長文 1.2週
1. 【1】私が、文章を書くことでやっと生活出来るようになったころ言葉遣いことばづか について時折注意して下さる二、三の先輩せんぱいがあった。多忙たぼうな方達であるから、私の文章など目にとまる機会はなくても当然、もしも目にとまれば、それだけ僥倖ぎょうこうというものだと思っていた。
2. 【2】一夕いっせき、外で集まりがあった。
3. ウイスキーグラスを手にして近くに立っていられた、先輩せんぱいのある男性作家に名前を呼ばれた。この間、偶然ぐうぜん、新幹線の中であなたのもの読んだよ。おもしろかった。ただ、あれはちょっとおかしいんじゃないかなあ、と言って、ある用語のことを指摘してきされた。
4. 【3】また、女性のある先輩せんぱい作家は、用件の電話を下さった折、話が終わってから、そうそう言わないでもいいことかもしれないけれど、あの文章のあそこのところで、ああ書いていられたのには、わたくし、ちょっとひっかかったんですよ。【4】あの言葉は、私ならこういう時に使うんです。でもきっと、お考えがあってのことだと思いますからお気になさらないでね。
5. 若い間は自惚れうぬぼ が強い。 我も強い。
6. それでも、いずれ劣らおと ぬ大先輩せんぱいの言葉なので衝撃しょうげきは強かった。【5】風呂敷ふろしきくびから上をすっぽり包んでしまいたい気持ちになったのは、かなり時が経ってからだった。
7. 読んでいて下さったからこそのご注意である。知らん顔されていてもすむ。それにお二方とも注意だけでなくほめ言葉も下さった。【6】大安売りのほめ言葉だったに違いちが ないが、あそこがいけないというだけの注意ではなかった。酔いよ のまぎれにというかたちの気遣いきづか もあとになって分かった。何事に対しても、己れの限界の自覚を失った時にはもう、書き手としての終わりのない堕落だらくが始まっているのだろうとつくづく思うようになった。【7】けれども文章はまた、決して謙虚けんきょな気持ちだけで書けるものでもない。勢い、が必要である。四苦八苦で筆が渋滞じゅうたいしている時ではなく、憑かれつ  たような状態になってはじめて筆を運ばされる時のことを考えると、これは無意識の自惚れうぬぼ というほかはない。∵
8. 【8】反省と、訓練、謙虚けんきょさと、自惚れうぬぼ 、そのどれが欠けてもいけないと思うのはこの期に及んおよ での認識で、経験の浅いうちはどうしても自惚れうぬぼ が先行する。そういう者に対して、あえて苦言を呈してい 叱っしか て下さった方々をかえりみて有難く思う気持ちは強くなるばかりである。
9. 【9】所詮しょせん孤独こどくな仕事、好きなようにやればいいさというのも一つの生き方であろう。しかし、気づいたことは、自分達の責任において叱っしか ておいてやらなければ、と思って下さったのかどうか、とにかく私は、この種のご注意に対して、今は感謝だけでなく、生き方に対しても敬意を抱くいだ ようになっている。
10. 【0】私どもは、日頃ひごろいとも気易く日本語、日本語と言っているが、さてその成り立ちを辿ったど てみると、口ごもりたくなるようなことが少なくない。厄介やっかいな、複雑な成り立ちの歴史をもっているのが、毎日使っている、他のどこの国の言葉でもない日本の国の言葉である。
11. その言葉を、出来るだけいい加減にではなく運用しようというのは、出来るだけいい加減にではなく物を見よう、物と自分とを関係づけようという生き方のあらわれにほかならず、そうであればこそ言葉遣いことばづか に対する注意は、先に生きた大人がまず子供に対して行うべき大切な義務の一つかと思う。
12. 教師が生徒に対する以前に、親が子に対して。ということは、日常の言葉遣いことばづか をまだよくは知らない者に対しては、知っている者が教えるのが至当しとうだと思うからで、知らない者はほうっておいて、自分で知るようになるまで待つというのは、事によっては通用するかもしれないけれど、怠惰たいだの正当化にもなりかねない。
13. 大学生くらいになると、事情は大分違っちが てくるが、「怒るおこ 」先生と、「叱るしか 」先生を、子供は存外鋭くするど 見抜くみぬ ものである。こと小学校、中学校、高等学校の国語教育に関しては、自覚と誇りほこ をもって「叱るしか 」先生は、多くてもいいと私は思う。
14. 生徒を怒るおこ のはいたって簡単だが、日常の言葉遣いことばづか について、は∵っきりした自覚と誇りほこ をもって生徒を叱るしか ために、教師自身の言語生活の訓練と充実じゅうじつが前提になる。教師の知識だけに頼ったよ ていても、教師の言語感覚、言葉遣いことばづか の好みだけに頼ったよ ていてもいけないのが国語教育のはずだから、叱るしか 以上は、教師にも覚悟かくごがいる。
15. 表現の自由が認められている国は有難い。けれども、本当の自由の行使が出来るのは、不自由を経験している者だろう。自由を知らない者には、自由を知っている者が教える義務はないのか。教えられて学ぶことの大事を、教師はこれまた、自覚と誇りほこ をもって教えていいのではないか。教師と生徒が、友達のような関係だけでは困る。
16. まともに人格もそなわっていないうちから、ひとかどの人格扱いあつか をするのが果たしていいことなのかどうか、責任回避かいひの人格尊重や放任は考えものである。
17. 一人の人間を駄目だめにしてしまうのはわけのないことだ。好きなものを食べたいだけ食べさせ、眠りねむ たいだけ眠らねむ せる生活を続けさせていればよいと言った人がいる。
18. 国を亡ぼすのは武力だけではない。教育の大事ということを切実に思う機会が増えている。数日前の新聞の投書らんに、「手抜きてぬ のつけ」という見出しがあった。一見しただけで、忸怩じくじたるものをおぼえた。内容は読んでいないのに、思い当たることはあまりに多かった。今の若い者は、と言う前に、そんな若い者にだれがした、という声を聞かなければならないと思った。言い逃れい のが や他人の批判ですまされるうちはいい。大きな変化は、ある日突然とつぜんには起こらないようである。

19.(竹西寛子ひろこ『朝の公園』による)