長文 1.3週
1. 【1】「寄物よせもの」という言葉を覚えたのは柳田やなぎだ国男の『海上の道』を読むことによってであった。はるかおきから吹きふ きたる風に名前を与えるあた  身振りみぶ から始まるあの美しい幻想げんそう小説。【2】「アユは後世のアイノカゼも同様に、海岸に向かってまともに吹いふ てくる風、すなわち数々の渡海とかいの船を安らかに港入りさせ、または、くさぐさの(めずらかなる物を、なぎさに向かって吹きふ 寄せる風のことであった」。【3】そうした風に乗ってわれわれの国に訪れる「くさぐさの(めずらかなる物」、それが「寄物」だ。そして、その代表として柳田やなぎだがまず第一に挙げたものは、周知の通り、三河の伊良湖いらこさきはまに打ち寄せられていたのをかれ目撃もくげきしたというあの神話的な椰子やしの実であった。
2. 【4】島崎しまざき藤村とうそんはこの柳田やなぎだの見聞を材に採り、ただちに人口に膾炙かいしゃすることになったあの俗謡ぞくようの歌詞を作ったわけだが、『海上の道』の著者は島崎しまざき藤村とうそんの「椰子やしの実」に対してやや不満げな感想を洩らしも  ている。【5】「そを取りて胸に当つれば/新たなり流離りゅうり愁いうれ /という章句などは、もとより私の挙動でも感嘆かんたんでもなかったうえに、海の日の沈むしず を見れば云々うんぬんの句をみても、或いはある  、詩人は今すこし西の方の、寂しいさび  いそばたに持って行きたいとおもわれたのかもしれないが……(後略)」。【6】晴れやかな朝陽の中で珍しいめずら  「寄物」を発見するのは柳田やなぎだにとって喜ばしい出会い以外のものではなく、「流離りゅうり愁いうれ 」も寂しいさび  日没にちぼつも「詩人」の(けがれた筆が捏造ねつぞうした受け狙いねら の感傷にすぎない。【7】「千曲川旅情の歌」にしてもそうだが、既成きせいの欲情に媚びるこ  ことをとして恥じは ない自称じしょう「詩人」のやからは今も昔も尽きるつ  ことがない。
3. 「海上の道」において、柳田やなぎだの想像力が透視とうししているのは、「日本人」もまたこうした幸運のアイノカゼに吹きふ 寄せられてきた「寄物」そのものだという独創的な命題である。【8】「もしも漂着ひょうちゃくをもって最初の交通と見ることが許されるならば、日本人の故郷はそう∵遠方ではなかったことが先ずわかる。人は、際限もなく椰子やしの実のように、海上にただようては居られないのみならず、【9】幸いに命活きて、この島住むに足るという印象を得たとすれば、一度は引き返して必要なる物種をととのえ、ことに妻むすめとものうて、永続の計を立てねばならぬ」。【0】この「そう遠方でもない」場所とはいったいどこなのか、それを柳田やなぎだは、厳密な文化人類学の学術論文の装いからははるかに隔たっへだ  たこの文章の中で、具体的に明言しているわけではない(中略)。だが、そう遠方でもないというこの奇妙きみょうに生々しい限定が、柳田やなぎだの詩的な直観に異様な迫真はくしん性と説得力を賦与ふよしていることは否定できない。
4. 漂着ひょうちゃくをもって最初の交通と見る――しかしそれにしても、これは何と美しい言葉ではないか。この端的たんてきな断言を受けて、わたしはもう一歩進んでこう言ってみたい、漂着ひょうちゃくこそ唯一ゆいいつの交通ではないのかと。実際、漂着ひょうちゃくする以外のどんなやりかたでわたしたちは世界と結びつくことができるだろう。なるほど、あてどない「漂流ひょうりゅう」の時間の快楽というものはある。だが、単にそこにとどまるかぎり、たとえいかほどロマンティックな孤独こどく抒情じょじょうがそそられはしても、そこで人はあの「流離りゅうり愁いうれ 」の場合と同じく結局は単にひとりよがりの詩情の内部に閉ざされてあるほかない。「漂流ひょうりゅう」が意味を持つのは、それがどこかに、逢着ほうちゃくするかぎりにおいてのことだろう。
5. 詩は「投びん通信」でしかない、あるいはそうあるべきだといった言いかたがされることがときたまあるが、そうした命題がもし何らかの意味を持つとしたら、海上に放たれたびんがどこかの浜辺はまべ漂着ひょうちゃくし、それが拾い上げられる現場に想像力を働かせたうえのことではないか。良き風に吹きふ 寄せられ、未知のはまに打ち上げられた言葉を、拾い上げてくれる手があるということ。それこそ、ありうべき真のコミュニケーションの唯一ゆいいつの形態であるはずだ。
6.(松浦まつうら寿ひさしてる漂着ひょうちゃくについて」)