長文集  10月1週  ○良いものを長く使う(感)  tu2-10-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2010/08/17 14:49:27
 【1】良いものを長く使う、というのが粋
とされた時代があっ た。
 イギリスやアメリカの名門大学の講師や教
授たちが、肘当てのついたツイードのジャケ
ットを何十年も愛用している話など、私が若
いころには皆が憧れたものである。
 【2】無理をして上等の品物を買うと、そ
れが古くなってもなかなか捨てることができ
ない。私の身のまわりには、そんな古着や古
靴が山のように積みあがっていて、身のおき
どころさえない有様 だ。
 【3】これが二、三十年前なら、喜々とし
てそんな年代物のジャケットや靴やカバンを
身につけて出歩いたことだろう。
 だが、そんな時代は、どうやらとっくに過
ぎ去ってしまったかのようである。【4】そ
して世間の風潮が、新しいものを短くサッと
使い捨てる方向へ変わってきたことを、いや
でも痛感しないわけにはいかない。
 私は新人作家のころに買ったマンションに
、三十七、八年間ずっと住んでいて、
「えっ、まだあそこにお住まいなんですか」
と、知人にびっくりされることも少なくない

 【5】コンクリートの建物は、三十年もた
つとかなりいたんでくるものだ。改修をくり
返したところで、いつかは限界がくるだろ 
う。
 そんな自宅マンションのガス湯沸かし器の
点火部分がこわれたのは、たぶん七、八年前
のことではあるまいか。
 【6】何しろ建物が完成して入居した日以
来、ずっと使い続けてきた古いガス湯沸かし
器なのである。三十年あまりも、よくこわれ
ずに保ったものだ。
 最初から操作する際に、やたらと力が必要
な機械だった。【7】バルブを開けるのも、
点火スイッチを押すにも、腰をすえて力をこ
めないと動かない。それだけ頑丈に作ってあ
るからこそ、三十年も故障なしで使ってこら
れたのだろう。∵
 【8】その頑固で無骨な旧式のガス湯沸か
し器の一部が、ついにこわれた。いい機会だ
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から新型に取りかえようと思った。最近は、
見た目もスマートで、機能的にも新しい給湯
器が、いくらでも出ているはずだ。
 【9】そう思いつつも、長年愛用してきた
古い道具への心残りもないわけではなかった

 この野暮な湯沸かし器は、一体どこの製品
なのだろうかと、ふと興味をおぼえたのであ
る。
 考えてみると、故障ひとつおこさずに三十
年も働いてきたというのは、それだけでもえ
らい。
 【0】あちこち調べていると、黄色く変色
したメーカーの紙がはりつけてあるのを発見
した。それではじめてその湯沸かし器がドイ
ツ製であることに気づいた。
 メーカーはユンカース。
 (中略)
 さらにあちこち調べてみると、日本の代理
店の住所と電話番号が印刷されている。
「何しろ三十年前だからなあ」
と、ほとんど期待しないで電話をかけてみた
。すぐに相手がでたので、びっくりする。
「あの、ユンカースの……」
「はい、はい、なんでしょう」
「ガス湯沸かし器の点火スイッチがこわれた
んですが、まさか、スペアの部品は……」
「ありますよ。修理なさるんですね」
「えっ、あるんですか」
 ドイツというのは、つくづく凄い国だと思
った。

(五木 寛之『新・風に吹かれて』(講談社
))