長文 11.2週
1. 【1】私は長いこと京都に住んで毎日のように道で僧侶そうりょと出会ったし、時には寺院をおとずれて、そこに住む僧職そうしょくの方と対面することも多かったが、どのお顔もなべて、迷いも悩みなや も知らぬ(と見える)平穏へいおん無事な、ふっくらとしたお顔ばかりであるのが、昔から不思議に思われてしかたがなかった。【2】僧服そうふくをまとう身とあれば、日々これ仏法、「日々これ好日」、さればこそこのような満ち足りたお顔がそろうことになるのだろうか。
2. 【3】しかし私からすると、そうという身分であることほど怖いこわ ことはない。臨済和尚おしょうは、「自分を救う者は自分のほかにはない」と言ったが、一個の人間が僧服そうふくをまとう身になることを決断するに当たっては、まず他者への救済者として自立できるより前に、それに先立つ自分自らの始末がつけられているはずである。【4】あるいはそうとなることそのことによって、自らの在りかたに決着をつけようとする覚悟かくごあってのことであるはずだと思われる。それなのに、あののびやかな、時には堂々と俗臭ぞくしゅう漂わただよ せたお顔は、一体どういうことなのであろう。
3. 【5】思うに、現代日本の僧侶そうりょは、ほとんど例外なく、宗教者・求道者たることを自らの天職として選び取ったという人びとではなく、いわば職業人として僧職そうしょくに就くことを他律的に条件づけられてそうなったという人びとが大半を占めるし  であろう。【6】そして、ひとたび僧衣そういをまとい、そうの座に坐るすわ ことになると、そうたることのステータスそのものがその人を安住させ定着させることになって、自らを突き放しつ はな て見すえる眼も心も失われてゆく、という成りゆきになるのではなかろうか。【7】まして、その人がる宗門や教団のなかで一つの職位に就くことにでもなれば、その地位自体がその人の護符ごふとなって、安定度はいよいよ高まり、その風格はいよいよ板につき、その説法もいよいよ堂に入った巧みたく さを加えるであろう。【8】そして、それと反比例して、自らを一個の人間に戻しもど 、その裸身らしんを改めて見つめ直すという宗教者としての基本的な心構えは、きりのように消えてゆくであろう。∵
4. 【9】このことのおそろしさを、私はかつて旧制中学の教師だった時に身に沁みし て体験した。赴任ふにんしてから一週間たって気がついたことは、教員室の空気の退廃たいはいであった。【0】彼らかれ 教師たちの話題の下劣げれつさと、それに引きかえての高慢こうまんなエリート意識、そしてかげにこもった個人や派閥はばつの間の反目などなど……。これは大きなショックだった。そして、なぜこうなのだろうと考えてみた。ハタと思い当たったのは、教師たちが日ごろ相手にしているのが、自分たちよりも年齢ねんれいの低い生徒たちばかりであるという環境かんきょうそのものにその理由がありそうだということだった。そう思い当たって、私は背すじがぞっとする思いだった。幼い子を相手に同じことを教えてばかりいると、自分自身の勉強はおろそかになるばかりか、自分の今の在りようや生き方を省みるということもしなくなる。それをしなくても、教師という職業は結構つとまるからである。こんな怖いこわ ことはない。見回したところ、「背に負うた子に教えられる」といった初心を忘れずにいそうな教師は、一人も見当たらない。みんな教室での教え方は堂に入ったその道のベテラン教師ばかりである。しかし、その人たちの世間話のなんと低劣ていれつなことか。これでは、長く教師をつとめたら、人間の成長は止まってしまうこと必定ひつじょうだと、私は思い知った。そして三年で退職してしまった。
5. およそ人間として成長するためには、絶えず現在の自分の生き方を恥じるは  ことが必要であろう。自らを恥じるは  とは、自らを客観視する別の眼をもち得ることである。現在の環境かんきょう埋没まいぼつすることなく、つまり現在の職業や地位にこし据えす てしまうことなしに、自分の新たな可能性を絶えず開拓かいたくしようとする気魄きはくをもち続けること、このことこそが、およそ道を求める者の――社会人たると宗教者たるとを問わず――もっとも基本的な要件であろう。まして人に向かって法を説き、ひとかどの救済者として自立するほどの人であれば、なおさら、自らをその道の完成者として完結させてしまってはならぬはずである。もし、いささかでも自己完成者としての意識が残っていたら、その人はすでに救済者たる資格はない。しかし、この痛切なディレンマを乗り越えるの こ  ための苦悩くのうを知らぬ説法者が、今は余りにも多い。 (入矢義高「人を救うということ」)