長文集  1月3週  ★庭は原始社会では(感)  wape-01-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】庭は原始社会では、集団全体の広場
でした。屋内ではいこい、庭では活動的な共
同生活がいとなまれたのです。多くは部落の
中央にあり、宗教的儀式、政治の集会がおこ
なわれ、また生活の場所でもありました。【
2】――狩猟(しゅりょう)時代には呪術の
踊りにわき、戦いにむかう精鋭が勢ぞろいし
、農耕社会では、収穫処理の作業場所であり
、また家畜の遊び場でもありました。やがて
物々交換がさかんになると、そのための市場
にもなった。それはあらゆる生活の幅をふく
めた、集団社会の共通の広場でした。
 【3】しかし、やがて歴史がすすみ、階級
制度があらわれはじめると、権力者占有の庭
が出現します。ここでは、貴族たちがあつま
って、政事、儀式をとりおこない、遊戯し、
スポーツをたのしみ、もよおしものなどを観
賞しました。【4】すでに一般庶民には閉ざ
されたものです。ふつうわれわれが考える「
庭園」は、この段階からはじまると言ってい
いでしょう。
 わが国では、平安朝の寝殿南面の庭園とい
うのは、このような性格を持っていました。
【5】このころには寝殿からながめる美観と
して、池を掘り、中の島をきずき、石を組み
、滝をおとしたりして遠景をととのえました

 やがて歴史がくだるにつれて、禅宗の影響
などもあり、庭園はしだいにしずかにながめ
るというだけのものにかわってゆきます。【
6】すでに政治や競技の広場ではなく、活動
的な生活よりも、幽邃な環境にかこまれて沈
思瞑想するという、俗を離れた精神的な別世
界をつくりあげたのです。こうなってくると
、庭園はひどく観念的・趣味的になります。
【7】そして、ようやく公共性をうしないは
じめてくる。室町時代からの庭は、ほとんど
そういう性格を持ってきます。
 形式はおどろくほど巧みに、複雑になって
、一つの完成をしめしました。【8】伝統的
技術は確立され、今日「日本庭園」といえ 
ば、まずこの時代の形式、あるいはその亜流
以外は考えられないほど、以後の造園術、そ
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して審美感を決定しています。ながい人間の
歴史から見れば、これはかなり特別な、時代
的なゆがみのはずなのです∵が。
 【9】徳川期に、めざましく勃興した富裕
な町人階級がこれを受けつぎました。町なか
の、土蔵や屋敷が立ちならぶなかに庭を取り
いれたのです。この風習は、やがて、時代と
ともに、ついに棟割長屋の庶民階級にまでし
みとおってゆきました。
 【0】めいめいが自分だけの庭をもつ。し
かも、凝れば凝るほ ど、建物や塀の奥にか
くして、外からはかいまみることもできない
ようにしてしまう。――アメリカあたりの典
型的な市民住宅が道路に面した前面に庭をも
ち、そこはプライヴェートなものであると同
時に街路の延長であり、公園的な役割をはた
しているという近代性と、これはまことに対
照的です。どんな小さいものでも、自分の領
分だけを嫉妬ぶかくまもるという封建性が、
象徴的にここに確立されてきたのです。
 このように、まったく公共性のない趣味に
とじこもることによって、かつて見られた庭
園の美的な高さ、きびしさ、純粋さをうしな
い、卑小な芸に堕してゆきました。(中略)
 構想の雄大さとか生活の幅というものはな
く、かといって、階級自体の表情とか意欲と
いうものもそこには見られません。たんに生
活の虚栄的なアクセサリーになりさがってい
る。これが庭として、けっして本来の意味で
はないことはたしかです。
 日本の庭がこういう封建的な伝統をつづけ
て固定したのにたいして、はやくから近代化
した西洋では、一般市民は高層の集団住宅に
住み、貴族の豪壮な庭園を開放して、公園と
して共同の庭を設備しました。たとえば、パ
リのルュクサンブールの庭は、かつては宮殿
に付属していた典型的なフランス式庭園です
が、今日では広大な自然の中であらゆる層の
人たちがそれぞれに楽しく利用しています。
各種のスポーツはもちろん、学生はノートを
ひろげ、静かな木かげでは、若い男女が恋を
ささやいている。子供たちは縄とびや、ボー
ル投げをして遊び、夫人たちはそのわきで編
物に余念がない。老人は日向ぼっこをしなが
らベンチで新聞を読んでいます。午後のひと
ときには、音楽堂からのメロディーが庭いっ
ぱいに流れる∵ので す。
 われわれが考える公園はとかく道路の延長
といった感じですが、これは親しいみんなの
庭です。そこに集まってくる者だれでもの領
分であり、生活の延長、ひろがりなのです。
 今日、もっとも進んだ建築家や都市計画者
は「庭」を再発見し、現代生活にふさわしい
機能的な共同の広場として新しく設計しよう
としています。それこそ人間社会における庭
本来の正しい意味をとりもどすことなのです
。私はこれからの庭、市民生活における理想
的な空間は、公共的であると同時にプライヴ
ェートであり、運動的であるとともに休息的
、しかもきわめて芸術的であるべきだと思い
ます。
 庭園は、それ自体が造形される空間です。
建造物であり、彫刻であり、また音響の遊び
もあります。眺めると同時に触れるものであ
り、静止していると同時にきわめて動的な相
貌をもおびる。自然であり、また反自然でも
あるのです。さらにその中にあらゆる芸術を
総合して取りいれることができます。絵を置
き、彫刻をあしらう。歌い、舞う、可能的な
芸術空間です。
 そういう本当の庭、そしてそのあり方につ
いて、ここでは展開するつもりはないのです
が、しかしこの根本的なポイントだけは、し
っかりとつかんでおきたい。そういう現代的
な気がまえをとおして名園を観察し、批判し
なければなりません。でないと古い伝統芸術
がひとしく持っているせまい趣味性、その魔
術につい引っかかり、庭園にメスを入れたつ
もりで、逆にその時代色の中にふみまよって
しまうことになりかねないからです。

(岡本太郎『日本の伝統』による。)