長文 7.1週
1. 【1】現代文明が、石油、石炭、天然ガスなどの化石燃料に
依存し、化石燃料を利用して成り立っているのに対して、
江戸文化は、太陽エネルギーだけを使って成り立っていた。具体的にいうなら、
徹底的に植物に
依存し、植物を利用した時代だった。
2. 【2】もちろん、植物以外の資源を利用する漁業や、鉱物を加工して金属や
陶磁器を作る産業も発達したが、中心になるのはさまざまな形での植物の利用だった。【3】植物を育てる重要な作業にも、人力とわずかな
家畜の力しか使わなかったが、考えてみると、人間は去年の太陽で育った穀物などを食べて動いているし、馬や牛も去年か今年の太陽で育った穀物やわら、草などで生きているから、結局は、産業も過去一、二年の太陽エネルギーだけを利用して成り立っていたことになる。
3. 【4】今のように石油で暖めるハウス
栽培をすれば、真冬でも
胡瓜やトマトを出荷できるし、大きな船で遠洋漁業に出れば、日本では
獲れない魚を
獲って来ることもできる。【5】ところが、太陽エネルギーだけを利用して植物
栽培や漁業をやっていた当時は、それぞれの土地
柄に合った作物を育て、季節の海産物を利用するほかなかった。
4. 【6】
江戸時代の産業が今の工業と根本的に
違うのは、さまざまな物産の生産から加工まで、すべて人手によっていた点である。つまり、原料を育てるのも太陽エネルギーだけなら、それを加工して製品化するのも、太陽エネルギーの
範囲だけで行っていたのだ。【7】力仕事や
面倒なことはほとんど機械が
肩代わりしてくれる現代の作業に比べると、人力だけが動力の産業は、能率が悪く生産力も低い。
5. 【8】しかし、手仕事による産業が、何でも機械で処理する近代産業に比べて、けっして
劣っているわけではない。手仕事は、不便なのではなく「小さな便利さ」の上に成り立っている別の種類の産業であり、生産量だけで近代産業と比べるのは
間違っている。
6. 【9】もちろん、手仕事では大量生産ができないから利益も少なくて、大
企業にはなり得ないが、手仕事では
需要ぎりぎりの量しか作れないため、生産
過剰になる心配がない。【0】ところが、大量生産を∵目的としている近代産業では、
需要に合わせて生産するというより、生産しただけ売るのが基本だから、大量生産にともなう大量の
廃棄物が出るという宿命を
抱えている。大勢の福の神の後には、必ず大勢の災いの神がついて来るのだ。
7. 手仕事の大きな長所は、製造の能率はきわめて悪いが、エネルギー効率がすぐれている点である。基本的には人間の労力だけでできるから、現在のエネルギー統計と同じように人間の労力を計算に入れなければ、エネルギー消費ゼロでできることになる。
8.
但し、太陽エネルギーだけを利用して自分たちの土地
柄に合った物産を作るのは、機械を使って工場生産するよりはるかにむずかしい。機械による生産は、大きなエネルギーが必要だが、どこに工場を設けても同じ製品を作れる。正確にいうなら、エネルギー効率がすぐれているというのを
通り越して、
仙台平のような高級な布だろうが、
美濃紙だろうが、
会津の
蝋燭だろうが、練馬大根だろうが、太陽エネルギー以外には何も使わず、エネルギーゼロでできるのだ。ところが、手作業では、その土地の気候風土に合った原料しかできないし、運送能力が低かった時代は、原料生産地からあまり遠くない場所で製造しないと値段が高くなってしまう。
9. 要するに、生産できるものがその土地の自然
環境の
影響を強く受けるのだが、
江戸時代の人々は、このことも前向きに利用した。つまり、各地の人々が自分なりに工夫して自分たちの土地
柄に合った特産品を作り、こんな番付にまで出るような全国ブランドとして育て上げたのである。各地の気候風土という自然の力が育てた名産品を見ると、日本の国がいかに多様性に富んでいたかよくわかるが、これらの特産品を生み出した人々も、今の日本人よりはるかに多様性に富んでいた。
10.(石川
英輔氏の文章に基づく)
長文 7.2週
1. 【1】人間が自分の行っている活動から
充実感を得たいと考えること、あるいは自分が生きていることに「張り合い」を感じたいと思うことは、きわめて自然で
普遍的なことだと言って良いだろう。【2】親が子どもの順調な成長ぶりを見て、自分の養育活動に
充実感を持つことも、会社員が自分の仕事の結果によって会社の業績が上がったことを喜ぶことも、ともにいつの時代にも見られる「生きがいの探究」と考えて良いはずだ。【3】だが、にもかかわらず、「生きがい」という言葉の意味合いは時代によって
微妙に変化してきたし、その
微妙な
違いこそが重要なのではないか。
2. 【4】たとえば、現代においてボランティア活動を行っている人々と、かつて学生運動を行っていた人々とでは、同じように「生きがい」を感じていたとしても、その「生きがい」を求める姿勢それ自体が
違っているように私には思われる。【5】だから私は現代の「生きがいの探究」の意味について、こうした時代による意味の
違いにこだわって考えることにしたい。
3. 【6】いま例に出したような、学生運動をしていたような戦後日本社会の青年たちは、「生きがい」を自分の衣食住に関わる私生活や、それを
維持するための
稼ぎ仕事ではなく、今よりももっと理想的な社会を作りだすための公共的な活動に求めていた。【7】そうした活動に自己
犠牲的に
没入することによって、自分自身の社会的・実存的な存在意義を高めること。そうした理想主義的で前向きな行動が、
彼らの感じていた「生きがい」だったと思われる。
4. 【8】そして実は、そうした理想を志向する「生きがい」感は、
彼らが
軽蔑していたような、同時代のごく
平凡な日本人にも共有されていた感覚だったと言える。【9】なぜなら
彼らもまた、自分の生活状態に満足することなく、今よりももっと豊かな生活を「理想」として目指すことに「生きがい」を感じていたからだ。【0】だからこそ、
彼らはあくせくと働いてお金を
稼ぎ、
黙々と辛い家事労働をこなすことができたのだ。つまりいずれにせよ、理想実現のために行動することが一九六〇年代までの日本社会の「生きがい」だったと思われる。
5. しかし、一九七〇年代から八〇年代にかけて、このような「生き∵がい」感は大きな
変貌を
遂げた。もはや人々は、未来の理想的
状況のために現在を
犠牲にして活動することには「生きがい」を感じなくなったのである。今ここで得られる快楽を
犠牲にして、やってこない理想の未来のために馬車馬のように走り続けることの一体どこに
充実感があるのだろう。それよりも、欲望のままにブランド物の洋服を着て、
豪華なレストランでの食事を楽しんだ方が、よほど自分の人生をその
瞬間において
充実させることになるのではないか。そう人々は考えはじめた。つまり
彼らは、その時その時の「現在」における
即時的な快楽の
充足に「生きがい」を感じ出したと言えよう。(中略)
6. そして、一九九〇年代以降、
不況となって消費生活が縮減され、
阪神大震災によって豊かな消費生活の底の浅さが
露呈されてしまうと、人々は再び「生きがいの探究」に向かい始めたように見える。たとえばボランティア活動の
普及は、人々が単なる私的欲望の
充足だけでなく、自己
犠牲的な公共的活動に「生きがい」を見いだしている
証拠だと言えよう。
7. しかしやはり、そこにはかつての「生きがいの探究」とは
微妙な
違いがあるように私には思える。つまり現在の人々は、他者のために行動することに喜びを見いだしているというよりも、他者のためのボランティアをまるで「自分のため」に行っているように見えてしまうのだ(その真面目さを疑うわけではないが)。(中略)
8. つまり「生きがいの探究」はいまや、未来の自分や社会を作りだすような理想志向的な活動ではなく、現在の日本社会の
奇妙な
閉塞感を反映した、後ろ向きの活動になってしまっている。だから私たちは、「生きがいの探究」という美化された物語に簡単に乗るよりも、それを疑うところから「自分探し」の自閉空間を
切り裂く可能性を見つけるべきだろう。
9.(長谷正人「生きがいの探究」から)
長文 7.3週
1. 【1】二〇世紀という時代は、言語学と記号学の
隆盛を見た時代として記録されることだろう。ぼく自身は、どちらの専門家ともいえないにせよ、今世紀の主だった
哲学者たちをとおして、言語学と記号学にそれなりの関心を寄せてきたつもりだ。【2】特に、イタリアの
哲学者で小説家でもあるエーコの著作には、ずいぶんとお世話になった。このエーコによる記号の定義は、明快そのものだ。記号とは、それによって
嘘をつけるもののことだというのである。
2. 【3】確かに、ぼくたちがあれこれと指示できるものの存在に
縛られたままだったとすれば、そもそも記号世界など存在しえないのかもしれない。
鳩がいたら
鳩を示し、
猿がいたら
猿を示す。それだけのことだったろう。【4】しかし、言語記号によって、
鳩がいなくても、「
鳩がいる」と表現し、
猿がいても、「
猿はいない」と表現することができ、そういった表現によって指示対象のあるなしにかかわらず、しかるべき意味を伝えることができるのである。
3. 【5】エーコの記号学は、指示対象と記号内容とを
峻別するところに立ち、それはそれで十分に説得力をもつ。ただ、最近思うのは、そもそも
嘘をつこうとする意志についてだ。【6】もちろん、記号というものがあるからこそ、
誰であれ、
嘘をつくことができるのだろうが、
嘘をつこうとする意志については、それは、言語学や記号学の手に余るのかもしれない。【7】しかしその一方で、
嘘をつこうとする意志の存在を
考慮しないかぎり、言語や記号の研究も、どこか
空虚なものとなりはてるのではないか。そんなことを
漠然とながら考えるようになったのである。
4. 【8】そうなるに当たっては、グラシアンを読み直しはじめたのが大きかったろう。グラシアンは、ちょうどデカルトと同時代のスペインの著作家だ。【9】
実践哲学としては、見かけや外観の
徹底的な活用を説いたことで知られる。そのように説いた根底には、この世は敵意に対する戦いからなるという世界観があった。見かけや外観の効用とは、他面では
隠蔽や
偽装の効用でもある。【0】顔つきや言葉から手の内を
見透かされないように、とでもいえばよいだろうか。これ∵は、今日でも十分に通用する処世術だろう。グラシアンの本が
欧米のビジネスマンに重宝されているというのもうなずけないことではない。
5. グラシアンの
恐るべきところは、神についても、見かけの術を適用してみせたことだ。この世のあれこれの外観だけで神の力が
尽きているとは、
誰も思うまい。神は、そういった外観で推しはかれないほどの無限の力をもつ。人間が自らを
偽装しつつ、推しはかれないほどの力をもつように見せかけるとしたら、それは神の手口を
模倣していることにもなるはずだ。だとすれば、神もまた、見かけの術の行使者ということになりかねまい。外観の術といおうと、
隠蔽の術といおうと、実のところ、
嘘の技術というのと大差あるまいから、神は、
嘘つきの
超大家ということになってしまうのだ。
6. アルゼンチンの作家、ボルヘスの『
虎たちの黄金』に、「
狂態」という意味深長な一
篇がある。衆人
環視のもと、
狂気の発作におそわれたふりをして、
仇敵を殺してしまう男の物語だ。男は、人殺しの最中には責任能力がなかったということで、無罪
放免となる。グラシアンの思想と、このボルヘスの
短篇とが結びついたとき、正直いって、頭がくらくらとしたものだ。何か異常な事件が起こるたびに、
被告は責任能力が問える精神状態にあったのかどうかが問題とされる。
被告側は、当然、精神能力を問えない状態にあったふりをするだろう。こういった事態は、これからも、あれこれと進行していくに
違いない。見かけの術の行使者を看過しない
毅然とした態度が求められる。しかし、それは、悪意に対する戦いという世界観が厳然と
露呈されることでもある。
7.(
篠原資明の文章による)
長文 7.4週
1. 【1】数年前、F・フクヤマによる「歴史の
終焉」をテーマとする論文が発表され、日本の言論界に、大きな
反響を引き起こしたことは、なお
記憶に新たなところであろう(「歴史は終わったのか」、月刊Asahi)。【2】フクヤマはその後、この論文を、さらに大部の著書へと発展させ、それも様々な議論を呼んだ。【3】フクヤマの論文は、十九世紀後半以降、世界の言論や思想と現実政治とをリードしてきたマルクス主義の歴史観の無効を公然と宣するものであり、とりわけ、冷戦の
終了が語られ始めた時期に発表されたこともあって、多大な関心が寄せられることになったのである。【4】フクヤマによれば、冷戦が西側社会の勝利によって終結しつつあることは、資本主義社会の後に社会主義社会が
到来するとしたマルクスの予言が誤っていたことを意味している。【5】すなわち、西側において、今日、
既に成立しているか、あるいは成立しつつある自由民主主義的な統治と自由主義的な市場経済によって営まれるような社会こそが、歴史の進歩の最終段階に位置するものであり、【6】そうだとすれば、マルクスよりも、むしろ、
彼に
影響を
及ぼしたヘーゲルによる世界史の構想の方が、現実の歴史の進行により、適合的であるということになる。
2. 【7】実際、明治期以来、「文明」であれ、「社会主義」であれ、そして、「近代社会」であれ、こうした観念は、いずれも、特定の理想の社会についての理念を表現するものであり、かつ、そうした理想に向けての進歩の過程に関しても、具体的な発展の段階や経過を示す図式が
与えられていた。【8】しかも、こうした発展の図式は、その
到達目標が
欧米その他の社会で
既に実現されているものとされることで、より一層のリアリティを保っていた。【9】そして、日本の現状が問題になる際、こうした図式に照らしてそれを批判したり、あるいは将来に向けての行動を
考慮するということが、いわば自明の前提になっていたのである。【0】しかるに、「歴史の
終焉」という事態は、そうした発展の図式を提供してくれるものは、もはやないということを公然と告知するものであった。すなわち、遠い将来を展望した大いなる時間についての見取図を、われわれは、見失うことになったのである。F・フクヤマの言う「たいへん悲しい時期」、また「長く
退屈な時代」は、そうである以上に、われわれ日∵本人にとっては、
戸惑いと混乱を感じさせる時期なのかもしれない。
3. しかしながら、他方で、進歩の内実を規定するそれぞれの歴史の発展の図式は、明治以降の日本人の精神生活に一定の
秩序と方向を
与えるものでありながら、まさに、それゆえに、そこに特有の
緊張感をもたらすものでもあった。その
緊張感とは、進歩の目標に向けて、ある種の
切迫感を
伴って時間の経過を体験することに他ならない。すなわち、日本が文明化しなければ世界列強に
伍していくことはできない、あるいは、社会主義の
到来が必然であるとすれば、
唯今現在
如何なる行動に出なければならないのか、さらには、早急に前近代的な状態を
脱して
欧米なみの社会を建設しなければ、日本は再び破局への道を歩むことになるといった
焦燥感が、近代日本人の精神生活に様々な
影を投じてきたのである。そうだとすれば、そうした観念が、もはや現実的な意味を持たないとされることは、われわれ日本人の従来の精神の構えに
弛緩をもたらすものであるとも言えよう。先に、「歴史の
終焉」ということが、日本人に
感慨をもたらすものだとしたのは、こうした、
戸惑いと
弛緩の入り交じった状態を指している。(中略)
4. 改めて
振り返ってみると、近代の日本において、「進歩」という観念が日本人の精神生活を大きく規定するなかで、実際の日本人の生活を
特徴づけたものは、必ずしも、そうした進歩に向けての特定の時間図式のみではなく、むしろ、それを意識しながらも、様々な
陰影をもってあらわれる多様な時間体験であった。そして、そこには、日本が
欧米近代社会に接する以前の伝統的な時間体験のあり方が、様々な形で
影を投じていた。そうだとすれば、われわれは、こうした近代の日本人の多様な時間体験のあり方のなかに、「歴史の
終焉」の後の「たいへん悲しい時期」、あるいは「長く
退屈な時代」において生を営んでいくうえでの何らかの
示唆を見出せるかもしれないのである。 (
坂本多加雄『近代日本精神史論』より)
長文 8.1週
1. 【1】ウォン・カーウァイ
監督の新作「花様年
華」の終わりにアンコール・ワットの
遺跡の
壁に開いた小さな穴に向かって、主人公は何事かをささやく。【2】昔、大きな秘密を
抱く者は山で大木を見つけ、幹に
掘った穴に秘密をささやくんだ。穴は土で
埋めて秘密が
漏れないように永遠に
封じこめる。【3】映画の中でトニー・レオンの主人公が友人にこのように語ることばそのまま、六〇年代
香港の
片隅で秘やかに
咲いた
恋はアンコールの
壁の中に永遠に
封じ込められる。カメラが引いてゆくと、古代
遺跡の
回廊が、その神々の像が見下ろす高い
天井が、
圧倒的な美しさで
迫ってくる。【4】全身がしびれるような感動を覚えながら、
突如として、
沈黙の中にある古代の
遺跡がいまなお現代の私たちにとって深い意味を有することを感じる。【5】
幾千年に
亘って人々の幸せと不幸、喜びと苦しみ、その秘密をいだいて
沈黙の中に存在してきたものの尊さ、これこそ古い文化遺産の限りのない価値なのだ、と。
2. 【6】アフガニスタンでタリバーンがバーミヤンの大仏を
破壊したことを暴挙と感じるのは、何よりも古代の大きな仏像の足もとにひざまずいて、いつの日か自分も
祈念したいという深い思いがかなわなくなったからだ。【7】この
騒がしい世の中にあって、たとえ一時なりと、
遺跡が秘めてきたものを
沈黙の中に聞きとろうとする。それほどの
慰めが他にあるだろうか。
3. 【8】人類の育んだ文化には、どのように
些細なものであれ、人間の心の
叫びが
封じ込められている。「文化の多様性」をいま尊重せよ、と願うのはそのためだ。
4. 【9】すでに大方の
記憶からは失われたことかと思うが、昨年の七月に開かれた
沖縄のサミット会議で、初めて文化が討議の対象となり、「文化の多様性」の
擁護が決議文に
盛り込まれた。【0】これは注目に値する画期的な出来事であった。国連の教育・科学・文化機関∵であるユネスコも新世紀に向けて「文化の多様性」をその最大目標の一つに
掲げている。当事者の
思惑はどうあれ、これらを空文にしてはならないと思う。
5. 今日、「文化の多様性」への
脅威は二つの方向から来る。一つはタリバーンの古代大仏
破壊のような宗教的過激主義による
脅威である。これには世界各地にみられる異文化
拒否と他者
排斥を声高に主張する自文化・自民族中心主義や全体主義的イデオロギーの激しい動きなどが
含まれる。こうした文化と人間の
破壊は、それが地球のどこで行われようと、真のグローバルな問題として受けとめる必要がある。仏像
破壊は日本の近代史とも
無縁ではない。中国の文化大革命のような例もある。
6. いま一つの
脅威は、グローバリゼーションのかけ声の下に急速に世界を席巻しつつある「ファストフード化」の波である。これは単に食品のことだけでなく、文化の簡易化・単純化と画一化のことを指す。グローバル文化なるいい方で世界に広がってきた文化現象は
コカ・コーラ化、ディズニー現象、マクドナルド化などと
称されながら、Tシャツ、ジーンズ、スニーカーに多機能
携帯電話にTVゲームとアニメといったポピュラー文化複合としてアメリカを発信源としている。しかるに、こうした生活文化は世界各地でローカルなものに
溶け込みローカル文化を
触発し、日本発のファストフードの世界への広がりを生じさせた。回転
寿司、ラーメン、
牛丼にポケモンはグローバルなファストフード文化の一部となった。(中略)
7. 二一世紀というのに、一方で
偏狭な過激主義、他方に非人間的な文化画一主義。その先にあるのは限りなく深い
虚無の世界である。
8.(青木 保の文による)
長文 8.2週
1. 【1】美しい日本語が音を立てて
崩壊しつつある、
元凶は
近頃の若者たちだと確信して、日本語の将来を、そして、日本の将来を、
真剣に
憂慮している人たちが少なくない。【2】個性的な地方文化の
象徴ともいうべき温かい方言が、共通語に
圧迫されて
絶滅の危機にあるというのも、それと同じ感覚に基づいている。
2. 【3】伝統に
培われた、美しく豊かなことばを
崩壊から守ろうという立場を
純粋主義と言い、そういう立場をとる人たちを
純粋主義者と言う。
純粋主義者は高い
年齢層に多く、また、知識人/文化人などとよばれる言論の指導者や教育者にも密度が高い。【4】
純粋主義者にとって、新しく生じた言いかたは、無条件に
汚いことばである。
3. 【5】
純粋主義/
純粋主義者というよびかたには多分に皮肉な
含みがある。
融通のきかないガリガリのクソマジメということである。
4. 有限の語句で無限の事態を表現するのが言語であるから、場面/文脈/用法によって一つの語句も
変幻自在に使用される。【6】言語現象について考える場合、その基本原理を忘れて正しさだけにこだわると
硬直した議論になりやすい。
5.
純粋主義/
純粋主義者という用語は、それぞれpurism/puristの訳語である。【7】もとが外国語にあることは、「ことばの乱れ」が日本語に特有の問題ではないことを意味している。
純粋主義を支えているのは、民族固有の、あるいは、地方固有の伝統文化についての
誇りである。【8】その根底には、共通の言語をもつことによって社会の
秩序が
維持されているという認識がある。言語の乱れは社会
秩序/社会
倫理の乱れに連動しているというのが、
純粋主義者たちの確信である。
6. 【9】
純粋主義者からみれば、現在の日本語は、
彼等自身がこれまでに体験したことのない混乱状態にある。しかも、混乱は急速に進行している。【0】そういう個人的経験に基づく印象が意識下で
一般化され、日本語史上、かつて生じたことのない危機的混乱が目前に生∵じているという
思い込みにすり変わっている。長い歴史をつうじて、大きな変化がたくさん生じたが、日本語は無傷のままであったという知識が
彼等には欠けている。
彼等にとっての日本語の起点は、自分たちがモノゴコロついた時期である。
7.
思い込みとは、客観的
証拠に基づかない確信である。メディアをつうじて報道される若い
娘たちの
破廉恥な行状とか、若者達の
傍若無人の行動とか、
彼等の乱発する
符丁めいた
半端な縮約語なとが、そういう確信を
増幅している。
8. 若い世代の人たちのことばづかいについて、年長の人たちが、なかでも教養階級の人たちが批判的であることは、いつの時期にも
恒常的にみられる現象である。たとえば、『徒然草』に、つぎの一節がある。
9. 何事も、古き世のみぞ
慕はしき。今様はむげに
卑しくこそなりゆくめれ。(略)文のことばなどぞ、昔の反古どもはいみじき。ただ言ふことばも、くちをしうこそなりもてゆくなれ。いにしへは、車もたげよ、火かかげよ、とこそ言ひしを、今様の人はもてあげよ、かきあげよ、と言ふ。(類例略)くちをしとぞ、古き人はおほせられし。
10. 「いにしへ」には、そういう
卑しい言いかたをしなかったものだと「古き人」が
慨嘆しておっしゃった、ということである。現今の老人たちと同じように、14世紀の老人たちもまた、イマドキの若い者は、と
慨嘆している。
懐古主義者は必ず
純粋主義者である。
11.(小松
英雄の文章による)
長文 8.3週
1. 【1】「世界の最新ニュースがリアルタイムであなたのパソコンのデスクトップに」という広告を見た。もう時代はそんなところまできたのか、と感心すると同時に、世界中の情報がリアルタイムで流れこんできたら、私の神経は、あっという間に限界を
超えて
発狂状態に入るのでは、と考えてしまった。
2. 【2】現代のデジタルネットワーク社会は、光速の伝達速度をめざして同時性を世界全体に
押し広げようとしている。情報が、
即時的に
遅延なく伝達されることこそ、電脳社会の見えざる目標なのかもしれない。【3】私たちの心性も知らず知らずのうちに、速度礼賛者に変容していく。
3. 時間のかかる手紙に代わって、
瞬時に反応する電子メールを使うこと。【4】書店に足を運ぶ代わりに、インターネット上の電子書店で、
検索と注文を
瞬時に
完了させてしまうこと。分厚い研究書や古典をじっくり読む代わりに、電子テキストでキーワード
検索しながら、必要な個所を
瞬時に表示させること。【5】思いついたとたんに、相手の
携帯電話に気軽に接続して話してしまうこと……。つまり総じて、私たちは、欲した時に
瞬時に世界とコンタクトをとり、行動していることになる。
4. 【6】ところで、情報といっても、その速度が情報の価値に大きくかかわるものと、そうではないものの二種類があることを忘れてはならない。
5. 【7】例えば、台風やそれに
伴う交通の混乱の情報は、タイムラグがなければないほど価値が高く、速度はこの種の情報にとっては本質的である。そして、昨日出された台風情報は、今日の我々には何の価値もない。
6. 【8】これに対して、文学や思想の古典的資料などは、伝達速度や時間的経過で価値が大きく変化することはない。
7. この両者はもちろん、従来は情報と知識という形で明確に区別されてきたものである。【9】しかし、あらゆるものが情報化され、ネットワーク上に
蓄積・開示されてしまう今日にあっては、すべて情報として処理され、この区別は
忘却のかなたに追いやられてしまったようだ。
8. 【0】私の個人的な体験にすぎないかもしれないが、自分との対話をじっくりと重ねながら学び味わったものは、いわば体得されたもの∵として、私に染み着いているが、早わかり方式で仕入れた情報は、私になんの
痕跡も残さず、あっという間に消え去ってしまう。三日で覚えた情報は、三日で消え去ってしまうのである。
9. 情報の速度こそが絶対の価値となっている現代においては私たちは成熟していく存在であるよりは、
瞬間的な反応マシン、つまり、情報が入りこんでは流れ出ていく一結節点にすぎない存在になっていくように感じられる。
10. ハイデガー(ドイツの
哲学者)は時間の本質を「時熟」、つまり「今」の連続としてではなく、時間性の成熟としてとらえた(『存在と時間』)。
逡巡すること、反省すること、あるいは、熟考、熟練などは、情報のインプットに対して、きわめて
膨大で
無駄に思われるタイムラグののちに、はじめてアウトプットが生じるたぐいの営みである。これらは
瞬間的で切れ切れの今の積み重ねではなく、むしろ時間の成熟によるものだ。
11. 時間がかかる、時間の
遅延があることを、すべてタイムラグとして否定的にとらえたり、スピーディーであることが、私たちの豊かさを保証すると考えるならば、それは根本的な
錯誤であるように思われる。
無駄な時間を省いて、残った時間で豊かな生活を、と
喧伝されながら、その残った時間もすべて
無駄な時間を省くという心性に
汚染され、「時熟」を味わえないからだ。結局、私たちの生活はテンポ全体があわただしく加速しているだけなのである。
12. 私たちが便利さや速度の
幻惑には
徹底的に弱い存在であること、しかし、それにもかかわらず、それに身をゆだねることは、私たちを
徹底的にやせ細った
刹那的存在にしてしまうこと。このことへの自覚は、今日においては決定的に重要であろう。
13. 現代の情報・消費・社会システム全体が、便利さと速さを「豊かさ」と
称し、それに向けて
邁進せざるをえない以上、私たちは、常に情報反応マシン、消費マシンに変形されつつある存在である。だとすれば、「時熟」や成熟の
契機は、外から
与えられることを求めるのではなく、私たち自身の内側に自覚的に求めていくほかはないのかもしれない。
14.(
黒崎政男「電脳社会で自己を保つ」による)
長文 8.4週
1. 【1】人間と動物との差異について思いをめぐらしているとき、いつもわたしの
脳裡にこびりついて
離れないひとつの情景がある。【2】それは未開人が
狩りにでかけるまえ、その
狩りの実りゆたかさを
祈ってか、
槍をたかだかとかざしつつ
焚火をかこんで
狂気のように
乱舞しているその
傍らに、一
匹のイヌが
不審そうに首をかしげつつそれを
眺めている――そうした情景、あるいはそれに類似した情景である。
2. 【3】ピアジェの理論によれば、
模倣と遊びとの発達は、感覚=運動的次元での調節と同化との
不均衡、
環境への不適応にもとづくものだとのことだったが、それではなぜ幼児は、もっと直接的に適応自体のために努力しないで、ほとんどすべての時間を
模倣や遊びの非現実的世界の形成に
傾注してしまっているのだろうか? 【4】これにたいして
彼は、つぎのように答えている――幼児が感覚=運動的次元の直接性を
超え、時間・空間の両面で拡大された物理的実在に、またますます複雑化してゆく社会的実在に面接するとき、もはや同化と調節との直接的な
均衡を実現することはできなくなり、【5】あるときは調節することなく同化に、またあるときは同化することなく調節に
赴いてしまうのであって、操作システムがあらわれてきたとき(七、八
歳ごろ)にのみ、この
不均衡は
克服されてはじめて
恒久的な
均衡が達成されるのである、と。【6】いちおう
尤もな理論ではあるが、しかし、これでは遊びが人間では成年に達してのちも末ながく、
牢固として残ってしまうこと(つまりネオテニー現象)の理由が、十分に説明されないようにおもわれる。【7】ほんとうは、人間には「
恒久的な
均衡」なぞあり得べくもないのであって、人間は存在そのものにおいて、ピアジェの楽天的な理論では
押えられないほど、
不均衡で不安定な存在なのではないか。【8】人間は自分では解決できないような課題をはじめから背負いこんでしまっていて、大人になっても真に適応することなぞできはしないのではないか。【9】「人間は遊ぶときにのみ、完全な人間である」というシラー∵の有名な言葉は、ほんとうはそのままただちに、「完全な人間とは、すなわち不完全な生物である」と、読みなおされねばならぬのではないのか。
3. 【0】ピアジェの理論成果をわたしたちのテーマにひきつけて
解釈しなおすとき、人間が人間固有の文化形成をおこなうその根のところには、
模倣と遊びとが存在する、より単純化して言えば――というのは、
模倣の真の完成たる
模倣のための
模倣、表象的
模倣は、そのまま同時に遊びの一種、
象徴的遊びでもあるのだから――遊びこそが存在する、ということになろう。なぜなら、
模倣と遊びこそが表象的次元を開くのであり、またその表象的次元の開幕を待ってはじめて人間文化がその
緒につくのであるからだ。その意味では、まことにJ・ホイジンハが言うとおり、文化の起源には遊びがあり、文化はその総体において遊び的性格をもち、人生とは一場の人間喜劇だ、とも言えるであろう。だが、ここでわたしたちは、ホイジンハのように早まってはならない。ここでいう遊びとは、なにも経験的な意味での遊びではないはずだからだ。もしも文化総体、人生総体が経験的意味での遊びだということになれば、論理必然的に、遊びと真面目仕事との経験的区別さえなくなってしまうであろう。そうではなくて、ここで問題になる遊びとは、経験的次元で遊びと同時に仕事をも可能にするもの、つまりは人間的経験
一般を可能にするものであり、そういうものとして、いわば
超越論的な遊び、ここであえてカントの用語を
藉りれば生産的想像力、ないしは先験的想像力とでも言うべきものである。この生産的想像力に裏から支えられて、わたしたちははじめて経験的次元で、人間としての遊びも仕事もともに営むことができるようになるのである。
4.(竹内
芳郎『文化の理論のために』)
長文 9.1週
1. 【1】自己の存在、この私が存在しているということは、あらゆる存在の可能性とまったく等価な事態である。それゆえまた、この私が存在していなければ、あらゆる事物のあらゆる存在者の存在ということがありえないだろう。【2】いま、可能的・現実的な存在の全体を「宇宙」と呼ぶことにしよう。自己の存在は宇宙の存在と同値なのだ。このことは、過激な独我論を導くことになる。自己というものが有するある種の
優越性、自己の自己
牲ということの究極の
根拠も、この独我論と同じところに由来する。
2. 【3】あらゆる事態(事物の特定の結びつき)は、知覚されたり、感覚されたり、予期されたり、想起されたり、判断されたり等々において存在している。知覚、感覚、予期、想起、判断等々のあらゆる心の働きを、ここでは志向作用と呼ぶ。【4】任意の志向作用は、何ものかに帰属するものとして、何ものかに担われたものとして発現する。志向作用が帰属する存在者が、身体である。したがって、可能的・現実的なあらゆる事態と事物が、身体に対して存在していることになる。ある事物や事態は、この私(と指示された身体)に直接に現前しているだろう。【5】しかし、ある事物、ある事態は、他者(他の身体)の志向作用の内に
捉えられているに
違いない。ところで、こういった他者を知覚したり、想像したりするのも再びこの私である。【6】つまり、他者は、この私に帰属する志向作用の内部にあるのだ。そうであるとすれば、あらゆる事物、あらゆる事態は、究極的には、この私に対するものとして、この私に帰属するものとして存在するほかない。【7】私の存在と宇宙の存在が等価であるのは、このような連関を認めることができるからである。自己とは、可能的・現実的な事態を
捉える志向作用の究極の帰属によって定義される身体のことである。【8】だから、自己の絶対的な特権性は
避けがたい結論である。
3. 自己と宇宙とが等価的な存在であるということは、「原理的にはどのような志向作用によっても自己(この私)は積極的に主題化されることがない」ということを意味している。【9】たとえば
ヴィトゲンシュタインは、「私は歯が痛い(私は歯痛をもっている)Ich habe Zahnschmerzen」とか「私は考えている I think」と言うべきではなく、非
人称の主語を使って「歯痛がある Es gibtZahnschmerzen」とか「考えが生じている(それが考えている)It thinks」と言うべきだ、と主張している。【0】歯痛や思考が生起しているとき、直接には、歯痛や思考を所有する私自身という観念はど∵こにも現れてはいない。われわれは生において事態を
捉える心的印象(歯痛や思考)の
継起を体験するが、そのどこにもそれらの印象を所有する「私自身」は立ち現れることはない。事態を
捉える任意の志向作用が究極的には自己に帰属しているとするならば、痛みや思考が「私」(自己)に所有されている、と主張することは、
過剰な(不必要な)規定なのである。「痛み」は、「自己に帰属している」ということ、「この私に持たれている」ということをはじめから
含んでおり、まさにそれゆえに「私が痛みを所有している」と言うべきではないのである。そのような言明は、私が所有しないことも可能な「痛み」の存在を
含意してしまうからだ。
4. ここから、「心を所有する、この私ではない身体」の存在、すなわち他者の存在は、否定されるように思われる。他者が存在するということは、たとえば、他者が、私と同様に「痛み」を所有するということである。「他者の痛み」とは、通常、「私のとほぼ同じだが、私ではなく他者に所有されている痛み」であると考えられている。つまり、「他者の痛み」は、「私が所有する痛み」をモデルにした類推によって得られるとされているのだ。しかし、
ヴィトゲンシュタインによれば、このような類推は不可能である。私に所有されない(私に帰属しない)痛みはもはや「痛み」ではありえないからだ。こうして、われわれは一種の独我論に
到達せざるをえない。
5. しかし、このような独我論は、自らをまさに独我論として主張することを原理的に
封じられている。すでに述べたように、志向作用が帰属する「この私」(自己)の存在を、積極的に主題化することはできないからだ。さらに言えば、そもそも、この独我論に
立脚するならば、ちょうど私が他者の痛みを類推することが不可能であるように、原理的に、他者は私の志向内容を理解することができないのだ。それは
沈黙におして示されるしかないような独我論である。
6.(
大澤真幸「他者・関係・コミュニケーション」)
長文 9.2週
1. 【1】日本の伝統的な身体文化を一言でいうならば、「
腰肚文化」ということになるのではないかと私は考える。現在の八〇代九〇代の人たちと話していると、
腰や
肚を使った表現が数多く出てくる。
2. 【2】「
腰を
据える」「
肚を決める」などは基本
語彙である。「昔は
肚のできている人が仕事を任せられる人だった」という言葉も九〇代の男性から聞いた。ここで言われている
腰や
肚は、精神的なこともふくんではいるが、その
基盤には
腰や
肚の身体感覚が実際にある。【3】「
腰を
据える」や「
肚を決める」は、人間ならば生まれつき
誰でもがもっているという感覚ではなく、文化によって身につけられる身体感覚である。
腰と
肚の身体感覚が、数ある身体感覚の中でもとりわけ強調されることによって、からだの「中心感覚」が明確にされるのである。
3. 【4】「現在の日本で、カラダに何が起こっているか」という問いに一言で答えるならば、「中心感覚」が失われているということになるのではないだろうか。自分の中にしっかりとした中心を感じることのできる人の割合は、かつてよりも相当減っている。【5】この感覚は、「
芯が通っている」「
芯が強い」という表現のニュアンスを活かすならは、「
芯感覚」と呼ぶこともできよう。
4. 【6】
腰や
肚を強調していた時代には、身体の中心感覚を常に意識することをもとめられていた。子どものころから
腰が入っていなければ
馬鹿にされるという慣習があり、しっかりした中心感覚をつくりあげることが明確な課題となっていた。【7】「
腰抜け」「
へっぴり腰」「
腰くだけ」「および
腰」「
逃げ腰」「
弱腰」「
肚がない」「
肚が決まらない」「
腑抜け」などは、身体に中心感覚あるいは中心
軸の感覚ができていないことに関する厳しい批判の言葉である。【8】こうした表現は、日常的に
頻繁に用いられ、中心感覚を
鍛える役割を果たしていた。
5.
腰や
肚ができているかどうかは、たんに身体の中心感覚だけではなく、心の
揺るがなさをも
含んでいる。【9】当時の人びとにとって∵は、心とからだは
切り離すことのできないものであった。
へっぴり腰でありながらも、
揺るがないしっかりとした心をもっているというようには考えられなかった。【0】現実には、身心はそのように単純に重ね合わせて考えることはできないものかもしれないが、あえてそのように重ね合わせることによって、身心の教育、文化の伝承が同時になされる効率のよさがあった。
6.
腰と
肚が決まっていれば背骨はその上に正しく
据えられることになり、背筋は自然と
伸びる。
腰の構えが
崩れているときに無理に背骨を垂直にしようとしても
湾曲してしまう。背骨が中心
軸の感覚の基本であるとすれば、中心
軸の感覚は
腰の構えのつくり方に大きくかかっている。
7. 「明治の人は一本筋が通っていた」ということがしばしば言われる。これは精神的な意味では善悪の基準がはっきりとしていたということや強い意志の力を意味すると同時に、からだの側面で言えば「
腰を立てる」ことができていたことを意味する。「
腰を立てる」感覚は現在あまり強調されることがないが、幕末・明治期の写真を見るとわかるように、当時は基本的な技であった。
8. ここで重要なのは、「身体感覚の技化」ということである。身体感覚は、通常は何かの
刺激に対して反応する一回性のものだと考えられがちである。しかし、身体感覚も文化的なものであり、習慣によって形成されるものである。
腰や
肚に関する感覚はその典型であり、生活の中で何度も訓練され、身につけられた一つの技である。(中略)
9. 身体感覚は、気持ちよさを感じる方向へ身体を解放するという文脈で語られることが多い。この文脈では、身体感覚は訓練されたり技にされるものではない。しかし、「身体感覚を技化する」という考え方をすることによって一回一回の身体感覚に流れていくのではない方向性が見えてくる。身体感覚が技となって身につくことで、よりたしかな
充実感が得られる可能性が生まれるのである。
10.(「身体感覚を
取り戻す」(
斎藤孝)より)
長文 9.3週
1. 【1】地球規模で自然
環境が危機に
瀕している現代にあって、地球
環境問題は、国境を
超えた
広範な地域で考えられねばならない問題である。その原因は個人や
企業、街や地域などの
環境負荷の総和から成り立っている。【2】つまりすべての自然
環境問題には人間が
関与しているのであって、その背景には
環境の保全と育成を
怠った人間優先の姿勢がうかがわれる。この反省のもとに、近年とくに地球の生態系に目を向けた取り組みが急速な勢いで高まりをみせている。
2. 【3】人間中心主義による
環境破壊を反省し、「他者」としての自然を修復し育てるための活動が、現在のエコ活動の本論となっている。そしてここでもまた人類総体として、グローバルな見地から
巨大な
貢献心が発動され、地球規模での自然
環境を「他者」とする種々な取り組みが進められている。【4】ところが現実に進行しているエコ活動のなかには、本来の
貢献活動から考えると意味を異にする内容があるような気がしてならない。
貢献心の視点からこれらの問題点を考えてみよう。
3. 【5】たとえば有限な資源である化石資源(石油や石炭)を守ることは持続的な経済にとって大切なことである。他方、
代替エネルギーとして開発が進められている原子力発電には、
環境上の深刻な問題が
取り沙汰されている。【6】またオゾン層を
破壊する原因として、フロンガスの
影響がクローズアップされ、さらに新たに開発された物質については、もっと強い温室効果が
囁かれている。
4. 【7】それだけではない。人口
爆発が
指摘されるアフリカや東南アジア地域の
食糧確保の問題は深刻だ。最大の
食糧輸出国である米国では世界の
食糧事情を改善させるという名目で、無制限な大規模農法を行った結果、地下水脈を
枯渇させて、
土壌の悪化に
拍車をかけてしまった。【8】たとえば米国中部にある広大なプレイリー地域の生態系に起きた異変は、大規模農法による
弊害とされ、
枯渇してしまった水脈を修復するには何万年という自然放置期間が必要とさ∵れるといわれている。
5. 【9】これらの例に見るように、人間が自然を利用して何らかの問題に取り組もうとして開発した方法が、次々と新たな自然
破壊をもたらすといった
悪循環が
指摘されているのである。
6. 【0】そこには人間中心の開発主義があった。つまり人間が必要とする活動によって自然
環境がダメージを受け、その結果、不都合なことが起きたから、今度はエコ活動を進めて、人間にとって都合のよいものに開発していこうとする考え方である。
7. さて、ここで見えてくるエコ活動には、私が言う
貢献心はまったく示されていない。なぜなら人間が「自然」のためにとの名目で、実は「自分」のために行う
行為に、他者である自然に向けての「
貢献」の意識は欠落しているからだ。その実態はむしろ「エコ」ではなく「エゴ」である。
8. たとえ手前勝手でも、自然
環境について考えたり、またみずみずしい自然を回復したいと願う自然な動機は
間違ってはいない。ただしそんな
純粋な動機でさえ、あまりにも特定の自然に集中していると、ふと気がつくと自分勝手なものに
陥って、自然を
破壊してしまう方向に向かってしまう。このような動きに私たちは
監視の目を
怠ってはならない。そのため現在のエコ活動にある発想をもう一度検証してみる必要性はないだろうか。
9. 現在、G7や
環境サミットなど、世界のトップが集まって提起されるグローバルな宣言についても、やはり「これからは人間中心の発想で問題を解決する」といった方向性が示されているが、私にはそう簡単には受け止めがたい。なぜなら、そこには
依然として「人間中心」といった発想に
含まれる「開発至上主義」的なニュアンスに歯止めがかけられてはいないように思われるからだ。実は、この「人間中心主義」こそ、人類を「開発至上主義」に向かわせたそのものの原因となったからである。
10.(
滝久雄「
貢献する気持ち」による)
長文 9.4週
1. 【1】近年の思想界において著しく目に立つのは、知識の客観性というものが重んぜられなくなったことであると思う。始から
或目的のために、成心を以て組み立てられたような議論が多い。【2】従って他の論説、特に自己の考に反する論説を十分に理解し、しかる後これを
是非するというのではなくして、
徒らに他の論説の
一端を
捉えてこれを非議するに過ぎない、自己批評というものは極めて
乏しい。【3】単なる独断的信念とか、他の学説を
丸呑みにしたものが多い。私は
或動物学者から聞いたことであるが、ダーウィンの『種の起原』という書物は極めて読みづらいものである。【4】その故はダーウィンという人は、自己の主張に反したような例を非常に
沢山挙げる。読み行く
中にダーウィン自身の主張が分らなくなる位だというのである。私はこういう話を聞いて、非常にダーウィンという人に敬服した。【5】
苟も学問に従事するものは、こういう心
掛がなければならぬ、こういう誠実さがなければならぬ。知識の客観性といっても、私は
或一時代に真理と考えられたものが、永遠不変だというのではない。【6】知識の客観性というのは、そういうことを意味するのではない。何千年来自明の真理と考えられたユークリッドの公理すら、自明でなくなった。しかしそれは単に変ったのではない。【7】ユークリッド
幾何学が一層
一般的な
幾何学の一つの場合となったのである。今日の新物理学に対して、ニュートンの物理学でもそうである。数学は数学として、物理学は物理学として、それ自身の客観性を
有っているのである。【8】
哲学とか精神科学とかいうものは、数学とか自然科学という
如きものと異って、各時代の社会的構造に支配せられるということは
免れないであろう。しかしそれでも、それらのものも、単に変ずるものではない。【9】単にその時代の
或目的以外に、何らの意味を
有たないものではない。それが学問的真理と考えられるかぎり、それぞれの立場において永遠なるものに
触れるということがなければならない。【0】
如何なる時代に
如何なる哲学的学問が発展したかということは、歴史的・社会的に説明せられるかも知らない。しかしその内容は単なる物質的存在から説明せられる∵のではない。すべて歴史的・社会的存在と考えられるものは、
如何に物質的と考えられるものであっても、それは精神的内容を
有ったものでなければならない、
即ち表現的でなければならない。かかるものの内容が永遠化せられるだけ、それだけ文化というものが成立するのである。下部構造の変ずるに従って上部構造が変じ行くとしても、その意義内容は単に経済的構造の意義内容から説明することはできない。そしてその意義内容の独自性というものなくして、文化的存在というものはない。文化内容というものがそれ自身の独自性を有せないで、単なる階級的イデオロギーに過ぎないとするならば、文化的存在というものはないというと同様でなければならない。意識というものが単に映すものであって、それ自身に何らの独自性というものがないとすれば、要するに、それは無と
択ぶ所はない、人間は単に身体というものに帰するの外はない。これに反し物質的なるものから意識的なるものが出ると考えるならば、物質と考えられるものは
既にそれを生む性質を
有ったものでなければならぬ。単に自然科学的に考えられる物質というものから意識が出るとはいわれない。弁証法的物質というなら、弁証法的物質とは
如何なるものなるかが
根柢的に究明せられねばならない。
脳髄というものが意識の基と考えられるには、その
脳髄というものが単なる物質的実在という
如きものではなくして、
既に自己自身を表現的に限定するものでなければならない、歴史的事物の性質を
有ったものでなければならない。しかしてそういう意味の
脳髄というものを考えるというのは、
既に実在そのものに意識の起源的なものを認めることでなければならない。
2. 政治上の目的のために学問が作られるのでなく、学問はいつでも批評的指導的立場に立つものでなければならない。しかして学問がそういう役目を果すには、学問というものは何処までも客観的ということを理想とせなければならない、何処までも深い広い理論的
基礎の上に立てられなければならない。
3.(西田
幾多郎「知識の客観性」)