1. 【1】左右に
偏らず、目指す地点に近づくことは大事なことである。しかし、
私たちは黒白どちらかに
行き過ぎることが多い。
働くといえば
働きっぱなし、休むといえばゆるみっぱなしになりがちなのが人間というものらしい。【2】酒は百薬の長、などという。
いい加減にたしなめば心身にいい
影響があることはたしかだ。しかし、どこをもってその理想
的な地点とするのか。ここに
一般的な
基準はないと
私は思う。
私は
宇宙天地の間に、ただ一人の
私なのだ。【3】同じ人間は地球上にいない。そうとなれば、
私個人の
基準をさがし、それを
目標にするしかない。日々の
労働の場においては、そこまで
個人を
主張できるわけではない。
私たちは
共通の
規則にしたがわなければ
暮らしていけないのだ。【4】しかし、自分の休日は、自分でやりたいことをやる。ほかの人から見てばかばかしいと思われようが、
無駄だと
笑われようが、そこは
個人の世界である。
2. 薬の使用書などを読むと、十三
歳以下はこれこれ、大人はこれこれ、と使用
量が指定されている。【5】しかし、
現実には四十キロの体重に
満たない大人の
女性もいれば、百キロ
以上の重い人もいる。二十
歳の青年もいれば、八十
歳をすぎた
老人もいる。
胃腸の
丈夫な人もいれば、すぐに調子を悪くするタイプもいる。【6】アレルギー
体質の人も、病みあがりの人も、すべて大人ということでくくってしまう
共通の世界だ。使用にあたっては
医師の
指示を受けて、などと書いてあるが、薬局で
一般的な売薬を買ってくる人で、いちいち
医師に相談する人がいるだろうか。
3. 【7】そこでは
私たちは人間
一般として
取り扱われているのだ。社会とはそういうものだ。
私たちは一
個の
個人としてではなく、多数の
類似品のひとつと見なされるのである。
4. こうなれば、せめて自分の休日ぐらいは、世界でただ一人の
自己と向きあいたい。【8】自分は一体どういう人間なのか、体や心はどのように他人とちがうか、そこを
見極めることからはじめて、自分だ∵けの遊び方をさがすことだ。そのとき、世界のなかの
私ではなくて、
私ひとりの世界が見えてくる。【9】ちゃんと体を
洗う、ということでさえも楽しく遊ぶことはできる。休日の一日、
断食してみるという遊び方もある。読めるけれども書けない漢字を十
個ほどリストアップして、一日かかってぜんぶ書けるようにする、という遊びもある。【0】自分の生まれた年に、なにがあり、どんな人がいたかを調べて遊ぶこともできる。
私は昭和七年、一九三二年の生まれだが、その年の流行語とか、その年に発表された作品とかを拾い集めて遊んだことがあった。昭和七年には、
例えば俳句では、中村
汀女の「さみだれや 船がおくる電話など」という
句が作られており、
杉田久女が『
花衣』を
創刊、「ぬかづけば われも
善女や
仏生会」などという
句を発表している。流行語には「生まれてはみたけれど」などという
文句があった。
5. そんなことのどこがおもしろいのか、ときかれれば頭をかくしかない。しかし、ほかの人にとって意味のないことこそ、自分にとっては大事なのだ。世間
一般ではなく、自分の世界をつくりだすこと、これが
私の頭休めであり、
格好よくいえば知の休日でもあった。とりあえず、こんな休日をつみ重ねて、
私は六十七
歳の今日まで、何とか生きながらえてきた。こんどひまができたら何をしようか、と、いつも楽しみながら
暮らしている。
歳を重ねるごとに一年が早くすぎてゆく、とは、よく耳にすることだ。たしかに時間が矢のようにとび去っていく感じがある。しかし、ちゃんと
退屈することができたとき、時間はゆるやかに流れはじめるのだ。さて、なにをしてきょう一日をすごそうか、と考えるときは、すでにもう世間の時間ではなく、自分の時間に
変りはじめているのである。時間を自分のリズムにすることこそ、この
忙しい人生をたっぷり生きるための
秘訣ではないだろうか。
6.(五木
寛之「知の休日」(
集英社新書)による)