1. 【1】考えてみれば、発達成長の段階にある子供が大人より
遙かに活動的であることは当然である。子供が遊ぶ時には体や衣服が
汚れるのは自然なのだから、
汚されても困らない服を着せ、遊びにはつきものの多少の品物の損害やカスリ傷などは、【2】子供の生育に必然的に
伴う当然の
代償として一々小言を言わず、社会的な場面や本質的に
矯正を必要とする
事柄に限って
断乎と
叱るようにすれば、家の子は言うことをきかなくて困りますというような結果には、まずならないものである。【3】それをビラビラした
飾りのついた活動に不便な高価な服を着せ、ちょっと
汚したと言っては
叱り、
跳ね回ると危ないからよせと言い、物を
毀せば、もう買ってあげませんよと
威すといた具合に、禁止と規制の
範囲をやたらと拡げてしまう結果、【4】子供としては
叱られることなど気にしていたら生きて行かれなくなる状態に置かれるから、親の小言はひとまず無視する
癖がつくことになる。つまり、禁止の
範囲が不条理を
含み、本質的に山かけ的であるため、制止された場合はひとまずそれを無視して行動を続けるのが得策というパターンが身につくのである。
2. 【5】このようにことばを使う方が、言ったことを本当に守らせるだけの見通しも裏付けもなく使うことの結果として、言語とその背後にある意志の間に大きなズレが生じ、ことばに対する
信頼が失われ、ことばが無力化するのである。
3. 【6】私の見るところでは日本人の日常のことばに対するこのような態度が法律や規制の面で一番よく表れているのが、道路交通法に基づく禁止
条項に対する
一般人の反応である。数限りなくある禁止の
形骸化の実例から
唯一つだけ
駐車禁止の問題を取り上げて見よう。
4. 【7】例えば現在の東京では、
環状七号線の内側は特定する場所を除いて、
一般道路は全面
駐車禁止の対策がとられている。ところが
誰もが知っているように、交番や警察署の目の前ですら、
見渡す限り
違反駐車の列である。【8】文字通り法律の規定通りに
違反駐車をしている車を、本当に
違反駐車として判断し、処置するまでに∵は、いわく言い難きいく段階かのプロセスがあるのは
誰でも知っている事実である。【9】つまり
駐車禁止の標識とは母親が単に「いけませんよ」と言っている段階に相当するのであって、それは直ちに実力の裏付けと組み合わされているものではないのである。しかしだからと言っていつでも無視してよいものではないことも
誰でも知っている。【0】本当に
叱られた子供と同じく、
罰金をとられる運転者も、不条理性とか運が悪いといった気持で自己の
違反を受けとめるのであって、悪いことをしたのだから止むを得ないという割り切った気持にはなれないしくみになっているのだ。
5. 法のカバーする
範囲を
極端に広くしておいて、
懲罰と反則
行為との直接的対応を弱めてしまうことは、法の
威信の低下、禁止など無数の標識に対する無感覚の助長など無数のマイナスが
指摘出来よう。標識関係の経費が全国では
莫大な金額にのぼっていることも忘れてはなるまい。むしろ絶対にゆずれない局限された場所と時間に禁止を限り、
取締りの能力と連動した規制を行うという発想の
転換が必要ではないだろうか。そのためには、私たち日本人がもっと、投入するコストと実効との関係、山かけ発想の危険性に今より
敏感になり、明示的一義的に
解釈可能な領域に
於ては
行為の意図よりも結果で物ごとを決定するような態度を育成する必要があるように思う。ニューヨーク州でマリファナ使用を合法と認めるかの議論があった時、強力な賛成意見の一つに現在の警察力では
取締り切れないからというのがあったが、これなど
違反行為と
懲罰の直結性を重く見る考え方の一例として参考になるのではないだろうか。
6.(
鈴木孝夫『ひとにはどれだけの物が必要か』による)