ワタスゲ の山 5 月 2 週 (5)
★一つの集団は(感)   池新  
 【1】一つの集団は、一人の裏切者と、一人の犠牲者を生み出すことによって完成される。つまりその時、集団は論理的に構成されるのである。キリストとユダの伝説が、私にこのヒントを与えてくれた。【2】恐らくあの十三人は、対人関係を独立したメカニズムとして純粋培養するためのベテラン達だったのであり、またそうせざるを得ない環境におかれていたのだろう。(中略)
 私は、はじめにキリストがあって、そこに十二人が従ったという説を、ほぼ信じない。【3】まず、変転としてとらえどころのない奇妙な関係の中に十三人が居たのであり、それが果てしない放浪の末に、ユダとキリストを生むことによって、一つの「関係」として完成されたのである。
 ユダもキリストも、それぞれがそれぞれを含む「十三人目」だったに違いないと、私は考えている。【4】そして、何よりも、ユダが「裏切者」として発明されることによってはじめて、キリストが「犠牲者」となり得たのであろう。新約時代、彼等十三人が為した最大のことは、「裏切者」としてのユダを発明したことであり、むしろキリストを発明したことではなかったのではないかと、私は考えているのだ。(中略)
 【5】創世記に、アブラハムについての奇妙なエピソードが語られている。「神はアブラハムを試みて言われた。『アブラハムよ、あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で、彼をささげなさい』(中略)【6】彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたき木の上にのせた。そしてアブラハムが手を差しのべ、刃物をとってその子を殺そうとした時、主の使が天から彼を呼んで言った。【7】『アブラハムよ、わらべに手をかけてはいけない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえわたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った』」(第三十二章)∵
 【8】ここから、私は「裏切者」がやがて発明されねばならないという予感を読み取れそうな気がする。このアブラハムの、神に対して一方的にのめりこんでゆく無気味な心情は、恐らく一方で自らのうちに「裏切者」を用意しそれに対する憎悪で相殺(そうさい)され、安定する事を期待するに違いないからである。【9】つまり、この一方に「裏切者」が存在する事によってはじめて、わが子を殺すという行為は、アブラハムに於て自己完結するからである。「裏切者」とは集団の対人関係の、独立して自己完結しようとするメカニズムが必然的に生み出す、ある形態である。【0】集団は、「神に対するおそれ」というとめどもなく一方的な不安定な心情を、「裏切者」によって、緊張しあう安定したものにすることが出来る。「裏切者」というのは絶対的な悪ではない。「裏切る」という行為は相対的なものであり、従って集団は永遠にそれを対象化することが出来ない。故にそれは、集団の内部を律するメカニズムを持続的に緊張させつづけることが出来るのである。
 新約によれば、キリストは、彼を死刑にした外部勢力に対してよりも、ユダに対して緊張しあっている。つまり、その時、その集団は、外部勢力に対して拮抗することではなく、集団として自己完結することを選びつつあったのであり、そのために自ら「裏切者」を用意してみせたのであろう。
 言うまでもなく、集団が自己完結を目指すのは、集団が衰弱しはじめている証拠である。しかし、集団は常に、いつかは衰弱期を迎えるものであり、自己完結することを目指すのである。現に今でも「裏切者」と「犠牲者」によって自己完結を目指しつつある集団をたびたび目にする事ができる。一つの集団を律する原理は、新約時代からちっとも進歩していないのかもしれないのだ。

(別役実「電信柱のある宇宙」から)