長文集  3月4週  ★この連載の問題設定である  wape-03-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/12/14 12:53:54
 この連載の問題設定である「思考の補助線
」というタイトルに は、その構想時におい
て、ある危機意識が込められていた。
 現代の知が図らずも断片化してしまってお
り、そのばらばらの破片をかき集めてみても
、世界の像が一つに結ばない。そのような現
状に対する個人的なあせりと悲しみのような
ものを引き受けたうえで、じっくりと考えて
みたいと連載を始めたときに思っていた。
 一見、関係のないように見える分野の間に
、補助線を引いてみたい。その補助線を引か
なければ見えない新しい世界像、全体として
浮かび上がってくるあるイメージを把握して
みたい。そのような少なくとも私にとっては
切実な思いが託されていた。
 下手をすれば、ある分野の卓越した専門家
であることを維持することですら可処分時間
と自己のエネルギーのすべてを費やしても難
しい、という時代である。自分の専門である
脳科学においては、すでにそのような傾向が
あることを身近な問題としてよく知ってい 
る。同じ脳を研究しているはずなのに、視覚
の専門家は前頭葉の統合過程を知らず、海馬
における学習理論の研究者はシナプスの可塑
性の分子メカニズムを知らない。そのような
事態はすでに進行してしまっている。
 想像するしかないが、歴史学でも、経済学
でも、あるいは文学研究でも似たような事態
が進んでいるのだろう。万葉の専門家は江戸
時代の戯作者のことなどつゆ知らず、という
のは当たり前のことなのかもしれないが、そ
れでは満足できないという寂しい思いは誰の
胸の中にもあるのではないか。
 知の全体を見渡すことはもはや不可能なの
だろうか? 一人ひとりの人間は人類全体が
運営している「エクスパート・システム」の
部品として、あるいは「グーグル」で検索さ
れるべき知のアーカイブの部分担当者として
、その職分を全うすることしかできないのだ
ろうか?
 検索エンジンの前には、文系の知も理系の
それもコンピュータのハードディスク上のデ
ジタル・ビットにすぎない。それは、奇妙に
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私たちの魂を自由にする光景ではあるが、一
方ではとてつもない脱力へと誘う事態でもあ
る。そもそも、検索エンジンは世界全体∵ど
ころか一つひとつの事物を引き受けることに
すら、資することができないのだ。
 知のサブカル化(=部分問題の解法ないし
はレトリックとしてのみ知に取り組み、所有
し、発信するということ)がポスト・モダニ
ズムなど取り立てて参照するまでもなく進行
してしまった現代において、知の断片化の現
状を突き抜けるためにはよほどの覚悟と戦略
が要る。そんな志向性はもはやポスト・デジ
タルの人類にとって余計なものでしかないの
かもしれないが、それでも志向することだけ
は止めたくない。
 アインシュタインは、「感動することを止
めてしまった人は、死んでしまったのと同じ
である」という意味の言葉を残している。断
片化した知をそのまま受け入れて、疑問を持
たずにただ右往左往する人類はもはや本当は
生きていないのではないか。
 そもそも世界全体を引き受ける、というこ
とは、一体どのようなことなのだろう?
 世界に関する人間の知を集合としてその要
素を書きならべてみることもできる。そして
、その全体を同時に把握することを目指す、
という考え方もある。そうだとすれば、やる
べきことは、知の巨 人、博覧強記の人への
道をたどることだろう。諸学の書物に通暁 
し、さまざまな分野の最新の知見を網羅的に
横断してみせる。そのような胆力のある人間
は一つの理想像であるかもしれないし、また
実際に過去にはそのような取り組みもあった
。ゲーテやダ・ヴィンチ、南方熊楠のように
、ある程度成功したと思われるような実例も
ある。
 現代の知的状況の本質的問題点は、そのよ
うな百家全書派的な野望の実現が原理的に不
可能だということが誰の目にも明らかだとい
う点にある。たった一つの分野を取り上げて
みたとしても、出版される論文、本の数は膨
大である。どれほど卓越した記憶力と思考能
力に恵まれた人間でも、現代の知の諸分野を
一人でカバーすることなどありえない。

(茂木健一郎「思考の補助線」より)