長文 2.2週
1. 【1】私たちは旅、未知と偶然ぐうぜんの要素を多く含んふく だ旅に出るとき、どこかへ行きたいとか、なにかを調べたいとかなどといった、なんらかの意味で目的をもった自分の意思とは別に、一種のあやしい胸のときめきを感じる。【2】それは一抹いちまつの不安をまじえた心の華やぎはな  であり、それによって旅への出立というものに、独特の感情の色づけがなされる。「いい日旅立ち」などという国鉄の広告もあったが――多分これは「思い立ったが吉日きちじつ」という昔からあることわざにヒントをえたものであろう――【3】旅への出立がすぐれて演劇性あるいは祝祭性をもちうるのは、そのような感情の色づけのためであろう。旅立ちの場所である駅やプラット・フォームや空港が現代生活のなかでは珍しくめずら  濃密のうみつな意味場を形づくり、そこに毎日多くの小さな――ときには大きな――ドラマや祝祭が見られるのは、だれでもよく知っているところだ。
2. 【4】旅立ちに際したときのこのような心の不思議な在り様を巧みたく 捉えとら て、私たちの先人の一人は、次のように書いた。「春立てるかすみの空に、白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず、云々うんぬん」(松尾まつお芭蕉ばしょう『おくのほそ道』)【5】あまりにも有名な文章であるが、この「そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて」(そぞろ神が物=れいにとりいたためもの狂わしくくる   なり、道祖神にさそわれて)ということばには、旅が日常性をこえた異次元への飛翔ひしょうともいうべき側面をもっていることがよく示されている。(中略)
3. 【6】日常の惰性だせい的な生活のなかで閉ざされた私たちの心を、旅は開かれた、予感にみちたものにする。と同時にそれだけ、旅において私たちは行くさきざきの不安にも敏感びんかんになる。その点についても芭蕉ばしょうは見落していない。【7】「前途ぜんと三千里のおもひ胸にふさがりて、まぼろしのちまたに離別りべつなみだをそそぐ。行春や鳥啼きな 魚の目はなみだ云々うんぬん。」ことで「まぼろしのちまた」とは「ぞくニ夢ノ世トいふク、人生ノハカナキヲたとフ」と注釈ちゅうしゃく本(『奥細道管菰抄おくのほそみちすがごもしょう』)にある。∵【8】ふだんの安穏あんのん無事な生活のなかでよりも、ひとは旅に際してわが身を見つめるようになるのである。いまでは旅に際しての別離べつりも昔ほど深刻なものではなくなったけれど、それでもそこにはひそかに私たちを脅かすおびや  ものがある。
4. 【9】旅は私たちの心を開かれた予感にみちたものにする、といった。しかしそれは、旅に出かけるとき、旅立ちに際してだけのことではなくて、およそ旅をしているかぎり、いつでもいえることである。【0】これはだれでも経験していることだけれど、旅先で見たものや聞いたものは、しばしば私たちに新鮮しんせんなおどろきを与えあた 、旅先で出会った出来事はしばしば私たちにつよい感動を与えるあた  。旅に出るとひとはだれでも「芸術家」になり「詩人」になるといわれるのも、そのことを指している。
5. この場合「芸術家」になり「詩人」になるというのは、なにか特別な力を新しく手に入れることではないだろう。それはむしろ、人間がもともと持っているいきいきとした感受性をとりもどすことである。ふだんの生活、日常生活の惰性だせいから自己を解き放つことなのである。「日々新たなり」という人間的生の在り様は、日常生活のなかでもむろん言えることであり、本来私たちはそういうものとして毎日を迎えむか なければならないのだが、実際にはそれはたいへん難しい。
6. ところが旅では――未知と偶然ぐうぜんの要素を多く含んふく だ旅では――日々は私たちにとって新たならざるをえない。そして日々新たであるなかで、よりつよく私たちの好奇こうき心は突きつ 動かされ、働くようになる。ふつう「好奇こうき心」などというと、あまりいい意味にとられない場合が多い。なにか面白いことはないかと知らなくてもいいことまでむやみに穿鑿せんさくする心、あるいはもの好きといったような意味に解されている。けれども好奇こうき心とは、私たち人間の知的活動の根源をなす情熱、つまり知的情熱にほかならない。
7. 好奇こうき心というとあまりいい意味にとられない、といった。しかし実はそれ以前の、情熱(情念、パトス)そのものが、これまで一般いっぱんに永い間、はしたないものとされてきたという事情がある。情熱は∵人間の心の平静を乱し、人間を真理から遠ざけるものだとされてきた。しかしそのような見方はきわめて一面的なものでしかない。『百科全書』の編者として知られるディドロ(『哲学てつがく思索しさく』)が、その点でたいへん適切なことを言っていたのを思い出す。
8. すなわち、ひとは情念(情熱)の悪い面ばかりを見て、むやみに情念を排斥はいせきする。しかし情念は、一方であらゆる苦悩くのうの源であるだけでなく、同時に他方では、あらゆるよろこびの源泉でもある。偉大いだいな情念によってはじめて、人間のたましい偉大いだいなものごとに到達とうたつしうるのだ。これに反して控え目ひか めな感情は凡庸ぼんような人間をつくり、弱々しい感情はもっともすぐれた人間をも台なしにしてしまう。
9.(中略)
10. 控え目ひか めな感情は凡庸ぼんような人間をつくり、ひとは小心翼々しょうしんよくよくとしていると創造的でありえなくなる。これは行きすぎた抑制よくせいや禁欲的態度がおちいりやすい陥穽かんせいを示している重要な指摘してきである。いうまでもなくそれは、詩・絵画・音楽といった狭いせま 意味での芸術にかかわるだけではなく、もっと広い人間の知的活動や精神的活動にもかかわっている。だから、たとえどんな小さなことにせよ、日に日に発見や創造のよろこびをもって生きていくためには、通常考えられているより以上に、知的情熱としての好奇こうき心をいきいきと保っておかなければならないのである。ところで、知的情熱としての好奇こうき心とは、とくに、私たちが世界や自然やものごとに向けるつよい関心のことである。そして、知識よりもなによりも関心(インタレスト)こそがあらゆる文化や学問の原動力であると言えそうだ。関心こそが知を拓くひら のである。

11.(中村雄二郎ゆうじろう他『知の旅への誘いさそ 』による)