1. 【1】どこかへ旅行がしてみたくなる。しかし別にどこというきまったあてがない。そういう時に旅行案内記の類をあけて見ると、あるいは
海浜、あるいは山間の湖水、あるいは温泉といったように、行くべき所がさまざま有りすぎるほどある。【2】そこでまずかりに温泉なら温泉ときめて、温泉の部を少し
詳しく見て行くと、各温泉の水質や効能、周囲の形勝
名所旧跡などのだいたいがざっとわかる。しかしもう少し
詳しく具体的な事が知りたくなって、今度は温泉専門の案内書を
捜し出して読んでみる。【3】そうするとまずぼんやりとおおよその見当がついて来るが、いくら
詳細な案内記を
丁寧に読んでみたところで、結局ほんとうのところは自分で行って見なければわかるはずはない。もしもそれがわかるようならば、うちで書物だけ読んでいればわざわざ出かける必要はないと言ってもいい。【4】次には念のためにいろいろの人の話を聞いてみても、人によってかなり言う事がちがっていて、だれのオーソリティを信じていいかわからなくなってしまう。それでさんざんに調べた最後にはつまりいいかげんに、
賽でも投げると同じような
偶然な
機縁によって目的の地をどうにかきめるほかはない。
2. 【5】こういうやり方は言わばアカデミックなオーソドックスなやり方であると言われる。これは多くの人々にとって最も安全な方法であって、こうすればめったに大きな失望やとんでもない
違算を生ずる心配が少ない。【6】そうして主要な
名所旧跡をうっかり見落とす気づかいもない。
3. しかしこれとちがったやり方もないではない。たとえば旅行がしたくなると同時に最初から
賽をふって行く所をきめてしまう。あるいは
偶然に読んだ詩編か小説かの中である感興に打たれたような場所に決めてしまう。【7】そうして案内記などにはてんでかまわないで飛び出して行く。そうして自分の足と目で自由に気に向くままに歩き回り見て回る。この方法はとかくいろいろな失策や困難をひき起こしやすい。またいわゆる
名所旧跡などのすぐ前を通りながら知らずに見のがしてしまったりするのは有りがちな事である。【8】これは危険の多いへテロドックスのやり方である。これはうっかり
一般の人にすすめる事のできかねるやり方である。
4. しかし前の安全な方法にも短所はある。読んだ案内書や聞いた人∵の話が、いつまでも頭の中に巣をくっていて、それが自分の目を
隠し耳をおおう。【9】それがためにせっかくわざわざ出かけて来た自分自身は言わば
行李の中にでも
押しこめられたような形になり、結局案内記や話した人が湯にはいったり見物したり
享楽したりすると同じような事になる、こういうふうになりたがるおそれがある。【0】もちろんこれは案内書や教えた人の罪ではない。
5. しかしそれでも結構であるという人がずいぶんある。そういう人はもちろんそれでよい。
6. しかしそれではわざわざ出て来たかいがないと考える人もある。曲がりなりにでも自分の目で見て自分の足で
踏んで、その見る景色
踏む大地と自分とが直接にぴったり
触れ合う時にのみ感じ得られる
鋭い感覚を味わわなければなんにもならないという人がある。こういう人はとかくに案内書や人の話を無視し、あるいはわざと
避けたがる。便利と安全を買うために自分を売る事を
恐れるからである。こういう変わり者はどうかすると万人の見るものを見落としがちである代わりに、いかなる案内記にもかいてないいいものを
掘り出す機会がある。
7.(寺田
寅彦「案内者」より)