長文 10.4週
1. 【1】左右に偏らかたよ ず、目指す地点に近づくことは大事なことである。しかし、わたしたちは黒白どちらかに行き過ぎるい す  ことが多い。働くはたら といえば働きはたら っぱなし、休むといえばゆるみっぱなしになりがちなのが人間というものらしい。【2】酒は百薬の長、などという。いい加減  かげんにたしなめば心身にいい影響えいきょうがあることはたしかだ。しかし、どこをもってその理想てきな地点とするのか。ここに一般いっぱんてき基準きじゅんはないとわたしは思う。わたし宇宙うちゅう天地の間に、ただ一人のわたしなのだ。【3】同じ人間は地球上にいない。そうとなれば、わたし個人こじん基準きじゅんをさがし、それを目標もくひょうにするしかない。日々の労働ろうどうの場においては、そこまで個人こじん主張しゅちょうできるわけではない。わたしたちは共通きょうつう規則きそくにしたがわなければ暮らしく  ていけないのだ。【4】しかし、自分の休日は、自分でやりたいことをやる。ほかの人から見てばかばかしいと思われようが、無駄むだだと笑わわら れようが、そこは個人こじんの世界である。
2. 薬の使用書などを読むと、十三さい以下いかはこれこれ、大人はこれこれ、と使用りょうが指定されている。【5】しかし、現実げんじつには四十キロの体重に満たみ ない大人の女性じょせいもいれば、百キロ以上いじょうの重い人もいる。二十さいの青年もいれば、八十さいをすぎた老人ろうじんもいる。胃腸いちょう丈夫じょうぶな人もいれば、すぐに調子を悪くするタイプもいる。【6】アレルギー体質たいしつの人も、病みあがりの人も、すべて大人ということでくくってしまう共通きょうつうの世界だ。使用にあたっては医師いし指示しじを受けて、などと書いてあるが、薬局で一般いっぱんてきな売薬を買ってくる人で、いちいち医師いしに相談する人がいるだろうか。
3. 【7】そこではわたしたちは人間一般いっぱんとして取り扱わと あつか れているのだ。社会とはそういうものだ。わたしたちは一個人こじんとしてではなく、多数の類似るいじ品のひとつと見なされるのである。
4. こうなれば、せめて自分の休日ぐらいは、世界でただ一人の自己じこと向きあいたい。【8】自分は一体どういう人間なのか、体や心はどのように他人とちがうか、そこを見極めるみきわ  ことからはじめて、自分だ∵けの遊び方をさがすことだ。そのとき、世界のなかのわたしではなくて、わたしひとりの世界が見えてくる。【9】ちゃんと体を洗うあら 、ということでさえも楽しく遊ぶことはできる。休日の一日、断食だんじきしてみるという遊び方もある。読めるけれども書けない漢字を十ほどリストアップして、一日かかってぜんぶ書けるようにする、という遊びもある。【0】自分の生まれた年に、なにがあり、どんな人がいたかを調べて遊ぶこともできる。わたしは昭和七年、一九三二年の生まれだが、その年の流行語とか、その年に発表された作品とかを拾い集めて遊んだことがあった。昭和七年には、例えばたと  俳句はいくでは、中村汀女ていじょの「さみだれや 船がおくる電話など」というが作られており、杉田すぎた久女ひさじょが『花衣はなごろも』を創刊そうかん、「ぬかづけば われも善女ぜんにょ仏生会ぶっしょうえ」などというを発表している。流行語には「生まれてはみたけれど」などという文句もんくがあった。
5. そんなことのどこがおもしろいのか、ときかれれば頭をかくしかない。しかし、ほかの人にとって意味のないことこそ、自分にとっては大事なのだ。世間一般いっぱんではなく、自分の世界をつくりだすこと、これがわたしの頭休めであり、格好よくかっこう  いえば知の休日でもあった。とりあえず、こんな休日をつみ重ねて、わたしは六十七さいの今日まで、何とか生きながらえてきた。こんどひまができたら何をしようか、と、いつも楽しみながら暮らしく  ている。としを重ねるごとに一年が早くすぎてゆく、とは、よく耳にすることだ。たしかに時間が矢のようにとび去っていく感じがある。しかし、ちゃんと退屈たいくつすることができたとき、時間はゆるやかに流れはじめるのだ。さて、なにをしてきょう一日をすごそうか、と考えるときは、すでにもう世間の時間ではなく、自分の時間に変りかわ はじめているのである。時間を自分のリズムにすることこそ、この忙しいいそが  人生をたっぷり生きるための秘訣ひけつではないだろうか。

6.(五木寛之ひろゆき「知の休日」(集英社しゅうえいしゃ新書)による)