長文 12.3週
1. 【1】誰かだれ がいつか、こんなことを言っていた。神経が苛立っいらだ 眠れねむ ない時があるが、これは神経の疲労ひろうが肉体の疲労ひろうとのバランスを欠いて、独自に進行してしまった結果である。【2】従ってこうした場合は、縄跳びなわと を数回行って、肉体の疲労ひろうを神経のそれと同程度になるまで高めればいい。それぞれの疲労ひろうのバランスがとれれば、人は眠れるねむ  のである。
2. 【3】いささか論理が明確に過ぎて、その分だけ何となく危うい気がしないでもないが、しかしこの論理の組み立て方には魅力みりょくがある。何よりも、神経の疲労ひろうそれ自体を静めようとするのではなく、肉体の疲労ひろうをそれに見合うべく高めようとする点が独特であり、そこに行動的であり、しかも積極的な姿勢がうかがわれるのである。【4】そして事実私は、同様の症状しょうじょう陥るおちい たびにこの考え方を応用して実行し、もし私の錯覚さっかくでなければ、言われている通りの効果をあげることが出来た。
3. 【5】かつて私は、ホンダの五〇CCのカブ・原動機付自転車を愛用していたが、これに長時間乗った場合、必ずこうした症状しょうじょう陥っおちい た。 【6】原動機付自転車というのは、人間の筋力による走行速度を、ガソリン・エンジンに置き換えお か 促進そくしんするための最も原始的な装置であり、それとこれとの置き換えお か を実感するためには、最も効果的な道具なのだが、それだけに、こうした症状しょうじょう陥るおちい 事情も、論理的に説明しやすいということがある。
4. 【7】もちろんこれもまた、論理が明確に過ぎて、自分自身ほとんどはにかまざるを得ないほどであるが、つまりこの場合、私の「肉体」はただ、震動しんどうする小さなガソリン・エンジンにしがみついているだけだが、「神経」の方は、その同じ距離きょりと時間を省略することなく体験しつくすのであり、従ってそのそれぞれの疲労ひろうのバランスは、大きく喰いく 違っちが てくるはずだ、というわけである。【8】「神経」の疲労ひろうのみが独自に進行してしまって、私は苛立ちいらだ 眠れねむ なくなる。
5. そこで私は、長時間原動機付自転車に乗った日は必ず、家に入る∵前にその場で体操をしたり、家の周囲を暫くしばら 走ったりして、「肉体」を酷使こくしし、疲労ひろうのバランスをとるよう努めた。【9】そうすることによって私は、その夜の「安眠あんみん」を、勝ちとってきたのである。【0】(中略)
6. 私は、私自身が原動機付自転車に乗っていた当時の体験に即しそく て、ここまで考えてみた結果、冒頭ぼうとう掲げかか た考え方を、ほぼ「あり得ること」として、認めることにした。「神経」と「肉体」という言い方が、厳密に考えようとするとややあいまいであるが、かれがその言葉で、我々の内なる何を言い当てようとしつつあるかは、容易に想像がつくのである。つまりここでは、そのそれぞれのものが、乖離かいりして世界を体験し、従って乖離かいりしたままそれぞれ別レベルの疲労ひろうを課せられ、そのバランスが崩れくず つつある点に、問題があると言っているのだ。(中略)
7. 私はるジャーナリストが、ケネディ暗殺事件を報道するテレビ画像を見て、「ここには何も映し出されていない」と言ったのを覚えている。かれは、かれが実際にその場に居合せたことのある暗殺事件の現場を想起しながら、「そこには確かに、人々を恐怖きょうふさせ、吐き気は け催さもよお せる何ものかがあったのだが、ここには何もない」ということを言っているのだ。そしてこのことは、私が距離きょりを、歩いたり走ったりするのでなく原動機付自転車で通り抜けとお ぬ てしまったことにより抱かいだ ざるを得なかったことと、同様のものであったような気がする。
8. この手応えのない世界への不安が我々の内に潜在せんざいし、その焦燥しょうそう感が、勢い手応えのあるものに向って、やみくもに発散されようとするのだ。

9.(別役実「イロニーとしての身体性」による)