長文 2.3週
1. 【1】人間は、合理的にものを考える動物であると同時に、非合理な感情をそなえた動物でもある。言葉の意味にも、明示的な意味(デノテーション)と、含意がんい的な意味(コノテーション)がある。【2】「感ずる」と「感じる」とでは、デノテーションはおなじだが、前者にはカミシモを着たような雰囲気ふんいきがあり、後者にはふだん着の雰囲気ふんいきがあって、コノテーションはずいぶんちがう。乱暴にいえばレトリックとはデノテーションではなくコノテーションに注目する姿勢のことである。
2. 【3】シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)は一枚のコインの裏と表のようなもので、切りはなすことはできない。だから言葉では、贈りおく ものの中身と包装のようには、内容と表現を切りはなすことができない。【4】言葉は(いん(ようにいつもレトリックをひきずっているわけで、レトリックが市民権をえた今日、――とくに、言葉をなりわいにする人たちのあいだでは――内容と表現を区別することは、時代遅れじだいおく もはなはだしい態度であり、「……はたんなるレトリックにすぎない」という発言などは、シーラカンスの合言葉とみなされる。
3. 【5】「豊か」な消費社会では、サービスや気持ちが重視され、おしゃれであることが重要なポイントになる。おしゃれでないことは、「貧しさ」を連想させるからだ。コノテーションがデノテーションを圧倒あっとうする現象がふえてきた。【6】ペン習字のお手本のような字より、変体少女文字のほうが、おしゃれでかわいい。
4. 中身と包装、内容と形式の二分はむなしいというのが、レトリック派の言い分である。けれども世の中は、言葉やイメージや気持ちだけで動いているわけではない。【7】農業や製造業の就業者数がへったからといって、非製造業だけで暮らしがなりたつわけではない。かりに日本が完全な非製造業国になったとしても、世界のどこかには農業や製造業がなくてはならない。
5. 【8】変体少女文字で書かれた文章も、ペン習字のお手本のような字で書かれた文章も、ワープロでおなじ活字に変換へんかんすれば、字体の雰囲気ふんいきなど問題にならなくなる。「感ずる」と「感じる」とでは、コノテーションはちがうかもしれないけれども、デノテーションはおなじだ。【9】「感ずる」と書くか、「感じる」と書くかは、たんにレトリックの差にすぎない場合がある。しかも、言葉がもちいられるのは、やはりそのような場合が多いのではないだろうか。∵
6. 残念ながら文学でも、内容と形式に二分できるような作品がゴロゴロしている。【0】逆にいえば、内容と形式に二分できないような作品だけが、一流と呼ばれるのだ。きわめて抽象ちゅうしょう的なメディアである言葉は、もっともタチのわるい包装となることがある。
7. マス・イメージで連呼される「おいしさ」や「おもしろさ」の中身は、どうなのだろう。クルマのコマーシャルの舞台ぶたいとなっている外国のように、交通事情はいいのだろうか。空気はきれいなのか。普通ふつうにはたらけば、ゆったりした家が買えるほど、土地は安いのだろうか。日本はほんとうに「豊か」なのだろうか。派手で豪華ごうか結婚式けっこんしきは、暮らしの貧しさやつまらなさを証明しているのではないだろうか。「豊か」な包装をちょっと破っただけで、中身の貧しさがすぐに見える。貧しいからこそ、必死になって豊かなイメージを追いかけているのかもしれない。
8. そのむかし、三木清は「もう分析ぶんせきにはあきあきした。それよりいまはレトリックを必要とする時代だ」と言った。だが、現代のシーラカンスは、「……はレトリックにすぎない」という合言葉をつぶやきながら、三木清の言葉をひっくりかえす。もうレトリックにはあきあきした。それよりいまは分析ぶんせきを必要とする時代だ。

9.(丘沢静也『からだの教養』による)