プラタナス の山 11 月 1 週 (5)
★例えば市町村で(感)   池新  
 【1】例えば市町村で残酷な仕打ちをしている地方警察の暴力行為のようなものから、IMF(国際通貨基金)やG7、世界銀行といった総合的な中枢機構に至る、政治を操って、社会の基本的政策を決定する組織まで。【2】まず大切なことはそういう組織が存在しているということを認識し、そしてそれらと戦うということさ。――レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン「機械に抗する怒り」とでも訳すことのできる、このロックバンドは、たかだかまだ二枚のアルバムをリリースしたにすぎない。【3】だが、彼らは文字通り、怒りを発し続けているバンドである。アメリカン・インディアンの男性で、FBIの捜査官を殺害した容疑で長期拘留されているレナード・ぺルティエや、【4】元ブラック・パンサーのメンバーで黒人ジャーナリストのマミア・アブジャーマルの解放のために活動し、ネオナチ反対のコンサートを開いたり、あるいは、コンサート会場で売られる高すぎるTシャツに抗議し、検閲制度にプロテストしたりもする。【5】ただやみくもに抗議しているだけではないか、と言うのならば、その通りと答えなければならぬかもしれない。【6】あらゆる権力、あらゆる制度に対して否定の行動を起こすことこそロックであるとする、書いていて思わず赤面するほどの古くさいロックの定義を今でも信じているバンドにすぎないのではないか、と言われれば、彼らがある意味でストレートすぎるほどの政治的なメッセージを隠そうとしないハードロックバンドであることは認めなければならないだろう。
 【7】だが彼らにはアクチュアリティがある。
 アメリカやヨーロッパの社会が抱える諸問題のうち、主として若者層の病巣と考えられる幾つかの問題に対して、彼らはその切迫した事態を正確に感受している。【8】そして事態に抗議する歌詞を書き、轟音の中に挿入し、アルバムをリリースするという戦略を実践しているのである。事実、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンほど戦略的なバンドはいない。【9】それはあらゆる文化は政治的であるというテーゼを、強く彼らが信じているからである。「文化そのものが政治的だということを否定しないということは、とても重要なことだと思う」と彼らは語っている【0】自分たちの音楽それ自体∵がすでに一個の政治であり、抗議する対象もまた政治である。ここで私たちが注目しなければならないのは、戦う相手である政治が、「機械」と名指されていることだ。バンド名は虚飾ではない。権力の末端で起こる暴力から、権力の中枢神経である総合的な組織化まで、すべてが「機械」と呼ばれているのである。ここでの「機械」は国家と等号で結ばれる存在ではない。そうした枠組みでは捉えられぬ、私たちの首をじわじわと締めつける、ごく具体的であり、同時に、捉えどころのない途方もない拡がりを待った存在こそが、「機械」と名づけられている。(中略)
 ちょうど百年前になる。ヴァレリーは一九世紀末、こんなことを書いている。「方法」が制覇するのだ、と。方法は、個人の自由な裁量権の及ぶ範囲を狭めてゆく。いや、その範囲を限りなくゼロに近づけてゆくことこそが、「方法」の理想なのである。(中略)
 「方法」は誰にとっても反復可能なものであり、いかなる人間でもその「方法」さえ用いれば、同一の結果に到達する。このとき「方法」を用いる側の個体性も、破壊される。優秀な人間の施す術が、優秀な結論を招来するという、神話が崩壊するのである。英雄と呼ぶに相応しい大文字の個人などいなくなり、均質化した個人だけがまるで砂漠の砂のようにあらゆる領域を埋め尽くすような事態――。「模倣可能なものだけ模倣されれば凡庸な後継者の手段を増やすだけ」のものが、方法としてそこにあり、次第に世界はこうした「方法」に制覇されることになるだろう、とヴァレリーは予言していた。(中略)ここで語られる「方法」は、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンが語っていた「機械」と同じである、と私は思う。あらゆる機構の細部にまで浸透し切った「機械」こそが、私たちから個体性を剥奪する「方法」にほかならない。

(陣()野後史「機械に憑かれ、そして抗する」)