1. 何について、責任が問題となるのか? まず何よりも、
行為にかんして、である。しかも、みずから何かを行うという
行為だけでなく、何事かをしないという
無為も、また他人が何かをするのを助ける・やめさせる
行為をもふくめ、まずは
行為にかんしてこそ、責任が問題となる。
2. もちろん、
行為・
無為にかんして「他のようにはできなかった?」と問われるとき、その問は、その人の心理的・人格的な特性や、そのときの思考・感情にまで
及ぶ。しかし、
繰り返せば、そうした
事柄にまで責任の問題が
及ぶのは、
行為のありようが問われるからである。そのかぎりで、まずもって
行為に
焦点を合わせるのは不当なことではない。
3. では、
誰が責任を負うのか?「
行為した個人が」という答は、自明のようにも思える。しかし事態は、つねにそう単純であるとはかぎらない。なるほど、
行為するのは、個人である。少なくとも
行為は、意味を帯びた身体のふるまいにおいて
遂行されるかぎり、身体なき存在は、
行為できない。しかし、だからと言って、
行為の責任を負うのは、当の個人にかぎられる、ということにはならない。
4. このことが
如実に問題となるのは、会社や国家といった組織が「集合的な
行為」を
遂行するばあいである。しかし、会社や国家は、個人が
行為するのと同じ仕方で、
行為するのではない。ここでは、もっぱら個人に
焦点を合わせて、
行為の責任を考えてみたい。
5. 個人が
行為するときには、何の前提もなしに、本人にもわけ(理由)も分からぬまま、体が動くのではない。その人は、その人なりに
状況を認知し、自分の欲求や、まわりからの期待や、自分の願望にもとづいて決断し、意図的に体を動かして、
行為している。何気ないささいな
行為においてさえ、
状況の認知・周囲の人たちの∵
抱いている予期・期待、当人の中長期の計画などなど、多くのことが前提となっている。
6. もし、
状況認知・周囲からの期待・本人の計画といった
行為の前提のいっさいが、その個人に由来し、その人によって自由に
制御できるのであれば、そのばあいには、
行為にかかわる責任は、すべてその人にある、ということになろう。しかし、実際には、そうではない。
状況認知・期待・欲求などなどといった
行為の前提の多くは、まわりの人たちとの関係によって生じている。したがって、誤った情報を
与えられたまま、あるいは
過剰な期待を負わされたまま、その人が決断したときには、「本人がそう
選択したのだから、
彼・
彼女に全責任がある」とは言えない。そう決めつけるのは、実態とずれており、ばあいによっては
苛酷である。
7. もちろん、だからといって、「本人が
編み込まれていた関係が悪かった、
環境が悪かった」といった責任
転嫁が、つねに正当化されるわけではない。
催眠術にかけられていたとか、
舞踏病で体が勝手に動いたとでもいうのでないかぎり、私たちは、自分が
行為した理由(わけ)を問われる。思わず、あるいは何気なく
行為してしまって、自分でも理由を説明できないとしても、
舞踏病で体が勝手に動いてしまったのでもないかぎり、私たちは、自分の
行為に責任を負っている。しかし、もし誤った情報を
与えられて、あるいは過大な期待を負わされて、あるいは
脅迫されて、そう
行為することを選んだのであれば、誤った情報を
与えた者、過大な期待を負わせたり
脅迫した者にも、その責任があるはずである。
8.(大庭健『「責任」ってなに?』による。一部改変)