1.【1】A、 およそ
隣人間でもめごとの生じた場合、直ちに裁判に
持ち込まれることは少ない。多少なりとも当事者同士で話し合いがなされるものである。しかしいろいろと話し合ってみたが、争いはエスカレートするばかりで、どうしようもなくこじれた末に弁護士事務所に
駆け込む場合が多い。【2】多少の痛みは
我慢したり薬を飲んだりして
抑えてきたが、どうしようもなく痛んだ末に歯科医に
駆け込む場合と似ている。そこで歯科医は、「どうしてこれまで放っておいたのですか」と言い、弁護士も「どうしてもっと早く相談してくれなかったのですか」と言う。【3】しかし当事者としては、
我慢できれば何もこんな所へ頭を下げて来やしませんよ、と答えたいだろう。
2. このような現象は、二つのことを意味している。【4】一つは、
隣人間の
紛争を話し合いで解決することの困難さであり、もう一つは、弁護士の存在がいかに市民から遠いものかという点である。
3. 第一の
隣人紛争の
特殊性について。それは
隣人愛が裏目に出た場合の困難さである。【5】……すなわち、
日頃絶えず顔をつき合わせ、しかも親しい
間柄にあることから、いったん、いさかいが生ずると、あれほどまで親切にしてあげていたのにとか、あれほどまで
信頼していたのに、といった気持にかられ、うらみつらみが
増幅するのである。【6】それは、人に対する親近性と
信頼性が強ければ強いほど、破られた時の
怒りが
増幅することを物語っている。したがって、当事者同士が話し合いをしても、言葉の
端々が、かえって火に油を注ぐ結果になりかねない。
4. 【7】それでは、弁護士が
介入した場合はどうか。この場合とても、かえって「弁護士まで連れてきた」といって
怒り出す人もいる。弁護士が入ってきたことで、本格的な戦いをいどんできた、と思う人が今でも多い。
5. 【8】しかし、
隣人間の
紛争は、次の二つの理由から、当事者間の話し合いによる解決が望ましい。その一つは、すでに述べた
隣人関係∵の
特殊性からくるものである。すなわち、
隣人関係はどちらか一方が
引っ越さないかぎり、一生
隣人同士の関係を断ち切れない
間柄にあるということである。【9】にらみ合いのまま一生暮らさなければならないとしたら、これほどの悲劇はない。話し合いによる解決は、いつかまた従来の
隣人関係を回復させる可能性を
与えてくれる。
6. 【0】(
竜嵜喜助「裁判と義理人情」より)
7.
8.B、 現在の日本の社会というのは非常に流動的ですね。……従来のコミュニティー的な人間関係、伝統的に
培われてきたような人間関係がかなり
大幅に
崩れてきまして、社会内のルールとか、社会内のメカニズムでは解決できないような問題がたくさん生じてきている。結局、裁判所とか、あるいは、人間が作った実定法に解決を求めざるをえないような、そういう事態が非常に増えてきているわけです。
9. ……
隣の人といっても何十年もあるいは何代も前からいっしょに住んでいるわけではありませんから、どこのだれかほんとうにはわからない人なんで、
近隣社会とは言っても伝統的なものとは全く異なるだろうと思うのです。そうなりますと、
近隣の関係で何年か親しく付き合っていると言っても、
お互いに口に出してはっきり確認しなくても
了解しあっているような自明のルールというものが、あるとは言えないのではないか。……それは都市だけではなくて、田舎のほうにまでそういう
状況はだんだん
及んできていると思うんです。(中略)
10. そういうときに、これは
近隣の問題だから
近隣で解決すべきだというふうに言えるのかどうか、私は疑問に思うのです。そうしますと、なにかの公的な解決の場に持って行くことも止むをえないのではないか。ルールがはっきりしていてはじめて
信頼関係も成り立ちうるわけですから。
11.(星野英一編「
隣人訴訟と法の役割」より)