長文 10.1週
1. 【1】
良いものを長く使う、というのが
粋とされた時代があった。
2. イギリスやアメリカの名門大学の
講師や
教授たちが、
肘当てのついたツイードのジャケットを何十年も
愛用している話など、
私が
若いころには
皆が
憧れたものである。
3. 【2】
無理をして上等の品物を買うと、それが古くなってもなかなか
捨てることができない。
私の身のまわりには、そんな古着や古
靴が山のように
積みあがっていて、身のおきどころさえない有様だ。
4. 【3】これが二、三十年前なら、
喜々としてそんな年代物のジャケットや
靴やカバンを身につけて出歩いたことだろう。
5. だが、そんな時代は、どうやらとっくに
過ぎ去ってしまったかのようである。【4】そして世間の
風潮が、新しいものを短くサッと使い
捨てる方向へ
変わってきたことを、いやでも
痛感しないわけにはいかない。
6.
私は新人作家のころに買ったマンションに、三十七、八年間ずっと住んでいて、
7.「えっ、まだあそこにお住まいなんですか」
8.と、知人にびっくりされることも少なくない。
9. 【5】コンクリートの
建物は、三十年もたつとかなりいたんでくるものだ。
改修をくり返したところで、いつかは
限界がくるだろう。
10. そんな
自宅マンションのガス
湯沸かし器の点火部分がこわれたのは、たぶん七、八年前のことではあるまいか。
11. 【6】何しろ
建物が
完成して
入居した日
以来、ずっと使い
続けてきた古いガス
湯沸かし器なのである。三十年あまりも、よくこわれずに
保ったものだ。
12.
最初から
操作する
際に、やたらと力が
必要な
機械だった。【7】バルブを開けるのも、点火スイッチを
押すにも、
腰をすえて力をこめないと動かない。それだけ
頑丈に作ってあるからこそ、三十年も
故障なしで使ってこられたのだろう。∵
13. 【8】その
頑固で
無骨な
旧式のガス
湯沸かし器の一部が、ついにこわれた。いい
機会だから
新型に取りかえようと思った。
最近は、見た目もスマートで、
機能的にも新しい
給湯器が、いくらでも出ているはずだ。
14. 【9】そう思いつつも、長年
愛用してきた古い道具への
心残りもないわけではなかった。
15. この
野暮な
湯沸かし器は、一体どこの
製品なのだろうかと、ふと
興味をおぼえたのである。
16. 考えてみると、
故障ひとつおこさずに三十年も
働いてきたというのは、それだけでもえらい。
17. 【0】あちこち調べていると、黄色く
変色したメーカーの紙がはりつけてあるのを発見した。それではじめてその
湯沸かし器がドイツ
製であることに気づいた。
18. メーカーはユンカース。
19. (
中略)
20. さらにあちこち調べてみると、日本の代理店の住所と電話番号が
印刷されている。
21.「何しろ三十年前だからなあ」
22.と、ほとんど期待しないで電話をかけてみた。すぐに相手がでたので、びっくりする。
23.「あの、ユンカースの……」
24.「はい、はい、なんでしょう」
25.「ガス
湯沸かし器の点火スイッチがこわれたんですが、まさか、スペアの部品は……」
26.「ありますよ。
修理なさるんですね」
27.「えっ、あるんですか」
28. ドイツというのは、つくづく
凄い国だと思った。
29.(五木
寛之『新・風に
吹かれて』(
講談社))
長文 10.2週
1. 【1】今までの
実験では、問題をクレバー・ハンスに
示すときに、その場にいる人たちはもちろん、その問題をいっしょにみて知っているわけですが、こんどは、問題をその場にいる人たちには知れないようにして、クレバー・ハンスだけがわかるようにします。【2】たとえば一
枚一
枚のカードに問題を書いてごちゃごちゃにし、その中から一
枚を
抜き出して、それがどの問題を書いたカードかがその場にいるだれにもわからないようにして、ハンスに
示します。【3】そうすると、もうウマはまったく答えることができません。一番やさしい問題にも答えられないのです。クレバー・ハンスは、とめどなくヒヅメで
床をたたいたり、わけのわからない仕方で
床を打ったりするだけです。【4】そのようすは、ちょうど、問題を
解こうとしているというよりは、問題を出した人が
床をたたくのをやめろという合図をするのを今か今かと待っているようにみえます。これはどうしたことでしょうか。
2. 【5】クレバー・ハンスが習ったのは、問題のほんとうの
解き方ではなかったのです。答えに相当する数を打ちおわった
瞬間に、まわりの人が知らず知らずにちょっと動いたりする、この
微妙な動きを見ぬくことを習っていたのです。
3. 【6】
実験を行う
質問者の立場になって考えてみましょう。
質問者は、
必要な打ち数をあらかじめ知っているわけです。
床をたたく打ち数を
正確に数えるためには、
質問者自身が数えなければなりません。【7】それですから、
最後の打ち数になった
瞬間には
質問者は
自然にほっとすることになります。そういうときには、頭やからだをおもわずちょっと前へ出すとかうしろへ引くとかするものです。【8】クレバー・ハンスは、まわりの人びとがするこの
微妙な運動に答えていたのです。
4. プングストはこういう運動を問題の答えと
関係なく、少々大げさにやってみましたところ、クレバー・ハンスの答えを自由に
変えることに
成功しました。【9】このウマは、もともとこういう運動をわざわざ習ったわけではないのですが、
訓練中に
自然にそうならされてしまったものでしょう。∵
5. アマガエルはじっとしている
獲物には気がつきませんが、それが動きだすと、急にとびつきます。【0】動物は
静止しているものには
鈍感ですが、運動には、それがほんのわずかな運動でも、気がつくことができます。ウマについても同じことです。
6. ウマが人間と同じ
知恵をもっているという
信念を
確かめるためにやった大さわぎは、ただ、ウマが
微妙な運動をすばやくみわけられることを
確かめていたにすぎなかったわけです。世間の人たちや学者たちまでがそれに気がつかなかったのは、クレバー・ハンスの答えの
正確なことにまどわされて、答えがえられる仕方がまったく人間の場合と同じだと思いこんでいたからです。
7. 動物が人間と同じような
表情をしたり、行動をするように思えることがありますが、そのときにすぐ、人間になぞらえて考えてしまいがちです。しかし、その行動にとらわれない心で
観察し、前後のすじ道を考えてみますと、まったく当たらないことがあるものです。
8. クレバー・ハンスの大さわぎは、このうえもなくばかげたことのようですが、動物が人間と同じ
知恵をもっていて、人間と同じように教育ができるというのはまちがいだということをはっきりわたくしたちに教えてくれたのです。それでわたくしたちはこのことを、「クレバー・ハンスの
誤り」とよんでいます。その意味は、クレバー・ハンスが答えをまちがえたからではありません。クレバー・ハンスが、人間がもっているような
知恵で答えられると
信じていた人たちのまちがいという意味です。
9.(「動物とこころ」 小川
隆著 大日本図書より)
長文 10.3週
1. 【1】イヌが聞きわける音は、魚の聞きわける音よりも広い
範囲のように思えます。わたくしたちが注意してもほとんど聞くことのできない遠くの音にイヌは耳をそば立てて、
吠えることがあるのは、みなさんも知っていることでしょう。
2. 【2】フォックス先生は
直径三ミリほどのスチールのボールを三センチくらいの高さから
床に落として
実験しましたが、人間にやっと聞こえる
距離の四倍も遠い
距離でも、イヌには、ボールの落ちる音が聞こえることを
確かめました。【3】これはイヌがわたくしたちが聞きわけられる音よりもずっと弱い音を聞きわけるということですが、わたくしたちにはあまり高くて聞くことのできない音も聞きわけることがわかりました。【4】サイレント笛といわれる笛は、わたくしたちには聞こえない高い音も出せますが、口笛のようにこれを
吹いてイヌをよぶ
訓練もできます。また、
楽器の
奏でる音の中には、わたくしたちには聞こえない高い音がふくまれていますが、イヌはこれを聞きわけることもできるのです。
3. 【5】ソビエトのパブロフ先生は
お腹のすいたイヌに肉を食べさせる数秒前にベルの音を聞かせることをくり返しましたが、三十回くり返すと、イヌが肉のにおいをかいだり、みたりしないうちに、音を聞いただけで口の中によだれが出てくることをみつけました。【6】イヌののどにゴムの
管を入れておきますと、よだれが
管を通ってしずくになって出てきます。このしずくを
目盛のついたガラスびんの中にうけ入れると、よだれの
分量を
測ることができます。【7】音を聞かせては肉を食べさせることをくり返しますと、音を聞くとすぐによだれが出てくるだけでなく、その
分量もだんだんに
増えていくことがわかりました。このやり方は
条件づけといいます。【8】わたくしたちも、
お腹のすいたお昼時に、学校の
授業の終わりを
告げるベルの音を聞くと、
自然に口の中につばがでて来たりしますが、これと同じことと思えます。∵
4. 【9】このやり方でイヌにピアノのある音を聞かせてから、その音を出した
鍵盤からずっと
離れた
鍵盤の音を聞かせてみましたところ、はじめの音ではよだれがでてくるのに後の音では止まってしまったのです。【0】イヌにとって二つの音は同じ音ではなく、ちがう音として明らかに
区別されたわけです。はじめの音はごちそうの出る合図ですが、それとはちがう後の音は合図にはならなかったのです。イヌは
鍵盤のひとつひとつの音を
区別できるばかりではなく、その四分の一の高さのちがいでも聞きわけることができます。もちろん、わたくしたち人間も、ことにバイオリンをひいたり、フリュートを
吹いたりする人たち、また、それらの
楽器を
調律する人たちは、これよりももっとわずかな音の高さのちがいをも聞きわけられます。
5.(「動物とこころ」 小川
隆著 大日本図書より)
長文 10.4週
1. 【1】左右に
偏らず、目指す地点に近づくことは大事なことである。しかし、
私たちは黒白どちらかに
行き過ぎることが多い。
働くといえば
働きっぱなし、休むといえばゆるみっぱなしになりがちなのが人間というものらしい。【2】酒は百薬の長、などという。
いい加減にたしなめば心身にいい
影響があることはたしかだ。しかし、どこをもってその理想
的な地点とするのか。ここに
一般的な
基準はないと
私は思う。
私は
宇宙天地の間に、ただ一人の
私なのだ。【3】同じ人間は地球上にいない。そうとなれば、
私個人の
基準をさがし、それを
目標にするしかない。日々の
労働の場においては、そこまで
個人を
主張できるわけではない。
私たちは
共通の
規則にしたがわなければ
暮らしていけないのだ。【4】しかし、自分の休日は、自分でやりたいことをやる。ほかの人から見てばかばかしいと思われようが、
無駄だと
笑われようが、そこは
個人の世界である。
2. 薬の使用書などを読むと、十三
歳以下はこれこれ、大人はこれこれ、と使用
量が指定されている。【5】しかし、
現実には四十キロの体重に
満たない大人の
女性もいれば、百キロ
以上の重い人もいる。二十
歳の青年もいれば、八十
歳をすぎた
老人もいる。
胃腸の
丈夫な人もいれば、すぐに調子を悪くするタイプもいる。【6】アレルギー
体質の人も、病みあがりの人も、すべて大人ということでくくってしまう
共通の世界だ。使用にあたっては
医師の
指示を受けて、などと書いてあるが、薬局で
一般的な売薬を買ってくる人で、いちいち
医師に相談する人がいるだろうか。
3. 【7】そこでは
私たちは人間
一般として
取り扱われているのだ。社会とはそういうものだ。
私たちは一
個の
個人としてではなく、多数の
類似品のひとつと見なされるのである。
4. こうなれば、せめて自分の休日ぐらいは、世界でただ一人の
自己と向きあいたい。【8】自分は一体どういう人間なのか、体や心はどのように他人とちがうか、そこを
見極めることからはじめて、自分だ∵けの遊び方をさがすことだ。そのとき、世界のなかの
私ではなくて、
私ひとりの世界が見えてくる。【9】ちゃんと体を
洗う、ということでさえも楽しく遊ぶことはできる。休日の一日、
断食してみるという遊び方もある。読めるけれども書けない漢字を十
個ほどリストアップして、一日かかってぜんぶ書けるようにする、という遊びもある。【0】自分の生まれた年に、なにがあり、どんな人がいたかを調べて遊ぶこともできる。
私は昭和七年、一九三二年の生まれだが、その年の流行語とか、その年に発表された作品とかを拾い集めて遊んだことがあった。昭和七年には、
例えば俳句では、中村
汀女の「さみだれや 船がおくる電話など」という
句が作られており、
杉田久女が『
花衣』を
創刊、「ぬかづけば われも
善女や
仏生会」などという
句を発表している。流行語には「生まれてはみたけれど」などという
文句があった。
5. そんなことのどこがおもしろいのか、ときかれれば頭をかくしかない。しかし、ほかの人にとって意味のないことこそ、自分にとっては大事なのだ。世間
一般ではなく、自分の世界をつくりだすこと、これが
私の頭休めであり、
格好よくいえば知の休日でもあった。とりあえず、こんな休日をつみ重ねて、
私は六十七
歳の今日まで、何とか生きながらえてきた。こんどひまができたら何をしようか、と、いつも楽しみながら
暮らしている。
歳を重ねるごとに一年が早くすぎてゆく、とは、よく耳にすることだ。たしかに時間が矢のようにとび去っていく感じがある。しかし、ちゃんと
退屈することができたとき、時間はゆるやかに流れはじめるのだ。さて、なにをしてきょう一日をすごそうか、と考えるときは、すでにもう世間の時間ではなく、自分の時間に
変りはじめているのである。時間を自分のリズムにすることこそ、この
忙しい人生をたっぷり生きるための
秘訣ではないだろうか。
6.(五木
寛之「知の休日」(
集英社新書)による)
長文 11.1週
1. 【1】デンショバトは、
巣から二千キロメートルほども
離れた場所で放されても、まちがいなくもどって来ます。
長距離といえば
渡り鳥が海を
渡ってとぶのはもっとおどろくべきことかもしれません。【2】
例えばツバメは夏の終わるころ、ヨーロッパの国ぐにから南アフリカ
各地に
渡って冬を
過ごします。しかも、
翌年の春にはヨーロッパにまいもどり、
以前の
巣があって、そこからとび立った
建物の
軒下にふたたび
巣をかけることもあるのです。【3】イギリスから南にとんで行った十四羽のツバメの足に足
環をはめ、
印としておいたところ、全部が南アフリカでみつけられたという
報告もあります。この
渡行距離はおよそ一万キロメートルもあるのです。【4】そして、ツバメたちは春にはまたイギリスにもどってくるわけです。どうしてこんな長い
距離を
正確に
往復することができるのでしょうか。親鳥から次つぎの世代に
渡りの
道筋を
伝えるのでしょうか。【5】どうもそうではないらしいのです。親鳥は
若い鳥たちがとび立つまえに、さっさと先にとんで行ってしまいます。
若鳥はその後を
特に追いかけるのでもないのです。
2. 【6】一度、通った道を帰ってくるときには、
途中の地形や目立ったものが手がかりになります。ところが
渡り鳥は洋上をとんで
渡行するので、なにも
目印はないし、しかも夜間
飛行もするのです。
3. 【7】アメリカ
産のチドリは、
初秋のころ、カナダから南アメリカに三千キロメートルの洋上をノンストップでとぶということです。ペンギン鳥はとぶことはできませんが、中には毎年、
南極大陸と南アメリカとを泳いで
往復するものもいます。【8】鳥たちがまちがいなく
巣にもどってくるのは、地形をおぼえたり、目立ったなにかを
目印にしたりするのではないようです。
4. 虫たちもこれに
似た大
移動をします。【9】イナゴの
大群が、東アフリカでは、八時間にわたって休みなく五〜六〇〇キロメートルの∵
距離を一定の方向にとんで行くということです。イナゴの
幼虫は、羽をもっていませんが、羽をもつようになると
群らがり出し、とび立って行くのです。【0】
乾燥した年には緑の草を
求めて、風をたよりに
群らがってとぶのです。ヨーロッパにいるヒメアカハタチョウは冬の
季節にはそこでは生き
続けられないのですが、その
季節に北アフリカで
繁殖します。やがて春をむかえると、チョウは地中海を
渡って六月ころにはヨーロッパに
到着します。七月に
卵を
産みつけ、新しい
幼虫は八月には一人前になります。大部分のチョウはヨーロッパで冬を
越すことはできませんが、その中からふたたび、アフリカにとぶものもいるのです。チョウは一定の方向にとび、風向きが
変わっても方向をとりちがえないで行きますので、
渡り鳥と同様、ふしぎな
能力をもっているわけです。
5.(「動物とこころ」 小川
隆著 大日本図書より)
長文 11.2週
1. 【1】ウナギは
卵を生むために育った土地から五〜六〇〇〇キロメートルも
離れたところまで泳いで行くということですが、そこで生まれた子どもがふたたび両親の育った土地まで帰ってくるというのですから、これもふしぎな大旅行といえそうです。【2】ウナギはおよそ十
歳になると川を下って海に出て行きます。
例えばヨーロッパ
各地のウナギは川をつたって大西洋に入ります。そこからは深海にもぐって西インド
諸島の
付近まで行くらしいのです。そこでウナギの両親は子どもを
産んで死ぬのです。【3】育った子ウナギは、やがて海を
渡ってヨーロッパにもどる大旅行をすることになります。海からヨーロッパの
河口に
到達するころになると、ウナギの身長は五センチ
以上になりますが、
群れをなして上流にさかのぼって行きます。【4】そして、両親の育った場所にもどり、ふたたび、両親の役目をくり返すわけです。この大旅行についても、
渡り鳥やデンショバトのような太陽コンパスが考えられるかどうか、両親の
故郷の生活を一度もしたことのないウナギの子が、そこに帰って行くことを考えるとなかなかむずかしいことです。
2. 【5】サケも
卵を生むために大旅行をしますが、ウナギの場合とちょうど
逆さまで、海から泳いで
河口に
達し川をさかのぼって行きます。
卵は上流の
河床に
産みつけられるのです。生まれたサケの子は、
約二年間、川の中で
過ごし、それから川を下って海に出て行きます。【6】そこで二年
以上過ごし、十分に
成長したサケはふたたび、海から川に向かってもどることになります。ふしぎなのは、サケがもどる川が、はじめに育って出て行った川だということです。同じサケがもどって来たのかどうかを
確かめるために、ひれのある場所を切って
印をつけておいてわかったのです。
3. 【7】サケはおどろくべき
記憶力をもっていて、出て行った川をおぼえているのでしょうか。サケの
卵を
産卵地とちがう川の上流に
移しかえる
実験がアメリカのカリフォルニアで行われました。【8】サケは生まれた土地にではなく、育った土地にもどって来ました。∵サケは育った土地をおぼえていたのです。サケはなにを
目印に
故郷の川をさがし出すのでしょうか、海の中にも太陽コンパスは
働くかもしれません。しかし、魚の場合にはそれ
以外にも手がかりがあります。【9】それは
臭です。二つの
別の川の水を
水槽の中に流し、一方の流れのときだけ
餌を入れますと、サケは流れのちがいを
嗅ぎわけるらしいのです。それですから、海から
河口に近づくと自分の育った川の流れをさぐり当てることもできそうです。【0】
4.(「動物とこころ」 小川
隆著 大日本図書より)
長文 11.3週
1. 【1】動物たちは、わたくしたち人間と同じような時間のはやさを感じているのでしょうか。ドイツの
若い先生たちは
水槽の中にトウギョを入れ、
灰色の
円盤のうしろに
餌を
置きました。【2】トウギョが
円盤をまわって
餌にぱくつくことを
訓練しようとしたのです。魚はやがてそうするようになりましたが、そのあとで、
灰色の
円盤の代わりに黒・白の
扇形に
塗り分けた
円盤を用いそれをはやく回転しました。【3】この回転をうまく
調節すると
灰色の
円盤と同じようにみえます。魚は
灰色の
円盤と同じように
餌を
求めて
近寄って来ました。次には、回転をゆっくりし、
灰色の
円盤にはみえなくなり、白・黒の
扇形が
交替してみえるようにします。【4】それでもトウギョが
近寄ってくれば追いはらうことにしました。その後、ゆっくりした回転からはやい回転まで、いろいろの速さで
試してみましたが、一回転、五十分の一秒
以内ではトウギョは近づいて来ますが、それよりおそくなると遠ざかってしまいました。【5】速く動きまわっている
獲物をとらえて生きているトウギョにとっては、わたくしたちが感じられないほど速い運動も感じとることができるのでしょう。
2. 終わりにもう一つおもしろい
実験をお話ししましょう。【6】カタツムリを、ゴムのボールの上にのせます。
殻のところは上からかすがいでとめてあるので、カタツムリは
移動することはできないのです。しかし、ゴムボールは水の上に
浮かんでいますからなめらかにすべり動かすことができます。【7】この仕組みでカタツムリは持前のはう運動を自由にすることができますが、その
結果、
移動はしないわけです。一本の
棒を前方からカタツムリの足の
裏に近づけますと、カタツムリはその上にはい上がろうとします。【8】一秒間に一〜三回、
棒を
振動させますとカタツムリははい上がろうとはしません。ところが一秒間に四回
以上振動させますと、カタツムリは平気ではい上がって来ようとします。ゆっくりとはっているカタツムリ∵にとっては、一秒間に四回
以上の
振動は
静止しているのと同じなのです。【9】カタツムリのはうスピードはわたくしたちにとっては、ずいぶんおそいテンポに感じますが、カタツムリにとっては決しておそいテンポではないのです。
3. 【0】動物たちはそれぞれにふさわしいテンポで動いています。わたくしたち人間のテンポからみて速
過ぎるものもあれば、おそ
過ぎるものもありますが、それはどこまでも人間からみた感じです。小ザルたちはせかせかと動きまわりますが、それはサルたちが
神経質だからではないのです。カタツムリがゆっくりはっているのは、ぐずだからではないのです。わたくしたちのテンポを
物差しにしてせかせかしているとかぐずぐずしているとか思ってはまちがいです。もしそうはやのみこみすれば、クレバー・ハンスの
誤りをここでもくり返すことになります。
4.(「動物とこころ」 小川
隆著 大日本図書より)
長文 11.4週
1. 【1】
過去の集落を
成り立たせていたパラダイムのことを、
私は「
依存型共生」と名づけました。「
依存型」というのは、
技術が
依存型だということです。
2. 【2】
住宅が
単体では
成立し
得ないような
依存型の
技術しかなかった時代には、それを
補うために
必然として「
共生関係」が生まれます。台風
対策として
防風林を
必要とする、
備瀬の
木造住宅などは、その
典型です。
3. 【3】
現代は、
技術の進化によって、高度
成長期時代を
境にパラダイムが一気に
変わりました。
依存型の
技術が自立
型の
技術にガラッと
変わる瞬間があったのです。一気に自立
型技術に
変わっていって、その自立
型の
技術をどんどん進化させてきたのが、
現在の
我々の
暮らしです。
4. 【4】自立
型の
技術を手に入れてしまうと、もはや
我々は、
環境や
隣人と
共生する
必要がなくなり、自分だけでよくなります。その
結果として、家も人も
孤立していきます。ですから
現代のパラダイムを「自立
型孤独」と名づけました。
5.(
中略)
6. 【5】昔は、外とつながっていなければ、
個人単位では生きていけませんでした。
街全体の
関係性の中で
暮らしていたので、人間
関係も
濃厚でした。ところが、それが一気に
変容して、
個人単位で自由を
謳歌できるライフスタイルができあがりました。【6】
便利で、
個人が自立した生活は、
非常に
価値のあるものだと
我々は
思い込んできました。しかし一方で、人間
関係は
失われ、
地域のコミュニティも
希薄になりました。【7】
便利で
個人主義的な
価値を手に入れることは、
関係という
価値を
失うことでもあったのです。その
結果として
浮き彫りになってきたのが、子どもや
老人など、社会
的に弱い立場の人たちの問題です。∵
7.(
中略)
8. 【8】昔の
住宅は
不便でした。その
不便さを
補うためには、外に対して
働きかけることが
重要でした。その外への
働きかけが、
豊かな外の
環境を作り上げていました。つまり、
不便さが
豊かさを作っていたのです。【9】ところが、
現在の
住宅のように
便利になると、
不便さを
補う必要がなくなります。この
結果、外との
関係性を
絶つわけです。外に対しての
働きかけがゼロになると、外に
豊かさは生まれません。
9. 【0】つまり、
便利さを手に入れてしまうと、もはや
我々は
豊かさを手に入れられない。そういう
状況になっているということが、パラダイムを整理してわかることです。
10. そう考えると
便利さと
豊かさのどちらをとるか、都市としての
豊かさはどうしたら手に入れられるか、という
議論になります。
11. この場合によく出るのが、「進みすぎた
技術によって
豊かさを
失っているのであれば、もっと
伝統的な、ローテクを使っていた昔の
暮らしに
戻ればいい」という、
伝統回帰
的な意見です。しかし、パラダイムの
特質を考えると、それは、
不可能です。
便利さを知ってしまった今、もう一度みんなで
不便な生活に
戻りましょうといっても、
非現実的な話です。
12. そうなると、少し暗い気持ちにもなりますね。
便利さを手に入れられても、もう
永遠に
豊かさは手に入らないのか、と。でも、実はそうではありません。パラダイム
論の
特質に
従うと、もっと
楽観的になれるのです。
13. パラダイムというのは、同じパラダイムがずっと
固定することは
絶対にありません。今のパラダイムは、どこかの
段階で、また次なるパラダイムに
移行します。
移行する先がどう
変わるのかを
議論することが
重要なのです。
14. 今の都市
環境のいろいろな問題の
根源は「
孤立している」とい∵う
状況です。
恐らく新しいパラダイムは、自立
型の
技術がさらに
追求されていく一方で、同時に、
孤立し合っている
状況をいかに「
共生」という方向に持っていけるか、ということが
重要になってくると思います。
要するに「自立
型」の
技術と「
共生型」の
工夫とを両方
成立させていくというのが、次に来るであろう新しいパラダイムだと
私は思っています。
15.(
甲斐徹郎『自立のためのエコロジー』(ちくまプリマー新書)より 一部
改変した)
長文 12.1週
1. 【1】ここでもう一度クレバー・ハンスの
誤りを思い出してください。クレバー・ハンスが計算をするというのはまちがいでした。それならば、動物たちはみんな数えることはできないのでしょうか。【2】ハトは四
粒のとうもろこしを一まとめにして
積み重ねた山と五
粒の山とを作って
置くと、これを
区別して
好んで五
粒の山をつつき、さらに五
粒と六
粒とにすると五
粒よりも六
粒を
好んでつつくという
報告があります。【3】この
実験では六
粒と七
粒とにしたところ、それは
区別できなかったということです。ハトはこのように数の大小を
ある程度はみわけられることがわかります。人間でも一度に目でみて数えられる数は七つ前後だということですから、ハトが六つと七つとの
区別がつかないのもうなずけることかもしれません。
2. 【4】この場合には同時に数の多少が
比べられるのですが、同時には
比べられない場合はもっとむずかしくなります。ツバメは
巣に七つか八つの
卵を
産んで温めますが、
卵の一つをそっととりのぞいてみると、すぐにさらに一つを
産んで
加えます。【5】また一つを
とり除くとまた一つを
産み、そういうことをくり返すと五十も
産み続けたという
報告もあります。しかし、これはツバメが数えながら
卵を
産んでいるのかどうかは
怪しいものだと思います。【6】
別の
実験では鳥は
巣の中の四つの
卵の中から二つの
卵をとり出すと気づきますが、一つだけではまったく気づかないという
報告もあります。
3. オランダのレベッツ先生たちはニワトリに一列に
並べたコメ
粒をついばませる
実験をしましたが、一
粒置きにコメ
粒を
糊ではりつけてとれないようにしました。【7】トリはすぐにそれがわかってまちがいなく一
粒置きにつつくことができました。この
訓練のあとで、二
粒置きにとれるようにしましたが、これもできます。ニワトリがほんとうに数えていたのかどうかはこれだけではどちらともいえないかもしれません。【8】いちいち、数えなくてもはがれるコメ
粒とはがれないコメ
粒とをなにかの手がかりで
区別していたかもしれないからです。∵
4. しかし、ハトの
実験の
結果ではハトは数えることができそうなのです。【9】ハトの前に一度にいく
粒もの
穀粒を
並べるのではなく一
粒ずつ出します。そして六
粒までは自由についばんで食べることができますが、七
粒めごとにはりつけられた
粒を出しそれは食べることができないようにしました。【0】これをくり返しているとやがてハトは六
粒つついては七
粒めはつつかないで見送るようになるのです。しかし、この
結果でもハトがほんとうに数えていたのかはわからないのです。六
粒まで食べる時間がわかっていて、時間の
経過で
判断していたかもしれないからです。そこで一
粒一
粒を出す間の時間をいろいろ
変えてみましたが、それでも七つめはつつかないで次を待つのは
変わりなかったのです。
5.(「動物とこころ」 小川
隆著 大日本図書より)
長文 12.2週
1. 【1】ドイツのケーラー先生は、第一次
大戦のころ、アフリカのテネリファ島にあったチンパンジーの研究所で、おもしろい
実験をしました。その中の有名な
実験をいくつかお話ししたいと思います。
2.
天井からバナナがつるしてありますが、
直接チンパンジーには手がとどきません。【2】部屋の
隅に
数個の
包装箱が
置かれています。チンパンジーをこの部屋に入れると、
背のびをしてバナナをとろうとしたり、とび上がってみたりしますが、それがむだなことがわかると落ち着きなく歩きまわります。【3】やがて、すわって
天井のバナナをみたり、
包装箱をみたりしていますが、
突然、立ち上がってバナナのつるされている下に箱の一つをもって来て
置き、その上にもう一つの箱をのせ、これに上がってバナナをとったのです。【4】こういうことはチンパンジーにとって生まれてからはじめての出来ごとだったと思います。木にのぼってバナナをとるのはいつもやっていたことです。箱の上にのったり
腰かけたりしたこともあります。【5】しかし、箱を重ねてその上にのってバナナをとったのははじめてです。次に、二
個の箱だけではとどかない高さにバナナをつるしますと、いくつも箱を重ねて、その上によじのぼり、バナナをとることにも
成功したのです。
3. 【6】
別の
実験では、箱を部屋の外に
置き、チンパンジーを部屋につれてくる
途中でそれに気づくようにしておいたのです。同じバナナをとる問題で、チンパンジーは部屋からはみえない箱を部屋の外からもって来て、これにのってバナナをとることもできました。
4. 【7】チンパンジーの行動は、でたらめになにかしているうちにたまたま、
目的にかなった
結果に
到達したというよりも、
積み重ねた箱とつるされたバナナとの
関係を
理解すること、前にみたこと、したことを
記憶していること、そしてその
記憶を
利用していま
解決しなければならない問題に
適した新しい考えを生み出した
結果と思われます。∵
5. 【8】ケーラー先生はこれを見通しのある学習とよんでいますが、次の
実験も同じ
例です。チンパンジーの
檻の外にバナナが
置かれます。
檻のこうしから手を
伸ばすだけではバナナにはとどかないのです。一本の竹の
棒が
檻の中に
置かれます。【9】チンパンジーはあたかも
天井からつるされたバナナと
床の箱とをじっとみたように、こんどもバナナと
棒とをじっとみてから、
突然、
棒をつかんで外のバナナをかきよせ、手のとどくところにひき
寄せたのです。【0】
6.(「動物とこころ」 小川
隆著 大日本図書より)
長文 12.3週
1. 【1】オーストリーのローレンツ先生はある
初春のころ、ウィーンの森を
散歩していましたが、森の中の開けた草原に大きな一
匹の野ウサギをみつけました。ウサギは前のほうをみつめていましたが、
果たせるかなもう一
匹の野ウサギがその方向から出て来ました。【2】二
匹のウサギはイヌが出会うとするように、鼻をつき合わせて
一種のあいさつをしたあとで、
突然、それぞれ頭を相手のしっぽにぴったりつけたまま、小さな円を
描いてぐるぐるかけまわり出し、つづいて相手をなぐったり、けったり、空中にとび上がったりして、
激しいけんかをはじめました。【3】しかし、このけんかも先生がいっしょにつれていた
お嬢さんが野ウサギたちのようすがあまりおかしいのにふき出したため、その声におどろいて、二
匹は分かれて
別べつの方向にとんで行きました。【4】これはなんでもないことのようですが、同じ
種類の動物たちのけんかはすべて、この野ウサギのけんかに
似ていることを先生は書物の中で強調しています。【5】二
匹のイヌが出会ったときに、みなさんもこんな
光景をみたことがあるでしょう。足をつっぱり、
尾をぴんと立て、
肩の毛を立て、ゆっくり歩みよって、すれちがうように
横腹と
横腹、頭と
尾とが向き合うようになります。【6】つづいてたがいの
尻を
嗅ぎ合う行動がはじまります。もしどちらか一方が
闘いに
敗けると感じると、たちまちしっぽを
垂れて、ぐるっと
背を向けて
逃げ出すことになりますが、そうでなければ、けんかの
姿勢はそのまま、つづきます。【7】しかし、それでも一方のイヌがかなわないと思えば
尾をたれて首すじを強いイヌのほうにさらしたままになります。首すじはイヌにとって、ひとかみされても命にかかわる急所です。しかし、そのとき、ウーウーといいながらも勝ったほうのイヌはけっしてかみつかないのです。【8】先生はロンドン
近郊の広い動物園の中で、オオカミのけんかをみてこれとまったく同じことになったことを書いています。イヌよりもはるかに
荒っぽいと思われるオオカミのけんかが、イヌや野ウサギ∵の場合と同じなのです。【9】赤ずきんの童話の中ではいつも
凶悪な動物となっているオオカミですら、まいったといっている身ぶりの負けたものに向かって、かみつくのをがまんしていることが気づかれるのです。【0】もしオオカミやイヌがみさかいもなく
仲間の首すじにかみついていたら、その数はだんだん
減少していくことになったでしょうが、オオカミもイヌもこのようにがまんできるということは、動物の生活にとって大切なことと思われます。
2.(「動物とこころ」 小川
隆著 大日本図書より)
長文 12.4週
1. 【1】
私たちの
細胞の
隅々には
遺伝子というものがあり、体をどう作り、体をどう動かすかの
設計図の
役割を
果たしていることがわかっています。その
遺伝子は、自分の親から半分ずつ
手渡されます。【2】子どもたちの体の中には自分の両親からもらった
遺伝子というバトンが入っているのです。そして、両親はその両親から、両親の両親はそのまた両親から…と数えていくと、一〇〇年間に四世代
経過したとすれば、八人からバトンをもらうことになります。【3】二〇〇年前を考えたら何人でしょうか。
2. 答えは八×八で六四人です。そうやってたどっていくと、五〇〇年前なら三二七六八人になり、九〇〇年前になると一
億を
超えてしまいます。【4】
人類の
歴史をひもとくと、今いる
私たちの
祖先として、何万年も前にアフリカに住んでいた一人の
女性にたどり着きます。今の
人類はみな等しく
彼女の
子孫であることがわかっているのです。
3. 【5】そして、
人類の
歴史を
最低で何万年、あるいはもっともっと長い何十万年、何百万年の
単位で考えたときに、自分たちの体の中にはいったい何人の人のバトンが入っているか考えれば、とほうもない数になります。【6】そのとほうもない数のバトンは、ほかでもない自分の中にも入っています。その人たちがみんな生きていてくれたから、自分に命が受け
渡されたのです。
4.(
中略)
5. 【7】自分が
人類の何万年もの
歴史を
背負い、そのいちばん
先端に立っていることが
感覚としてわかった子どもたちは、おそらく自分や他人の命を
粗末にすることは考えられなくなると思います。【8】自分という
存在が、
信じられないほどたくさんの人のバトンを
受け継いだ、
彼らの
努力の
結晶であり、目の前にいるだれかもまた、何
億人ものバトンを
受け継いでいる、
彼らの
願いが
詰まった
存在であると感じられます。【9】そう考えれば、命を大切にする
感覚が
自然にわき、人を
殺そうなどという考えも頭に
浮かばなくなるでしょう。子∵どもたちにそんな気持ちを
抱かせることにこそ科学は使うべきだ、と
私は思っています。
6. 【0】また、この話を通じて
私は子どもたちに、そのような長い時間の中で自分たちが生きてきたという大局
観をぜひ持ってもらいたいと思っています。大局
観を持つことは、
結局、すべての科学者が今めざしているもの、すなわち、人はどこから来て、どこへ行くのかを知りたいという
欲求にもつながります。なぜ自分が今、その何
億人もの人のバトンをもらってこの場に立っているかということを、われわれ大人はぜひ考えるべきだし、子どもたちが
自然に考えられるような
環境を用意すべきです。
7. 「人生の主役はあなた」といったキャッチフレーズを、
最近街中でよく見かけます。一見、
耳触りのいい言葉ですが、そこには大きな
危険性が
潜んでいます。
8. 昔は、親と子どもは一心同体でした。子どもの
痛みは親の
痛みで、子どものために自分は
頑張れるし、
我慢できた。しかし、今は「主役は
私」で、
子供が自分の外に出ている
感覚の親が
非常に多いのです。「自分の幸せのために子どもがじゃまになる」と口にする人もいます。「人生の主役はあなた」という言葉は、
裏を返せばそうした考えを
肯定するものにもなりかねません。
9. これは、先ほどの大局
観にもつながります。自分の
願いを
託したからこそ、子どもがいるはずです。だからこそ、子どもの幸せは自分の幸せで、自分の後ろに何百年もつながる、何
億人もの人たちの幸せであるはずです。
私たちが、多くの人からもらったバトンを後世に向かって
渡していくことは、地球上の生命として生まれた
私たちの
義務とも言えるのではないでしょうか。
10.(川島
隆太『
現代人のための
脳鍛錬』(文春新書)より 一部
改変した)