めたという
秦の
始皇帝が、
満州(中国の東北部)の地方にいた
匈奴という
野蛮人の
攻め寄せてくるのを
防ぐために、大がかりな土木工事を起こして
築いた
城壁なのです。
5. 【9】中国の
歴史を調べてみると、多くの王朝がさかえたり
滅びたり、また
分裂していくつかの王朝がたがいに
争ったりしています。∵【0】すぐれた王様によって国が
統一され、漢
民族の
勢いがさかんになると、大がかりないくさを起こして、進んで北や西のほかの
民族をおさえつけました。しかし王朝の
勢力がおとろえると、ほかの
民族が
攻めこんできて、漢
民族をおさえつけてしまいます。遠くヨーロッパまでその
勢力をのばした元の国や、
江戸時代から
明治のころにかけて中国にさかえていた
清の国などは、モンゴールや
満州の
民族が
支配していた国です。
6. 中国を中心にした東洋の
歴史を勉強するときに、いちばんわたしたちを
悩ますのは、こうした漢
民族とほかの
民族との
争いの問題ですが、
大陸でたえずこうした
民族の
争いがくりかえされていたことが、じつは日本の平和のために、かえってつごうのよいことだったと言うことができます。こうした中国での
争いの
影響を受けて、
陸続きの
朝鮮半島はたびたび平和を
乱され、時にはほかの
民族の
支配を受けたことさえありました。しかし、日本はそうした
不幸な目に会うこともなく、今日まで
独立の
歴史を守りつづけることができました。これはいうまでもなく、わたしたちの
祖先の大きな
努力によるものですが、同時に、地図の上で見られるように、日本の国の
位置ということにも
関係していることです。
7.「日本人のこころ」(
岡田章雄著 筑摩書房)より
長文 8.2週
1. 【1】中国の人々は、日本人のことを、人まねはじょうずだけれど自分では何もつくり出す力のない
国民だ、と言っているそうです。
江戸時代よりまえの文化は、みんな中国の文化を手本にして、まねたものにすぎない。【2】また、
明治時代から今日までに
築きあげた新しい文化は、これもヨーロッパやアメリカの高い文化をじょうずにまねたものだ、と言うのです。【3】なるほどそう言われてみると、そうかもしれないな、と思いますが、ほんとうに日本人は、そんなつまらない、力のない
国民なのでしょうか。わたしはそうは思いません。
2. 【4】なるほど日本の文化のもととなるものは、ほとんど中国から、また西洋からとりいれたものです。しかし日本人はけっしてそれをそのままの形でまねしてきたわけではありません。【5】それを日本の土地に、日本人の生活に、そして日本人の気持にぴったり合うように、手を
加え、
改良して、りっぱなものに仕上げていったのです。そのいちばんよい
例は、漢字です。【6】漢字がはじめて中国から
伝わったころには、漢文体で文章を書いたのですが、それでは日本のことばをそのまま表わすことができません。そこで、
必要なときには漢字をつかって、日本語の音を一字一字書くことも行なわれるようになりました。【7】
奈良朝のころにできた『万葉集』をみると、日本の歌がすべて漢字で表わしてあります。
3. たとえば、有名な
山上憶良の「
貧窮問答歌」のはじめの部分は、つぎのように書いてあります。
4. 【8】
風雑 雨布流欲乃 雨雑雪布流欲波 為部母奈久 寒之安礼婆
5. まるで、お
坊さんの持っているお
経の本みたいですが、これで、
6. 風まじり 雨ふる夜の 雨まじり雪ふる夜は すべもなく 寒くしあれば
7.と読むのです。【9】なるほど、こんなふうに漢字をつかえば、ちょうどローマ字をつかうようなものですから、どんなことばでも表わすことができます。
8.
於奈加我須以多
9. なんと読むかわかりますか。「おなかがすいた」です。【0】こんなぐあいにあなたの名まえを一字一字書いてごらんなさい。なかなか∵めんどくさいでしょう。まったく日本のことばを表わすのに、こんなふうに一字一字漢字をあてていくのでは、書くだけでもたいへんです。そこで平安朝のはじめごろになると、もっと楽に、かんたんに日本のことばを書き表わすことができるようにいろいろくふうが重ねられ、できあがったのが
平仮名と
片仮名です。たとえば、「
阿」という漢字のヘンだけとって、「ア」ができ、「安」という字、これも「あ」の音を表わすのにつかった字ですが、それを草書で書いたものから「あ」という
平仮名が生まれました。同じように「
於」から「オ」「お」、「
加」から「カ」「か」ができたのです。これなら書くのも楽で、
覚えるにもかんたんです。どちらも漢字がもとになっていますが、日本人でなければ読めないし、またつかうことのできない新しい文字です。この新しい文字がさかんに使われるようになると、日本の文化は
一段とさかえることとなりました。世界に
誇る『
源氏物語』や『
枕草子』のようなりっぱな
小説や
随筆も、このような
仮名をつかって自分の気持や考えを自由に、楽に表わすことができるようになった
結果生まれたのです。また、筆でりっぱな文字を書く書道にしても、漢字を書くのでは中国人にはとうていかないませんが、まるで絵のように美しく書いた
仮名文字は日本の書道として、
自慢してもよいものでしょう。
10. 人まねがじょうずだということは、ただそれだけで終わってしまうのならばつまらないことです。しかし、はじめはまねをしても、自分でくふうを重ね、
改良を
加えて、もっとりっぱなものに仕上げていくことができるならば、けっして
恥ずかしいことではないのです。日本人には、むかしから、そうしたすぐれた
才能がそなわっているのです。
11.「日本人のこころ」(
岡田章雄著 筑摩書房)より
長文 8.3週
1. 【1】日本の国の
歴史は、そのまま日本
民族の
発展の
歴史だと言うことができます。そのことは、わたしたち日本人にとって、大きな力となっているのですが、一方ではひろく世界の国々の人たちと交わっていくためには、かえってそれが
損になっていると思われる点もあるようです。
2. 【2】いったい日本人は、大むかしから日本
民族だけでこの島国に
暮らしてきたために、とかく日本のことだけを、おおげさに考えすぎるくせがあります。【3】「日本はりっぱな国だ」とか、「日本人はすぐれた
民族だ」とか、「日本の文化はすばらしい」とか、日本人どうしでおたがいに自分の国をほめ合い、それで
満足しています。もちろんお国
自慢ということは、どこの国の
国民だってあります。【4】
祖国のわる口を言われるのは、だれだっていやなものです。しかし、外国のことやほかの
民族のことはあまり知らないで、自分の国だけが
特別すぐれていると思うのは、あまり感心できないことです。【5】「ぼくはそうは思わないな。日本のものなんか、みんなだめだ。外国のほうが、すべての面でずっとすぐれていると思う」あなたはそう言って反対するかもしれません。たしかにそう考えている日本人だって少なくありません。【6】しかし、そのような見方は、せま苦しいお国
自慢を、ちょうど
裏返しにしたものにすぎないのです。ただ+と−の両方の
極端の
違いで、どちらもかたよった見方です。もっと高い立場に立ってみれば、どの国だって同じことなのです。【7】そのなりたちも
違えば、国のしくみも
違うし、その
国民の考え方だって
違っているのですから、その国々でそれぞれすぐれた明るい面もあれば、同時に、その国として
困っている面、暗い面だってあるのです。【8】日本人のものさしでそれをくらべてみようとするのが、だいいちむりなのです。見方がかたよってしまうからです。ですから、外国のことをよく勉強して深く知ることは
必要ですが、すぐれているとか
劣っているとか、ひどく気にすることはまったくむだなことだと言えるでしょう。
3. 【9】ところで、同じ学校にかよっている友だちとはよく話が合うも∵のです。先生のかげ口、
仲間のうわさ、教室での出来事、休み時間の楽しい遊び、クラブ活動、
修学旅行、運動会──
共通した話題はいくらでもあります。【0】ところが、あなたもきっと
経験があると思いますが、たとえばほかの学校へ行っているいとこが遊びに来たとき、あなたの学校の中で起こった、とてもゆかいな出来事を話して聞かせようとすると、なかなかむずかしいことに気がつきます。毎日顔を合わせている級友ならば、
簡単に「タヌキがね」といえばすむところを、「ぼくの学校にタヌキというあだ名の
教師がいて、国語の
担任なんだ。どうしてタヌキってあだ名がついたかっていうとね……」などと、いちいちくわしく
説明しなくては、相手に話が通じない。その
説明に
骨が
折れて、かんじんのゆかいな話のほうは、すっかり気が
抜けてしまう。そんな
経験をしたことがあるでしょう。
4. 同じ
民族だけで作られているこの日本の国にも、それに
似たようなことがあるのです。
5.「日本人のこころ」(
岡田章雄著 筑摩書房)より
長文 8.4週
1. 【1】人間は、だいたい思春期から
不機嫌というものを
覚えていきます。いろいろ本を読んで考える、
恋をして
悩む、
周囲の大人を
煙たく感じる、自分は何かもっと
違ったものになりたいと思う、そんな青春時代から
不機嫌モードに入る。
2.【2】「うつむいて うつむくことで 君は生へと一歩
踏み出す」
3. これは、谷川
俊太郎さんの『うつむく青年』という詩の
一節です。うつむいて
内省し、世の中に
迎合しないで自分自身の世界を作り上げようとするのは、青年の
特徴です。
4. 【3】また、
尾崎豊に、『十五の夜』という歌があります。「
盗んだバイクで走り出す」という
歌詞は、十五
歳という自立前の
年齢のどうしようもない
鬱屈を
描いているから人の
共感を
呼ぶのです。【4】しかし、
二十歳をすぎてもこれをやっていたら、社会からは受け入れられません。「二十五の夜」に「
盗んだバイクで走り出」したら、それは
単なる社会からの
逸脱、
犯罪にすぎません。
5. 【5】石川
啄木は、「
不来方の お
城の草に
寝ころびて 空に
吸はれし 十五の心」と
詠みました。このような
哀愁も、青年期には
似合います。
6. 今の時代、人に
気遣いのできる
上機嫌な子どもを期待する向きは少ないと言えましょう。【6】
成長期の
精神的安定は
求められていない。たとえば、中学生は親しい友だち
同士だと
仲がよくて
ご機嫌ですが、大人や、
仲間以外の人に対しては
不機嫌で、それもまた仕方ないという空気があります。
反抗期だからです。【7】これは人間の
成長に
必要欠くべからざるもので、
最近反抗期らしい
反抗期がないのが心配されるという
論を
唱える方もいらっしゃいます。
7.
私自身は、
反抗期というものは
必ずしも必要ないと考えています。【8】
基本的に人に気を
遣うという
能力は、「
技」であり、ここ∵ろの
習慣の問題です。そのこころの
習慣を、ある時期全くなくしていいというのは、社会としておかしいと思うのです。
8. 【9】十代の
精神的に
葛藤の多い時期だからといって、人に対する
気遣いをしなくていいということはありません。この
習慣を
忘れてなくしてしまっていいと
許容してしまいますと、身についた「
当たり散らし癖」や「むっとしたまま
癖」はその人の中で
続いてしまい、当たり前のものとなってしまうことが多いのです。【0】ここから
脱却しようとすれば、もう一度「人に気を
遣う」という
技を、自分の中で作り直さないとなりません。
9.
現在は、子どもが
不機嫌であっても
無愛想であっても、
積極的に直す
努力をしない。たとえば、会話をしない
状態も
放置している。親が話しかけても何も答えない。「
別に」「ふつう」がせいぜいです。「
別に」「ふつう」というのは、会話を
拒否した
状態であり、
拒否の意思
表示です。それはいけないことだと、はっきりと
指摘しなければならない。相手と
関係を
結びたくないという意思
表示、会話に対してきちんと答えないという
拒否状態が、
成長にとって
必要なことであるとは
私は思わないのです。
10.(
齋藤孝『
上機嫌の
作法』(角川書店))
長文 9.1週
1. 【1】日本を
訪れる外国人にとっては、日本の家が、
襖や
障子で仕切られていて、ひろい部屋がいつでも多くのせまい部屋になってしまうことや、
畳が部屋いっぱいに
敷きつめられていること、西洋の家のようにテーブルや
椅子など、家具がたくさん
置いてないことなどがめずらしくてたまらないようです。
2. 【2】このような
住居のくふうは、
寝殿造りの形をもとにして、
鎌倉時代から室町時代にかけて、できあがったものです。夏の
蒸し暑さをさけて、
涼しい風を取り入れるためには、それがいちばんつごうがよいのです。
3. 【3】いまでは、西洋ふうのアパートに住む人も多くなりましたが、せまい部屋で、まわりは
壁にかこまれ、
窓があいているだけでは、夏は、
扇風機や
冷房装置がなければ、とても暑苦しくてたまらないでしょう。【4】日本ふうの家では、夏は
襖や
障子をあけはなして、
涼しい風をいっぱい入れることができるのです。わたしたち日本人は、こうした家の中の生活になれていますが、日本人がとかくあけっぱなしの生活をあたりまえのことと考えているのは、ひとつにはそのためだと言うことができます。
4. 【5】わたしたちは、自分ひとりになるということがほとんどありません。部屋の中にいても、
襖をあけてだれかがはいって来ます。話をしていても、
障子の向こうでだれかが聞いているかもしれません。【6】日本式の家では、西洋ふうの家と
違って部屋にかぎをかけて
閉じこもるということができないのです。それぞれの部屋が
独立していてかぎがなければあけられない。かぎさえかけてしまえば
完全に自分だけ、自分たちだけになれる。【7】また、外出するときも、かぎさえかけておけば、るすに、ほかの人にじゃまをされない。かぎの生活というものは、実に
便利なものです。
便利であるばかりでなく、自分をみつめる、自分を
反省する、もっとひろく、そしてむずかしく言えば、
個人主義の考えを
養う上にたいそう役立つのです。【8】「日本では、自分ひとりになれる場所は、トイレの中だけだ」と言った人もいますが、たしかにそのとおりです。∵
5.
個人主義ということはけっして自分かってということではありません。【9】かえってその反対に、社会にたいする
義務や
権利をはっきりと
自覚して、自分の生活を
責任をもって
築き上げていくことです。そして、自分の生活とほかの人の生活との
区別をはっきりとつけていくことです。【0】自分の
権利を
主張するかわりに、ほかの人の
権利も
認めて、ほかの人のめいわくにならないように心がけることです。
6. ところがわたしたちは、とかくあけっぱなしの生活になれているので、おたがいにほかの人の目ざわりになったり、めいわくになったりすることをあまり気にかけません。他人の生活のじゃまをしてもへいきです。
幕末や
明治のころに日本に来た西洋の人々は、夏の日にほとんどはだかで家の外に出ていたり、
軒さきで行水をつかったりしている人々を見て、びっくりしました。
7.「日本人のこころ」(
岡田章雄著 筑摩書房)より
長文 9.2週
1. 【1】お客さまが来たときには
座布団を出します。ふたりで来たときには二
枚ならべます。集まりなどがあっておおぜいのお客が来ると、その数だけ
座布団がいります。
座布団が足りなければ、あとから来たお客は
畳の上にすわります。【2】「どうぞ、おつめください」と言って、ひざをおくっていけば、かなりたくさんの人数でも一部屋にはいってしまうことができます。「すこしせまいようですから、
襖をはずしましょう。」つぎの部屋も使えば、ずっとひろくなるでしょう。
2. 【3】日本間は、まったく
便利にできています。西洋式の部屋では、こんなわけにはいきません。
応接間には
椅子があり、ソファがあり、テーブルや、わきテーブルが
置いてあるので、そんなにおおぜいのお客ははいれません。【4】それに、きまった
椅子の数しか
腰かけられない。あとからおおぜい来ても、
椅子がなければ立っていなければなりません。それにとなりに部屋があっても、
壁やドアで仕切られていますから、いっしょにして使うことはむずかしいでしょう。
3. 【5】日本人は大むかしから
椅子を使いませんでした。
床にあぐらをかくのがふつうだったのです。
奈良朝のころになって
唐ふうの
風俗がさかんに
朝廷やお寺に取り入れられたとき、
椅子に
腰かける生活も一時は行なわれたようですが、そのまますたれてしまったということです。【6】その後、時代は下って、
信長や
秀吉のころに西洋の文化や
風俗がさかんに取り入れられたときにも、
椅子を使うならわしは
伝わりませんでした。
江戸時代に、
長崎の出島ではオランダ人がテーブルと
椅子の生活をしていましたが、日本人の生活の中には
影響をあたえなかったのです。【7】よく考えてみると、こうしたことも、ひとつには夏を
涼しく過ごすために、家具を多く
置かないという生活のくふうから、おこったもののようです。テーブルや
椅子が
置いてあれば、それだけ外からはいってくる
涼しい風がさえぎら∵れてしまいます。【8】
椅子に
腰かけているよりも、ひろい
畳の上にすわっていたほうが、その
畳の上を
渡ってくる風をうけてよっぽど
涼しいのです。
4.「日本では
居間が
応接間にもなり、
食堂にもなり、また
寝室にもなる」と言って西洋の人々はびっくりします。【9】
居間には
居間の家具があり、
応接間には
応接間の、
食堂には
食堂のテーブルや
椅子が
置かれ、また
寝室には家族の数だけベッドを用意しなければならない、西洋ふうの家からみれば、たしかにうそのような生活です。【0】家の中にひろく空間をとって、それを
必要によっていろいろに
利用する、こういった生活のくふうは、たしかにすばらしいものだといってよいでしょう。
5. なお、これに
似たすばらしい生活のくふうはほかにもあります。たとえば、
風呂敷(カバンとくらべてごらんなさい。)、げた(くつとくらべて)、はし(ナイフやフォーク)など、──ほかにどんなものがあるか考えてごらんなさい。
6.「日本人のこころ」(
岡田章雄著 筑摩書房)より
長文 9.3週
1. 【1】家のつくり方や、着るものと同じように、食べ物についても、日本
料理というものは、だいたい夏を
涼しく過ごすために、さっぱりとして、見た目もすがすがしいようにくふうされたものです。【2】日本ふうのものとして、外国人にもよろこばれるおすしや天ぷら、おそばなども、けっして冬
暖まるものではありません。夏の
料理はいくらでもありますが、冬の
料理としては
鍋ものとか、
汁ものとか、
湯豆腐などがあるくらいで、あまり
種類がないようです。【3】もっともこれらの
料理も、
江戸のころには、あまり上等な
料理ではなかったようです。
すき焼きは、牛肉を食べるならわしが始まった
明治時代
以後のものですが、その
料理のしかたは、
江戸のころに、シカやイノシシの肉を(
特別の
料理店で)
料理するときに行なわれていたものだということです。
2. 【4】
明治時代よりまえには、牛や馬の肉は食べなかったのです。それは、農業のためにだいじな
家畜だったからですが、ひとつには、外国と
違って、日本では
牧畜がほとんど行なわれなかったためです。【5】
仏教の教えでも、これらの動物の肉を食べることを
禁じていたのでした。ですから、
江戸のころには、寒い冬の夜には、あつく
煮たうどんを食べるとか、お酒をあたためてのむぐらいのことで、からだの中をあたためたのです。
3. 【6】今日では、西洋ふうの
料理や中国ふうの
料理がわたしたちの家庭の中にも多く取り入れられてきたので、むかしながらの日本
料理を食べるということが少なくなってきました。【7】ミソとか、
豆腐とか、
納豆、ノリなど、日本ふうの食事にはつきものだった食品も、
若い人たちにはあまりよろこばれなくなっています。しかし、わたしたちは洋食を食べても、ごはんを食べるならわしは
捨てていません。【8】一日に少なくも一度はごはんを食べないと気がすまない。西洋の人のようにパン食にしてしまうことは、なかなかできそうもありません。
4. わたしたち日本人は、二重の生活になれてしまいました。【9】ひと∵つは、日本の土地や気
候に合うように、遠いむかしから、くふうにくふうを重ねてきた生活、家のつくり方や着物、そして食べ物(ことにごはん)、もうひとつは、
明治にはいって西洋から取り入れられた合理
的な、
能率的な生活。
5. 【0】生活の中の二重
性(つまり、一方ではこの日本の土地に住みついているわたしたちにとっていちばんつごうのいいむかしながらの生活を楽しみながら、そして一方に近代社会にふさわしい合理
的な、
能率的な西洋ふうの生活をおくる。)──この二重
性は、生活の中ばかりでなく、日本の文化や
芸術、思想、学問、すべての中にみなぎっています。ちょうど
はしご段のない二階と下みたいに、まったく
別々のものが日本人の心の中に、二重に根をおろしています。
6.「日本人のこころ」(
岡田章雄著 筑摩書房)より
長文 9.4週
1. 【1】
武士の教育において第一に重んじられたのは、
品格の
形成であった。それに対して
思慮、
知識、
雄弁などの
知的才能はそれほど
重要視されなかった。
2. 【2】すでに
武士の教育に
美的な
価値が
重要な
役割を
占めていたことは
述べたが、
知性が
教養人として
欠かせないものであるにせよ、
武士の教育の
本質からいえば
付随的なものだった。【3】
知能が
優秀なことはむろん
尊ばれたが、
知性を表すのに用いられる「知」という漢字は、主として「
叡智」を意味し、
単なる知識は
従属的な
地位しかあたえられなかったのである。
3. 【4】
武士道の
枠組みを
支える三つの柱は「
智」「
仁」「
勇」とされ、それはすなわち「
知恵」「
仁愛」「
勇気」を意味した。なぜならサムライは
本質的には行動の人であるからだ。そのため学問はサムライの行動
範囲の外におかれた。【5】
彼らは
武士としての
職分に
関係することにのみ学問を
利用した。
宗教と神学は
僧侶や神宮にまかされ、サムライはそれらが
勇気を
養うのに役立つ場合に
限って
必要としたのである。【6】あるイギリスの詩人がいったように、サムライは「人間を
救うのは
教義ではない、
教義を正当化するものは人間である」と
信じていた。また
哲学(
儒学)と文学は
武士の
知的訓練の
主要な部分を
形成してはいたが、これらの学問でさえ、
追求されたのは
客観的事実ではなかった。【7】文学は
暇をまぎらす
娯楽として
求められ、
哲学は
軍事問題や
政治問題の
解明のためでなければ、あとは
品格を
形成する
実践的な助けになるものとして学ばれた。
4. 【8】
以上述べたことから、
武士道の教育科目が、主として
剣術、
弓術、
柔術もしくは「やわら」、乗馬、
槍術、
戦略戦術、書道、
道徳、文学、
歴史などだったとしても、
驚くに
値しないだろう。これらのうち
柔術と書道については多少の
説明がいる。∵【9】書が
優秀なことは大いに重んじられたが、それは日本の文字が絵画
的性質をもっており、それ自体が
芸術的な
価値があったからであろう。また、書体はその人の
人柄を表すものと
信じられていたからである。【0】さらに
柔術を
簡単に
定義すると、
攻撃や
防御のための
解剖学
的知識を
応用するということになる。
柔術は
筋力に
頼らない、という点で
相撲とは
異なる。また、いかなる
武器も使わないという点で、ほかの
攻撃方法とも
異なる。その
技は、相手の身体の一部をつかんだり、
叩いたりして、相手を
気絶もしくは
抵抗できないようにするものである。その
目的は
敵を
殺すことではなく、一時
的に行動できなくさせることであった。
5.
軍事教育において
当然あるべきはずなのに、
武士道の教育ではあえて外されていたものが数学であった。だが、これは
封建時代の
戦闘が科学
的な
正確さをもって
戦われなかったという事実によって、
一応の
説明がつくであろう。そればかりか、サムライの教育全体から見ても、数学
的概念を育てることは
芳しくなかったのである。
6. それは
武士道が
損得勘定を考えず、むしろ
貧困を
誇るからである。
武士道にあっては、
ヴェンティディウス(シェークスピア
劇の登場人物)がいうように、「
武人の
徳である
功名心は、名を
汚す利益よりも、むしろ
損失を
選ぶ」ものだった。かの
ドン・キホーテが黄金や
領土よりも、
彼の
錆びついた
槍とやせこけたロバを
誇りとした、ようにである。わがサムライは、この
誇大妄想に取りつかれたラ・マンチャの
騎士に、心から
同情するのである。
7.(
新渡戸稲造著/
岬龍一郎訳『
武士道――いま、
拠って立つべき「日本の
精神」』(PHP研究所)による)