長文集  2月3週  ★どこかへ旅行がしてみたくなる(感)  wape-02-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】どこかへ旅行がしてみたくなる。し
かし別にどこというきまったあてがない。そ
ういう時に旅行案内記の類をあけて見ると、
あるいは海浜、あるいは山間の湖水、あるい
は温泉といったよう に、行くべき所がさま
ざま有りすぎるほどある。【2】そこでまず
かりに温泉なら温泉ときめて、温泉の部を少
し詳しく見て行くと、各温泉の水質や効能、
周囲の形勝名所旧跡などのだいたいがざっと
わかる。しかしもう少し詳しく具体的な事が
知りたくなって、今度は温泉専門の案内書を
捜し出して読んでみる。【3】そうするとま
ずぼんやりとおおよその見当がついて来るが
、いくら詳細な案内記を丁寧に読んでみたと
ころで、結局ほんとうのところは自分で行っ
て見なければわかるはずはない。もしもそれ
がわかるようならば、うちで書物だけ読んで
いればわざわざ出かける必要はないと言って
もいい。【4】次には念のためにいろいろの
人の話を聞いてみて も、人によってかなり
言う事がちがっていて、だれのオーソリティ
を信じていいかわからなくなってしまう。そ
れでさんざんに調べた最後にはつまりいいか
げんに、賽でも投げると同じような偶然な機
縁によって目的の地をどうにかきめるほかは
ない。
 【5】こういうやり方は言わばアカデミッ
クなオーソドックスなやり方であると言われ
る。これは多くの人々にとって最も安全な方
法であって、こうすればめったに大きな失望
やとんでもない違算を生ずる心配が少ない。
【6】そうして主要な名所旧跡をうっかり見
落とす気づかいもない。
 しかしこれとちがったやり方もないではな
い。たとえば旅行がしたくなると同時に最初
から賽をふって行く所をきめてしまう。ある
いは偶然に読んだ詩編か小説かの中である感
興に打たれたような場所に決めてしまう。【
7】そうして案内記などにはてんでかまわな
いで飛び出して行く。そうして自分の足と目
で自由に気に向くままに歩き回り見て回る。
この方法はとかくいろいろな失策や困難をひ
き起こしやすい。またいわゆる名所旧跡など
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のすぐ前を通りながら知らずに見のがしてし
まったりするのは有りがちな事である。【8
】これは危険の多いへテロドックスのやり方
である。これはうっかり一般の人にすすめる
事のできかねるやり方である。
 しかし前の安全な方法にも短所はある。読
んだ案内書や聞いた人∵の話が、いつまでも
頭の中に巣をくっていて、それが自分の目を
隠し耳をおおう。【9】それがためにせっか
くわざわざ出かけて来た自分自身は言わば行
李の中にでも押しこめられたような形にな 
り、結局案内記や話した人が湯にはいったり
見物したり享楽したりすると同じような事に
なる、こういうふうになりたがるおそれがあ
る。【0】もちろんこれは案内書や教えた人
の罪ではない。
 しかしそれでも結構であるという人がずい
ぶんある。そういう人はもちろんそれでよい

 しかしそれではわざわざ出て来たかいがな
いと考える人もある。曲がりなりにでも自分
の目で見て自分の足で踏んで、その見る景色
踏む大地と自分とが直接にぴったり触れ合う
時にのみ感じ得られる鋭い感覚を味わわなけ
ればなんにもならないという人がある。こう
いう人はとかくに案内書や人の話を無視し、
あるいはわざと避けたがる。便利と安全を買
うために自分を売る事を恐れるからである。
こういう変わり者はどうかすると万人の見る
ものを見落としがちである代わりに、いかな
る案内記にもかいてないいいものを掘り出す
機会がある。

(寺田寅彦「案内者」より)