長文集  10月4週  ○左右に偏らず(感)  tu2-10-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2011/09/13 14:15:39
 【1】左右に偏らず、目指す地点に近づく
ことは大事なことである。しかし、私たちは
黒白どちらかに行き過ぎることが多い。働く
といえば働きっぱなし、休むといえばゆるみ
っぱなしになりがちなのが人間というものら
しい。【2】酒は百薬の長、などという。い
い加減にたしなめば心身にいい影響があるこ
とはたしかだ。しか し、どこをもってその
理想的な地点とするのか。ここに一般的な基
準はないと私は思う。私は宇宙天地の間に、
ただ一人の私なのだ。【3】同じ人間は地球
上にいない。そうとなれば、私個人の基準を
さがし、それを目標にするしかない。日々の
労働の場においては、そこまで個人を主張で
きるわけではない。私たちは共通の規則にし
たがわなければ暮らしていけないのだ。【4
】しかし、自分の休日は、自分でやりたいこ
とをやる。ほかの人から見てばかばかしいと
思われようが、無駄だと笑われようが、そこ
は個人の世界である。
 薬の使用書などを読むと、十三歳以下はこ
れこれ、大人はこれこれ、と使用量が指定さ
れている。【5】しかし、現実には四十キロ
の体重に満たない大人の女性もいれば、百キ
ロ以上の重い人もい る。二十歳の青年もい
れば、八十歳をすぎた老人もいる。胃腸の丈
夫な人もいれば、すぐに調子を悪くするタイ
プもいる。【6】アレルギー体質の人も、病
みあがりの人も、すべて大人ということでく
くってしまう共通の世界だ。使用にあたって
は医師の指示を受け て、などと書いてある
が、薬局で一般的な売薬を買ってくる人で、
いちいち医師に相談する人がいるだろうか。
 【7】そこでは私たちは人間一般として取
り扱われているのだ。社会とはそういうもの
だ。私たちは一個の個人としてではなく、多
数の類似品のひとつと見なされるのである。
 こうなれば、せめて自分の休日ぐらいは、
世界でただ一人の自己と向きあいたい。【8
】自分は一体どういう人間なのか、体や心は
どのように他人とちがうか、そこを見極める
ことからはじめて、自分だ∵けの遊び方をさ
がすことだ。そのとき、世界のなかの私では
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なくて、私ひとりの世界が見えてくる。【9
】ちゃんと体を洗う、ということでさえも楽
しく遊ぶことはできる。休日の一日、断食し
てみるという遊び方もある。読めるけれども
書けない漢字を十個ほどリストアップして、
一日かかってぜんぶ書けるようにする、とい
う遊びもある。【0】自分の生まれた年に、
なにがあり、どんな人がいたかを調べて遊ぶ
こともできる。私は昭和七年、一九三二年の
生まれだが、その年の流行語とか、その年に
発表された作品とかを拾い集めて遊んだこと
があった。昭和七年には、例えば俳句では、
中村汀女(ていじょ)の「さみだれや 船が
おくる電話など」という句が作られており、
杉田久女が『花衣(はなごろも)』を創刊、
「ぬかづけば われも善女や仏生会(ぶっし
ょうえ)」などという句を発表している。流
行語には「生まれてはみたけれど」などとい
う文句があった。
 そんなことのどこがおもしろいのか、とき
かれれば頭をかくしかない。しかし、ほかの
人にとって意味のないことこそ、自分にとっ
ては大事なのだ。世間一般ではなく、自分の
世界をつくりだすこ と、これが私の頭休め
であり、格好よくいえば知の休日でもあっ 
た。とりあえず、こんな休日をつみ重ねて、
私は六十七歳の今日まで、何とか生きながら
えてきた。こんどひまができたら何をしよう
か、と、いつも楽しみながら暮らしている。
歳を重ねるごとに一年が早くすぎてゆく、と
は、よく耳にすることだ。たしかに時間が矢
のようにとび去っていく感じがある。しかし
、ちゃんと退屈することができたとき、時間
はゆるやかに流れはじめるのだ。さて、なに
をしてきょう一日をすごそうか、と考えると
きは、すでにもう世間の時間ではなく、自分
の時間に変りはじめているのである。時間を
自分のリズムにすることこそ、この忙しい人
生をたっぷり生きるための秘訣ではないだろ
うか。

(五木寛之「知の休日」(集英社新書)によ
る)