1. 【1】
良いものを長く使う、というのが
粋とされた時代があった。
2. イギリスやアメリカの名門大学の
講師や
教授たちが、
肘当てのついたツイードのジャケットを何十年も
愛用している話など、
私が
若いころには
皆が
憧れたものである。
3. 【2】
無理をして上等の品物を買うと、それが古くなってもなかなか
捨てることができない。
私の身のまわりには、そんな古着や古
靴が山のように
積みあがっていて、身のおきどころさえない有様だ。
4. 【3】これが二、三十年前なら、
喜々としてそんな年代物のジャケットや
靴やカバンを身につけて出歩いたことだろう。
5. だが、そんな時代は、どうやらとっくに
過ぎ去ってしまったかのようである。【4】そして世間の
風潮が、新しいものを短くサッと使い
捨てる方向へ
変わってきたことを、いやでも
痛感しないわけにはいかない。
6.
私は新人作家のころに買ったマンションに、三十七、八年間ずっと住んでいて、
7.「えっ、まだあそこにお住まいなんですか」
8.と、知人にびっくりされることも少なくない。
9. 【5】コンクリートの
建物は、三十年もたつとかなりいたんでくるものだ。
改修をくり返したところで、いつかは
限界がくるだろう。
10. そんな
自宅マンションのガス
湯沸かし器の点火部分がこわれたのは、たぶん七、八年前のことではあるまいか。
11. 【6】何しろ
建物が
完成して
入居した日
以来、ずっと使い
続けてきた古いガス
湯沸かし器なのである。三十年あまりも、よくこわれずに
保ったものだ。
12.
最初から
操作する
際に、やたらと力が
必要な
機械だった。【7】バルブを開けるのも、点火スイッチを
押すにも、
腰をすえて力をこめないと動かない。それだけ
頑丈に作ってあるからこそ、三十年も
故障なしで使ってこられたのだろう。∵
13. 【8】その
頑固で
無骨な
旧式のガス
湯沸かし器の一部が、ついにこわれた。いい
機会だから
新型に取りかえようと思った。
最近は、見た目もスマートで、
機能的にも新しい
給湯器が、いくらでも出ているはずだ。
14. 【9】そう思いつつも、長年
愛用してきた古い道具への
心残りもないわけではなかった。
15. この
野暮な
湯沸かし器は、一体どこの
製品なのだろうかと、ふと
興味をおぼえたのである。
16. 考えてみると、
故障ひとつおこさずに三十年も
働いてきたというのは、それだけでもえらい。
17. 【0】あちこち調べていると、黄色く
変色したメーカーの紙がはりつけてあるのを発見した。それではじめてその
湯沸かし器がドイツ
製であることに気づいた。
18. メーカーはユンカース。
19. (
中略)
20. さらにあちこち調べてみると、日本の代理店の住所と電話番号が
印刷されている。
21.「何しろ三十年前だからなあ」
22.と、ほとんど期待しないで電話をかけてみた。すぐに相手がでたので、びっくりする。
23.「あの、ユンカースの……」
24.「はい、はい、なんでしょう」
25.「ガス
湯沸かし器の点火スイッチがこわれたんですが、まさか、スペアの部品は……」
26.「ありますよ。
修理なさるんですね」
27.「えっ、あるんですか」
28. ドイツというのは、つくづく
凄い国だと思った。
29.(五木
寛之『新・風に
吹かれて』(
講談社))