1. 【1】地のままの金から
鋳造された金貨へ、軽くなった金貨から
兌換を保証されている
紙幣へ、
兌換保証を失った
紙幣からエレクトロニック・マネーへと
変遷していく
貨幣の
系譜――【2】それは、まさに、「本物」の
貨幣のたんなる「代わり」がその「本物」の
貨幣になり代わってそれ自体で「本物」の
貨幣となってしまうという「
奇跡」のくりかえしにほかならない。もちろん、現実の歴史はこのような
系譜をそのまま順を追ってなぞってはくれない。【3】
飛び越しもあるだろうし、
後戻りもある。だが、ここで重要なのは、どの時代においても、「本物」の
貨幣とはそのときどきの「代わり」にたいするそのときどきの「本物」にすぎず、「本物」の
貨幣の「代わり」とはそのときどきの「本物」にたいするそのときどきの「代わり」にすぎないということである。【4】そして、このような「
奇跡」のくりかえしをとおして、
貨幣の
貨幣としての価値とモノとしての価値のあいだの
乖離が拡大していく
傾向をもつ。
2. 今度は、逆に、
貨幣の
系譜を現在から過去へとさかのぼってみよう。【5】エレクトロニック・マネーから
紙幣、
紙幣から金貨、金貨から……と
順繰りにたどっていくと、地のままの金へとたどりつく。しかし、
金塊や砂金がこの世の最初の
貨幣であったわけではないだろう。【6】
燦然とかがやく金といえども、それ以前に流通していた「本物」の
貨幣の「代わり」として流通のなかに登場してきたのにちがいない。たとえば、ポール・アインツィヒが著した原始
貨幣にかんする書物をひもといてみれば、そこには、金のほかに、銀、銅、青銅、鉄、
鉛、【7】黒曜石、石の円版、ガラス玉、
陶片、指輪、塩、矢、刀、
斧、
鉄砲、木材、樹皮、小麦、大麦、トウモロコシ、米、ココナッツ、ココア、アーモンド、ヤム
芋、砂糖、茶、ラム酒、ジン、タバコ、笛、
太鼓、毛布、
麻布、綿布、絹布、羽毛、毛皮、【8】皮革、牛、羊、水牛、
豚、トナカイ、干し魚、バター、子∵安貝、
法螺貝、カタツムリ貝、
鯨の歯、犬の歯、
豚の歯、
蜜蝋、そして人間のドレイといったありとあらゆるものが、古今東西にわたって
貨幣として流通していたことが書かれている。【9】そのあきれるほどの多様さ、いや不統一さは、
貨幣が
貨幣であることはそれがどのようなモノであるかということとはなんの関係もないということを意味している。なんらかの意味での
耐久性さえもっていれば、どのようなモノでも
貨幣として使われてきたのである。【0】だが、ここで強調すべきことは、たとえそれが鉱物であったとしても、植物であったとしても、動物であったとしても、人間であったとしても、さらにまたそのいずれにも分類できない得体の知れないモノであったとしても、
貨幣がこの世にはじめて
貨幣として登場したその
瞬間に、それはモノとしての価値を上回る
貨幣としての価値をもつことになったということである。そもそもその始原から、
貨幣としての
貨幣とはモノとしての存在以上の存在であり、モノとしての
貨幣とは
貨幣としての存在以下の存在である。カッコがつかない本物の
貨幣、いや本モノの
貨幣という言葉は、
自家撞着以外のなにものでもない。
3.
貨幣の
系譜をさかのぼっていくと、それは「本物」の
貨幣の「代わり」がそれ自体で「本物」の
貨幣になってしまうという「
奇跡」によってくりかえしくりかえし寸断されているのがわかる。そして、その
端緒にようやくたどりついてみても、そこで見いだすことができるのは、たんなるモノでしかないモノが「本物」の
貨幣へと
跳躍しているさらに大きな断絶である。無から有が生まれていたのである。いや、
貨幣で「ない」ものの「代わり」が
貨幣で「ある」ものになったのだ、といいかえてもよい。
貨幣とは、まさに「無」の記号としてその「存在」をはじめたのである。
4.(
岩井克人『
貨幣論』による)