長文 10.1週
1. 【1】「努力すれば報われる」と、私たちは教わって育ってきた。しかし、子供の学力と親の収入が相関しているなどという調査を見ると、努力する以前にスタートの地点が
違っているというケースも、世の中にはかなりあるのではないかと思えてくる。【2】もし、そういう
歪みが社会にあるとすれば、それは世代を経るごとに再生産され、やがて生まれつき銀のスプーンをくわえた
恵まれた少数のグループと、単に指をくわえただけの多数のグループとに、社会ははっきりと色分けされるようになるだろう。【3】私たちは、機会における均等を保証する社会を作らなければならない。
2. そのための方法は、第一に、競争の条件をそのつど新たに決め直す仕組みを作ることだ。【4】自由競争という言葉は
響きがいいが、自由な競争はやがて、力の強いものがますます強く、力の弱いものがますます弱くなるような
偏りを生み出す。そのため、自由競争は往々にして
独占のもとでの不自由な競争となることがある。【5】政治家の
世襲が日本では問題になっているが、これは、
後援会という
地盤を
引き継ぐ自由を認めることが、他の候補者の参入を
阻む不自由な競争を生み出す結果につながることを示している。
3. 【6】第二には、機会の均等を求めることが、結果の平等を要求するところにまでつながらないように、私たちが節度を守ることである。
企業家精神に
溢れた少数の人間と、そうでない多数の人間がいて、多数決で物事を決めようとすれば、社会は多数の利益を保障する方向へと流れがちだ。【7】努力や工夫をする人と、努力も工夫もしない人が、同じ給料しかもらえないのであれば、働く基準は自然に低い方に合うようになる。このことは、かつての社会主義国の経済運営や、現代でもお役所仕事という形で
既に経験済みだ。
4. 【8】確かに、安定した社会の条件として、個人の努力を要求する前に、最低限のセーフティーネットというものは必要だ。しかし、それはあくまでも老人や病人などという弱者に対しての安全
網であって、社会の中心はあくまでも自由な競争の上に成り立つものでなければならない。【9】自由競争の中でだれもがチャンスを生かせるようになるためには、個人の意志とともに、社会がチャンスを均等に用意していることが必要だ。「努力すれば報われる」社会もまた、私たちの努力によって作られるのである。【0】∵
5. (言葉の森長文作成委員会 Σ)
長文 10.2週
1. 【1】効力感は、ただ自分の努力によって好ましい変化をひきおこすことができた、というだけでは
伸びていくものではない。これこそ自分のしたいことだと思える活動や達成を選び、そこでの自己向上が実感されて、はじめて真の効力感は
獲得されるからだ。【2】これに対して親は、いったいどんな手助けができるだろうか。じつはこれもそんなにむずかしいこととは思えない。ホワイトが正しく
指摘したように、高等動物は本来、
環境に能動的に働きかけ、みずからの有能さを
伸ばそうとする
傾向をもつ。【3】管理社会から自由で、また無気力に
汚染されていない子どもでは、この
傾向はおおいにあてにできるからである。
2. 自然な生活のなかで、子どもはきわめて多くの望ましい特性を発達させていく。【4】効力感を
伸ばすというと、何か特別なことをしなければならないかのように思うかもしれないが、じつは子どもの生活のなかには効力感を
伸ばすのにかっこうの題材がたえずころがっているのである。
3. 【5】熟達を例にとってみよう。熟達をとおして子どもは自分の努力の意味を知り、そしてまた、その努力を自分にとって意味のある分野に向けることを学んでいくだろう。しかし、生活のなかでの熟達は決して訓練という形をとらない。【6】子どもの側が興味をもって取り組みたがるさまざまな熟達の機会があるのだ。
4. たとえば、子どもが、「自転車に乗りたい」といいだしたとしよう。親はまず、「三輪車にしなさい」というだろう。【7】ところが、三輪車でしばらく満足していた子どもが、そのうちどうしても自転車にしたいといいだすようになる。「自転車でないとスピードがでない」「自転車でなければ友だちと
一緒に走れない」などということもあるだろう。【8】しかし、最大の理由は、三輪車は安全すぎ、やさしすぎるのでつまらない、ということである。自転車を要求する子どもに
押されて、親は
転倒することをおそれながらも、補助輪をつけるという条件でしぶしぶこれを認める。【9】子どもはしばらく補助輪をつけて自転車に乗っているが、そのうちに必ず補助輪をはずせといってくる。その理由は、ただみっともない、ということではない。むしろ、補助輪があったのでは、やさしすぎてつまらない、ということである。【0】このように、子どもの技能が
繰り返しによって進歩していくと、子どもは、いわば、内発的によりむずかしい課∵題に興味をもつようになる。条件さえととのえれば、あとは放っておいても熟達するものだ、とさえいえるかもしれない。気をつけなければならないのは、親がむしろこれにブレーキをかける役をしてしまいがちなことだ。
5. もうひとつ重要なのは、子どもの生活のなかには、さまざまな熟達のお手本があるということだ。二本足で歩くといった単純なことでさえ、お手本がなければ、やってみようとする気にもならなかったかもしれない。
狼に育てられて大きくなった子どもが二本足で歩行しなかった、というのは有名な話である。
6. お手本がなかったとしたら、親は子どもに教えること、訓練することで毎日を
忙しくすごさざるをえないだろう。ところが、子どもが自然に暮らしているなかで、
彼らはさまざまな熟達のお手本に出会い、そのなかから自分の発達の水準と生活の必要性からいって適切と考えられる課題を、みずから選びとっていくのである。(中略)
7. 親が注意すべきことといえば、何よりもまず
賞罰によって子どもの行動をコントロールしすぎないということであろう。もちろん、効力感を
伸ばすという以外の目的のために、
賞罰にたよらざるをえない場面があることは確かだ。しかし、そうだからといって、すべてのしつけや教育を
賞罰にたよって
押しとおそうとすると、効力感を
伸ばすことはまず無理になる。できるだけ子どもの
探索や発見を
奨励し、子どもなりの知識の体系や価値観が形成され、さらにそれが自覚化されていくのを期待するようにすべきだろう。親の関わり方は、子どもが次にやるべきことを指示したり、賞めたり
叱ったりといった形ではなく、むしろ子どもの活動や自己向上が
促進されるように
環境条件をととのえてやるとともに、子どもの内部にある知識や価値基準を
明瞭化し、それが子どもの行動を導くものになるのを助けるという形で行なわれるべきだろう。
8. (波多野
誼余夫、
稲垣佳世子「無気力の心理学――やりがいの条件」より一部改変)
長文 10.3週
1. 【1】大人になって毎日同じようなことを
繰り返していると、あまり「ふしぎ」なことはなくなってくる。何もかもわかったような気になると、今度は面白くなくなってきて、「ふしぎ」なことを提供してくれるテレビ番組や
催しものなどを見る。【2】これらは必ず「ふしぎ」なことが最後には心に収まるようになっているので、少しの間心をときめかして、後は安心、ということになる。
2. 【3】子どもは「ふしぎ」と思う事に対して、大人から教えてもらうことによって知識を吸収していくが、時に自分なりに「ふしぎ」な事に対して自分なりの説明を考えつくときもある。【4】子どもが「なぜ」ときいたとき、すぐに答えず、「なぜでしょうね」と問い返すと、面白い答えが子どもの側から出てくることもある。
3. 「お母さん、せみは、なぜミンミン鳴いてばかりいるの」と子どもがたずねる。【5】「なぜ、鳴いているんでしょうね」と母親が応じると、「お母さん、お母さんと言って、せみが呼んでいるんだね」と子どもが答える。そして、自分の答えに満足して再度質問しない。これは、子どもが自分で「説明」を考えたのだろうか。
4. 【6】それは単なる外的な「説明」だけではなく、何かあると「お母さん」と呼びたくなる自分の気持ちもそこに
込められているのではなかろうか。だからこそ、子どもは自分の答えに「納得」したのではなかろうか。【7】そのときに、母親が「なぜって、せみはミンミンと鳴くものですよ」とか、「せみは鳴くのが仕事なのよ」とか、答えたとしても「納得」はしなかったであろう。たとい、せみの鳴き声はどうして出てくるかについて「正しい」知識を供給しても、同じことだったろう。【8】そのときに、その子にとって納得のいく答えというものがある。
5. 「そのときに、その人にとって納得がいく」答えは、「物語」になるのではなかろうか。せみの声を聞いて、「せみがお母さん、お母さんと呼んでいる」というのは、すでに物語になっている。【9】外的な現象と、子どもの心のなかに生じることがひとつになって、物語に
結晶している。
6. 人類は言語を用いはじめた最初から物語ることをはじめたのではないだろうか。短い言語でも、それは人間の体験した「ふしぎ」、「おどろき」などを心に収めるために用いられたであろう。
7. 【0】古代ギリシャの時代に、人々は太陽が熱をもった球体であることを知っていた。しかしそれと同時に、
彼らは太陽を四頭立ての金の馬車に乗った
英雄として、それを語った。これはどうしてだろう。夜の
闇を破って出現して来る太陽の姿を見たときの
彼らの体∵験、その存在のなかに生じる感動、それらを表現するのには、太陽を黄金の馬車に乗った
英雄として物語ることが、はるかにふさわしかったからである。
8. かくて、各部族や民族は、「いかにしてわれわれはここに存在するのか」という、人間にとって根本的な「ふしぎ」に答えるものとしての物語、すなわち神話をもつようになった。それは単に「ふしぎ」を説明するなどというものではなく、存在全体にかかわるものとして、その存在を深め、豊かにする役割をもつものであった。
9.ところが、そのような「神話」を現象の「説明」として見るとどうなるだろう。確かに
英雄が夜毎に
怪物と戦い、それに勝利して朝になると立ち現われてくるという話は、ある程度、太陽についての「ふしぎ」を納得させてくれるが、そのすべての現象について説明するのには都合が悪いことも明らかになってきた。たとえば、せみの鳴くのを「お母さんと呼んでいる」として、しばらく納得できるにしても、しだいにそれでは都合の悪いことがでてくる。
10. そこで、現象を「説明」するための話は、なるべく人間の内的世界をかかわらせない方が、正確になることに人間がだんだん気がつきはじめた。そして、その
傾向の最たるものとして、「自然科学」が生まれてくる。「ふしぎ」な現象を説明するとき、その現象を人間から
切り離したものとして観察し、そこに話をつくる。
11. このような「自然科学」の方法は、ニュートンが試みたように、「ふしぎ」の説明として
普遍的な話(つまり、物理学の法則)を生み出してくる。これがどれほど強力であるかは、周知のとおり現代のテクノロジーの発展がそれを示している。これがあまりに素晴らしいので、近代人は「神話」を
嫌い、自然科学によって世界を見ることに心をつくしすぎた。これは外的現象の理解に大いに役立つ。しかし、神話をまったく
放棄すると、自分の心のなかのことや、自分と世界とのかかわりが無視されたことになる。
12. (河合
隼雄「物語とふしぎ」による)
長文 10.4週
1. 「差別」や「平等」という言い方は、一種の序列構造を前提にしている。自然数のように、大小の順番がつけられるという性質を「順序関係」と呼ぶが、「差別」の対義語として「平等」を
措定する思想的態度は、順序関係という写像への
信奉によって非常に強く条件づけられている。
2. 「差異は上下という関係に写像される」という世界観の下では、できるだけその差異を
隠蔽して、均質なものとみなそうという動機づけが生まれる。そこに立ち現れるのは、世界が
お互いに
比較などできない多様なものによって構成されているという
豊潤さへの感謝ではなく、むしろすべてを中央集権的に価値づけようという「神の視点」につながる野望である。(略)
3. 差別語とされる言葉をことさら使う人は品性
下劣であるが(とくに相手が
嫌がる場合には、あえてそのような言葉を使う必要はないと思う)、その一方で思想警察のごとき
極端な「差別語
狩り」には、以前から
違和感を持っていた。その根本的な理由は、以上述べたような、差別をことさらに
隠蔽しようとする思想の背後にある、画一的なメンタリティにある。
4. 世界には
魑魅魍魎のごとき実に
多彩なものがあふれており、その間に単純なる順序関係(上下の序列)などつけることはできず、生肉を食べようが、目が細かろうが、
箸でものをつまもうが、それは「個性」であって、「みんなちがって、みんないい」と
称揚されるべき差異である。そのような「
覚悟」をもって世界を
見渡せば、美人だろうがブスだろうが、ハゲだろうがオヤジだろうが、別にいいだろう、と思えるはずだ。しかし、それは案外かなりラジカルで、それを生きることの難しいスタンスなのかもしれないとも思う。
5. もともと、近代科学自体に世界観としての原罪がある。周知のとおり、ニュートンによる
微積分の手法の発明、「万有引力」という構想自体が、世界の中の差異を消去し、すべてに
普遍的に成り立つ法則を見出そうとする動機づけに基づいていた。目の前のリンゴと、天上に
輝く月の間には、ナイーブに考えれば乗り
超えがたい差異がある。両者が同じ万有引力の法則に従って運動するという∵
衝撃的な着想の中にこそ、近代の科学を発展させた
起爆剤はあった。しかし、それは同時に差異をどんどん無効化し、消去していく無限運動の始まりでもあった。
6. それぞれ
輝く個性をもって
屹立しているかに見えた生物種の起源が「
突然変異と自然
選択」という
一般原理で説明され、子が親に似るという現象はDNAという単一の物質のバリエーションの問題に帰着し、そしていまや世界の
森羅万象が等しくネットワーク上のデジタル情報の中に映し出される。男も女も、老いも若きもすべては差異の
隠蔽された平等の楽園に
取り込まれていくという「政治的正しさ」のプログラムは、ニュートン以来の近代科学のすばらしき成果と思想的に明らかに連動しているのである。
7. (
茂木健一郎「『みんないい』という
覚悟」による)
長文 11.1週
1. 【1】例えば市町村で
残酷な仕打ちをしている地方警察の暴力
行為のようなものから、IMF(国際通貨基金)やG7、世界銀行といった総合的な
中枢機構に至る、政治を操って、社会の基本的政策を決定する組織まで。【2】まず大切なことはそういう組織が存在しているということを認識し、そしてそれらと戦うということさ。――レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン「機械に
抗する怒り」とでも訳すことのできる、このロックバンドは、たかだかまだ二枚のアルバムをリリースしたにすぎない。【3】だが、
彼らは文字通り、
怒りを発し続けているバンドである。アメリカン・インディアンの男性で、FBIの
捜査官を殺害した容疑で長期
拘留されているレナード・ぺルティエや、【4】元ブラック・パンサーのメンバーで黒人ジャーナリストのマミア・アブジャーマルの解放のために活動し、ネオナチ反対のコンサートを開いたり、あるいは、コンサート会場で売られる高すぎるTシャツに
抗議し、
検閲制度にプロテストしたりもする。【5】ただやみくもに
抗議しているだけではないか、と言うのならば、その通りと答えなければならぬかもしれない。【6】あらゆる権力、あらゆる制度に対して否定の行動を起こすことこそロックであるとする、書いていて思わず赤面するほどの古くさいロックの定義を今でも信じているバンドにすぎないのではないか、と言われれば、
彼らがある意味でストレートすぎるほどの政治的なメッセージを
隠そうとしないハードロックバンドであることは認めなければならないだろう。
2. 【7】だが
彼らにはアクチュアリティがある。
3. アメリカやヨーロッパの社会が
抱える諸問題のうち、主として若者層の病巣と考えられる
幾つかの問題に対して、
彼らはその
切迫した事態を正確に感受している。【8】そして事態に
抗議する歌詞を書き、
轟音の中に
挿入し、アルバムをリリースするという戦略を
実践しているのである。事実、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンほど戦略的なバンドはいない。【9】それはあらゆる文化は政治的であるというテーゼを、強く
彼らが信じているからである。「文化そのものが政治的だということを否定しないということは、とても重要なことだと思う」と
彼らは語っている【0】自分たちの音楽それ自体∵がすでに一個の政治であり、
抗議する対象もまた政治である。ここで私たちが注目しなければならないのは、戦う相手である政治が、「機械」と名指されていることだ。バンド名は
虚飾ではない。権力の
末端で起こる暴力から、権力の
中枢神経である総合的な組織化まで、すべてが「機械」と呼ばれているのである。ここでの「機械」は国家と等号で結ばれる存在ではない。そうした
枠組みでは
捉えられぬ、私たちの首をじわじわと
締めつける、ごく具体的であり、同時に、
捉えどころのない
途方もない拡がりを待った存在こそが、「機械」と名づけられている。(中略)
4. ちょうど百年前になる。
ヴァレリーは一九世紀末、こんなことを書いている。「方法」が
制覇するのだ、と。方法は、個人の自由な裁量権の
及ぶ範囲を
狭めてゆく。いや、その
範囲を限りなくゼロに近づけてゆくことこそが、「方法」の理想なのである。(中略)
5. 「方法」は
誰にとっても反復可能なものであり、いかなる人間でもその「方法」さえ用いれば、同一の結果に
到達する。このとき「方法」を用いる側の個体性も、
破壊される。
優秀な人間の
施す術が、
優秀な結論を招来するという、神話が
崩壊するのである。
英雄と呼ぶに相応しい大文字の個人などいなくなり、均質化した個人だけがまるで
砂漠の砂のようにあらゆる領域を
埋め尽くすような事態――。「
模倣可能なものだけ
模倣されれば
凡庸な
後継者の手段を増やすだけ」のものが、方法としてそこにあり、次第に世界はこうした「方法」に
制覇されることになるだろう、と
ヴァレリーは予言していた。(中略)ここで語られる「方法」は、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンが語っていた「機械」と同じである、と私は思う。あらゆる機構の細部にまで
浸透し切った「機械」こそが、私たちから個体性を
剥奪する「方法」にほかならない。
6.(
陣野後史「機械に
憑かれ、そして
抗する」)
長文 11.2週
1. 【1】私は長いこと京都に住んで毎日のように道で
僧侶と出会ったし、時には寺院をおとずれて、そこに住む
僧職の方と対面することも多かったが、どのお顔もなべて、迷いも
悩みも知らぬ(と見える)
平穏無事な、ふっくらとしたお顔ばかりであるのが、昔から不思議に思われてしかたがなかった。【2】
僧服をまとう身とあれば、日々これ仏法、「日々これ好日」、さればこそこのような満ち足りたお顔がそろうことになるのだろうか。
2. 【3】しかし私からすると、
僧という身分であることほど
怖いことはない。臨済
和尚は、「自分を救う者は自分のほかにはない」と言ったが、一個の人間が
僧服をまとう身になることを決断するに当たっては、まず他者への救済者として自立できるより前に、それに先立つ自分自らの始末がつけられているはずである。【4】あるいは
僧となることそのことによって、自らの在りかたに決着をつけようとする
覚悟あってのことであるはずだと思われる。それなのに、あののびやかな、時には堂々と
俗臭を
漂わせたお顔は、一体どういうことなのであろう。
3. 【5】思うに、現代日本の
僧侶は、ほとんど例外なく、宗教者・求道者たることを自らの天職として選び取ったという人びとではなく、いわば職業人として
僧職に就くことを他律的に条件づけられてそうなったという人びとが大半を
占めるであろう。【6】そして、ひとたび
僧衣をまとい、
僧の座に
坐ることになると、
僧たることのステータスそのものがその人を安住させ定着させることになって、自らを
突き放して見すえる眼も心も失われてゆく、という成りゆきになるのではなかろうか。【7】まして、その人が
或る宗門や教団のなかで一つの職位に就くことにでもなれば、その地位自体がその人の
護符となって、安定度はいよいよ高まり、その風格はいよいよ板につき、その説法もいよいよ堂に入った
巧みさを加えるであろう。【8】そして、それと反比例して、自らを一個の人間に
戻し、その
裸身を改めて見つめ直すという宗教者としての基本的な心構えは、
霧のように消えてゆくであろう。∵
4. 【9】このことの
怖ろしさを、私はかつて旧制中学の教師だった時に身に
沁みて体験した。
赴任してから一週間たって気がついたことは、教員室の空気の
退廃であった。【0】
彼ら教師たちの話題の
下劣さと、それに引きかえての
高慢なエリート意識、そして
陰にこもった個人や
派閥の間の反目などなど……。これは大きなショックだった。そして、なぜこうなのだろうと考えてみた。ハタと思い当たったのは、教師たちが日ごろ相手にしているのが、自分たちよりも
年齢の低い生徒たちばかりであるという
環境そのものにその理由がありそうだということだった。そう思い当たって、私は背すじがぞっとする思いだった。幼い子を相手に同じことを教えてばかりいると、自分自身の勉強はおろそかになるばかりか、自分の今の在りようや生き方を省みるということもしなくなる。それをしなくても、教師という職業は結構つとまるからである。こんな
怖いことはない。見回したところ、「背に負うた子に教えられる」といった初心を忘れずにいそうな教師は、一人も見当たらない。みんな教室での教え方は堂に入ったその道のベテラン教師ばかりである。しかし、その人たちの世間話のなんと
低劣なことか。これでは、長く教師をつとめたら、人間の成長は止まってしまうこと
必定だと、私は思い知った。そして三年で退職してしまった。
5. およそ人間として成長するためには、絶えず現在の自分の生き方を
恥じることが必要であろう。自らを
恥じるとは、自らを客観視する別の眼をもち得ることである。現在の
環境に
埋没することなく、つまり現在の職業や地位に
腰を
据えてしまうことなしに、自分の新たな可能性を絶えず
開拓しようとする
気魄をもち続けること、このことこそが、およそ道を求める者の――社会人たると宗教者たるとを問わず――もっとも基本的な要件であろう。まして人に向かって法を説き、ひとかどの救済者として自立するほどの人であれば、なおさら、自らをその道の完成者として完結させてしまってはならぬはずである。もし、いささかでも自己完成者としての意識が残っていたら、その人はすでに救済者たる資格はない。しかし、この痛切なディレンマを
乗り越えるための
苦悩を知らぬ説法者が、今は余りにも多い。 (入矢義高「人を救うということ」)
長文 11.3週
1. 【1】
鯨や象は、人の「知性」とはまったく別種の「知性」を持っているのではないか? という疑問である。
2. 【2】この疑問は、最初、水族館に
捕らえられたオルカ(シャチ)やイルカに芸を教えようとする調教師や医者、心理学者、その手伝いをした音楽家、
鯨の脳に興味を持つ大脳生理学者たちの実体験から生まれた。
3. 【3】
彼らが異口同音に言う言葉がある。それは、オルカやイルカは決して、ただ
餌がほしいために本能的に芸をしているのではない、ということである。
4.
彼らは
捕らわれの身となった自分の
状況を、はっきり認識している、という。【4】そして、その
状況を自ら受け入れると決意した時、初めて、自分とコミュニケーションしようとしている人間、さしあたっては調教師を喜ばせるために、そして、自分自身もその
状況の下で、
精一杯生きることを楽しむために「芸」と呼ばれることを始めるのだ。(中略)
5. 【5】たとえば、体長七メートルもある
巨大なオルカが
狭いプールでちっぽけな人間を背ビレにつかまらせたまま
猛スピードで泳ぎ、プールの
端にくると、
手綱の合図もなにもないのに自ら細心の注意を
払って人間が落ちないようにスピードを落としてそのまま人間をプールサイドに立たせてやる。(中略)【6】こんなことが果たして、ムチと
飴による人間の強制だけでできるだろうか。ましてオルカは水中にいる七メートルの
巨体の持ち主なのだ。
6. そこには、人間の強制ではなく、明らかに、オルカ自身の意志と
選択が働いている。
7. 【7】
狭いプールに
閉じ込められ、本来持っている
超高度な能力の何万分の一も使えない
苛酷な
状況に置かれながらも、自分が「友」として受け入れることを決意した人間を喜ばせ、そして自分も楽しむオルカの「心」があるからこそできることなのだ。
8. 【8】また、こんな話もある。人間が
彼らに何かを教えようとすると、
彼らの理解能力は
驚くべき速さだそうだけれども、同時に、
彼らもまた人間に何かを教えようとする、というのだ。∵
9. 【9】フロリダの若い学者が、一頭の
雌イルカに名前をつけ、それを発音させようと試みた。イルカと人間では声帯が大きく異なるので、なかなかうまくいかなかった。それでも、少しうまくいった時にはその学者は頭を上下にウンウンと
振った。【0】二人(一人と一頭か)の間では、その仕草が
互いに了解した、という合図だった。何度も
繰り返しているうちに、学者は、そのイルカが自分の名とは別のイルカ語のある音節を同時に
繰り返し発音するのに気がついた。しかしそれが何を意味するのかはわからなかった。そしてある時、ハタと気づいた。「
彼女は私にイルカ語の名前をつけ、それを私に発音せよ、と言っているのではないか」、そう思った
彼は、必死でその発音を試みた。
10. 自分でも少しうまくいったかな、と思った時、なんとその
雌イルカはウンウンと頭を
振り、とても
嬉しそうにプール中をはしゃぎまわったというのだ。
11.
鯨や象が高度な「知性」を持っていることは、たぶん
間違いない事実だ。
12. しかし、その「知性」は、科学技術を進歩させてきた人間の「知性」とは大きく
違うものだ。人間の「知性」は、自分にとっての外界、大きく言えば自然をコントロールし、意のままに支配しようとする、いわば「
攻撃性」の「知性」だ。この「
攻撃性」の「知性」をあまりにも進歩させてきた結果として、人間は大量
殺戮や
環境破壊を起こし、地球全体の生命を危機に
陥れている。
13. これに対して
鯨や象の持つ「知性」は、いわば「受容性」の知性とでも呼べるものだ。
彼らは、自然をコントロールしようなどとは一切思わず、その代わり、この自然の持つ無限に多様で複雑な営みを、できるだけ
繊細に理解し、それに適応して生きるために、その高度な「知性」を使っている。
14. だからこそ
彼らは、我々人類よりはるか以前から、あの大きなからだでこの地球に生きながらえてきたのだ。同じ地球に生まれながら、と私は思っている。
15. (
龍村仁「地球(ガイア)の知性」による)
長文 11.4週
1. ところが、
突然、ソ連が
崩壊して言語に対する統制も
検閲もなくなり、西側の文明がどっと入ってきた。いま、モスクワの町中に
氾濫する外来語の
膨大さには、
驚くばかりだ。モスクワ一の大型書店「ドーム・クニーギ」に行っても、「インターネット」「マネジメント」「マーケティング」といったコーナーばかりで、これがトルストイやドストエフスキーを生んだ
偉大な文学の国のなれの果てか、と、ロシア文学びいきの日本人としては、ついなげかわしい気持ちにもなろうというものだ。
2. しかし、その一方で、日本の都会ではとうに失われてしまった言葉の生々しさのようなものが、現代のロシアではいまだに保存されているということも見のがしてはならない。ロシア人たちは、ほんのちょっとしたことをきっかけに、たとえ見知らぬ他人どうしであっても、
驚くほど多くの言葉を費やして、自分の考えと感情を相手に直接ぶつける。それは情報伝達の
行為というよりは、言葉を通じで
互いの存在を認識しあう共同体の
儀式にも似ている。おそらく二一世紀の日本で今後、どんどん失われていくのは、まさに言葉のこういった機能ではないかと思う。
3. コンピュータ技術が
飛躍的に発達し、これから社会の「情報化」がますます進展していくことだろう。商取引から
恋愛まで、すべてはインターネット上の
ヴァーチャルな体験に
置き換えられ、一歩も自分の部屋を出なくとも生活が何不自由なくできるという時代が来るのも夢ではない。しかし、そうなったとき、決定的に失われる危険があるのは、個人的な
接触を可能にし、
互いに同じ人間なのだということを実感させてくれる言葉の機能である。こういった言葉の基本機能のことを、言語学者のヤコブソンは「交感機能」と呼んでいるが、これが失われたら、言葉は言葉でなくなってしまうと言っても過言ではないだろう。
4. では、そのとき言葉は何になるのか。おそらく「言葉もどき」、オーウェルの表現を再び借りれば、新たな「ニュースピーク」ではないか。ニュースピークとはなにも、過ぎ去った過去の
亡霊ではない。それは、人間から個性も思考力も
奪い、社会を構成する者全員を画一化する新たな、より強力な全体主義の時代に、再び装いも新たに現れることだろう。
5. なんだか見通しの暗い予報になってしまったみたいだが、正直な∵ところを言えば、そんなニュースピークの時代が本当に
到来するなどとは考えたくはない。これはあくまでも一種の警告である。
妙なことを言うようだが、おそらく私たちは、言葉という不思議な生き物の未来については、人類の未来について以上に楽観的になってもいいのではないだろうか。
6. というのも、言葉は人類のありとあらゆる
惨事と
残虐と
愚かしさを
目撃し、
克明に記録しながらも絶望することなくしぶとく生き延び、時代の激変を通じてみずからもしなやかに変容しながら、それでいて言葉でありつづけることを止めないで今日まで来ているからだ。ぼくは
人智を
超えた神秘的な
言霊などのことを言っているわけではない。言葉は人間の作り出したものでありながら、人間以上の生命力を持ち、人間社会を逆に作っていく働きさえ備えている。コンピュータ程度の発明に簡単にやられはしないだろう。しかし、それは
潜在的に
恐ろしい力でもあり続ける。言葉を支配する者は、結局のところ、世界を支配することになるからだ。
7. (
沼野充義『W文学の世紀へ』)
長文 12.1週
1. 【1】音楽といえば、それはハニホヘトイロで育った私たちの世代に最も
縁遠いものの一つで、もの言う資格などなきに等しいのだが、それでも、私自身、ビートルズのことでめずらしい経験をしたことがある。【2】十数年前、ビートルズが
熱狂的に
迎えられはじめたころ、元来が野次馬なものだから、それではひとつと片っぱしからレコードを買いこんで鳴らしてはみたものの、音楽評論家たちの力説する良さがいっこうに理解できない。【3】それ以前にジャズやロックンロールなどに親しんでいたわけではないから、その音楽性のどこがどう革命的なのか、わかるはずもないし。【4】それがある日、ホリリッジ・ストリングスの演奏するビートルズのイージー・リスニング・ナンバーのレコードを耳にしたとたん、なんときれいな曲なんだろうと思わずうっとりした。【5】
澄明にして
華麗、
巧緻にして清新、わが耳を疑うとはこのことかといいたい体験だった。以来、私はビートルズのひそかなファンでありつづけている。
2. 【6】
ヴォーカル抜きのイージー・リスニングだなんて、今だと
頼りなくて聞いていられないだろうけれど、少なくとも音楽
音痴の私にとって、この一枚のレコードは、世界のビートルズを私自身のビートルズに変えた、
奇蹟的なレコードだった。
3. 【7】「
一瞬の
閃き」による理解。それは、読書についても、もとより例外ではあり得ない。が、生まれついての天才は別として、この
閃きを体験するためには、やはり相応の
試行錯誤の
歳月が要る。【8】さまざまなジャンルの、さまざまな作者の、さまざまな作品に当りながら、しかし、どの作品が上等で楽しく、どの作品がくだらなくて
反古にひとしいと、それがわかって読んでいるのか、疑ってかかる月日が要る。【9】名ある評家の
推輓や、世間になんとなく
流布している評判を自分自身の下した評価と
勘違いして読んでいるだけのことではないかと気をもんですごす
時日が要る。
4. 【0】もっとも、読書
一般についていう場合、水泳や数学や音楽などと
違って「
一瞬の
閃き」は大げさかもしれない。ある作品を読んでほかの本からはかつて受けたことのない一種
新鮮な印象を得、この体験を基準として読んでいけばいいのだなと深くうなずく、そんなふうに考えたほうが実態に沿っているだろうか。が、いずれにせ∵よ、
試行錯誤をくりかえすことをいとわず、疑ってかかる姿勢を失わずにいるかぎり、そういう
瞬間はいつかやってくるということは十分に期待できる。もちろん、人によってその
瞬間を感じることの強弱
遅速はあるだろうが、それは仕方がない。人間の感受性というのはもともと不平等にできているのである。
5. いったんこうした読書のコツを
会得した以上は、あとはもう
一気呵成、読むに値する本が次から次へと見つかってきて、読書が楽しくてしようがなくなる。山本
夏彦ふうにいえば、くだらない本を読んでさえ、それを
罵倒するという楽しみが加わる。見かけばかりご大層で内実はいたって貧しく
退屈な本を、どんな義理があるのか知らないが、無責任に天下の名著と持ちあげる評論家を
嘲笑するという楽しみも。
6. それだけではない、かつてやみくもに読み散らしてはくりかえした
試行錯誤、これが思いがけず役に立つのである。系統発生図というか、ものの良し悪しを弁別する見取図のようなものが、読書の
要をおさえたと知った
瞬間に
脳裡に成立し、今後の本の読み方についてのまたとないコンパスとなるからである。
7. 世間は広いから、たった一冊の本を読んだだけでチカッと
閃くという人もいないとはかぎらない。が、それは、初めて本を読んですべてがわかったと思いこむ子供のようなもので、それ以前の
蓄積がゼロだから、本の世界についての正負さまざまの方向をもった地図を作りあげることができず、かえってその後の読書に
難渋し、モームのいう「ひまつぶし」を楽しむ機会がより少ないということもまたありうる。なにごとにもプラスとマイナスがある。こと読書に関しては、神童や天才をうらやむにはあたらない。
8. (
向井敏『
贅沢な読書』による)
長文 12.2週
1. 【1】人間以外の動物は
普通「本能」の
赴くままに行動するとき、そこに迷いや不安はない。
彼らにとっては、世界は予め
秩序を
与えられているのであって、自らがそれを創り出す必要がないからである。つまり、
選択の余地がないのである。【2】それに対して人間は、そのような「本能」の導きを失い、従って、
混沌と化した世界に対して、素手で働きかけることができず、文化という装置を創り出すことによって、再び
秩序をとり
戻してきたのである。【3】人間がしばしば、文化を持った生物と呼ばれる理由はそこにある。
2. 何故人間のみが、そのような特異な生物への「進化」の道を歩んだのかということは、それ自体非常に興味のある問題であるが、ここでは本題に外れるので
触れない。【4】その代わりに、文化を持った生物となってしまった人間が、
環境の変化に対して、他の種のように何世代にもわたって
徐々に自らを変えて、その変化に適応するということをせず、自らが創り出した文化という装置を操作することによって適応してきたということが、どのような意味を持つようになったかということを考えてゆきたい。
3. 【5】今述べたように、あるがままの
混沌の世界に対して、文化という装置によって
秩序を回復する試みが行なわれ、それによって、人間は世界を
解釈することができるようになるのであるが、その
解釈が有効であるためには、集団の成員によるその承認を必要とする。【6】つまり、文化が文化として機能するためには、社会制度化されなければならないのである。ところが、このような社会制度化された文化が、
一旦成立すると、今度はその文化そのものが、人間にとって、いわば第二の自然として、人間の行動を規制してくることになる。【7】したがって、「文化」はもともと「自然」と対立する
概念ではあるが、人間は文化の
枠内でしか行動しえないものであってみれば、ある意味では文化=自然という関係が成立してくるとさえ言えるのである。
4. (中略)
5. 【8】人間は客観的世界にのみに生きているのでもないし、通常理解されているような社会的活動の世界にのみ生きているのでもなく、その社会の表現手段となっている特定の言語に強い
影響を受けているのである。【9】本来言語を使わないで現実に適応できると考えたり、言語をコミュニケーションや、内省の特定の問題を解くため∵の
偶然の手段であると考えるのは全くの
幻想にすぎない。【0】事実は、「現実世界」というのは、かなりの程度まで、その言語使用者の集団の言語習慣の上に無意識に築かれているのである。どの二つの言語をとってみても、同じ社会的現実を表わしていると考えられる程似た言語はないのである。異なる社会が生きている世界は別の世界であり、単に異なるレッテルが付けられた同一の世界ではないのである。
6. すなわち、われわれは全人類が例外なく持っている言語という文化装置(記号体系)を通してしか現実を構成することができないのであり、したがって、それぞれの言語という記号体系が異なれば、見えてくる世界も
違ったものになってくるのである。このことは、あるものをそれとして認識できるのは、
普通、それに
名称が
与えられている場合であることを考えても、容易に想像されるだろう。それまでは何気なく見過ごしてきた
路傍の花が、その
名称を知ることによって、急にいきいきとした存在感を持って知覚されてくることは
誰でも経験したに
違いない。つまり、
名称という記号表現を
与えられて初めて、その花はわれわれに意味を待った存在として現われてくるのである。
繰り返して言うと、文化という装置は、もともと自然の
混沌に
秩序を
与えるために、人間が集団としてある意味では
恣意的に創り出した記号体系であるが、
一旦できあがるとそれは自立性を
獲得し、逆にその創造者を
呪縛するようになるのである。このようにして、人間はもはや文化という装置なしでは生きていけない存在になってしまったのである。
7. 文化をこのように、人間が集団として
恣意的に創り出した記号体系として
捉えるならば、各文化間の
相違が現われてくるのは当然であるが、それのみでなく、その分節がある意味では
恣意的でありうるが故に、文化の行なう
秩序化(=分類)からはみ出してくる部分が出てくるのは想像に難くない。そのはみ出した部分をそのままにしておくことは、
秩序の
破壊につながってくるため、文化にとっては危険な存在になる。そのため、文化は、そのはみ出した部分を、消極的には「見えないもの」(インビジブル)として、積極的には
禁忌(タブー)として
抑圧する必要があるのである。
8. (池上
嘉彦・山中
桂一・
唐須教光「文化記号論」より)
長文 12.3週
1. 【1】
誰かがいつか、こんなことを言っていた。神経が
苛立って
眠れない時があるが、これは神経の
疲労が肉体の
疲労とのバランスを欠いて、独自に進行してしまった結果である。【2】従ってこうした場合は、
縄跳びを数回行って、肉体の
疲労を神経のそれと同程度になるまで高めればいい。それぞれの
疲労のバランスがとれれば、人は
眠れるのである。
2. 【3】いささか論理が明確に過ぎて、その分だけ何となく危うい気がしないでもないが、しかしこの論理の組み立て方には
魅力がある。何よりも、神経の
疲労それ自体を静めようとするのではなく、肉体の
疲労をそれに見合うべく高めようとする点が独特であり、そこに行動的であり、しかも積極的な姿勢がうかがわれるのである。【4】そして事実私は、同様の
症状に
陥るたびにこの考え方を応用して実行し、もし私の
錯覚でなければ、言われている通りの効果をあげることが出来た。
3. 【5】かつて私は、ホンダの五〇CCのカブ・原動機付自転車を愛用していたが、これに長時間乗った場合、必ずこうした
症状に
陥った。 【6】原動機付自転車というのは、人間の筋力による走行速度を、ガソリン・エンジンに
置き換えて
促進するための最も原始的な装置であり、それとこれとの
置き換えを実感するためには、最も効果的な道具なのだが、それだけに、こうした
症状に
陥る事情も、論理的に説明しやすいということがある。
4. 【7】もちろんこれもまた、論理が明確に過ぎて、自分自身ほとんどはにかまざるを得ないほどであるが、つまりこの場合、私の「肉体」はただ、
震動する小さなガソリン・エンジンにしがみついているだけだが、「神経」の方は、その同じ
距離と時間を省略することなく体験しつくすのであり、従ってそのそれぞれの
疲労のバランスは、大きく
喰い違ってくるはずだ、というわけである。【8】「神経」の
疲労のみが独自に進行してしまって、私は
苛立ち、
眠れなくなる。
5. そこで私は、長時間原動機付自転車に乗った日は必ず、家に入る∵前にその場で体操をしたり、家の周囲を
暫く走ったりして、「肉体」を
酷使し、
疲労のバランスをとるよう努めた。【9】そうすることによって私は、その夜の「
安眠」を、勝ちとってきたのである。【0】(中略)
6. 私は、私自身が原動機付自転車に乗っていた当時の体験に
即して、ここまで考えてみた結果、
冒頭に
掲げた考え方を、ほぼ「あり得ること」として、認めることにした。「神経」と「肉体」という言い方が、厳密に考えようとするとややあいまいであるが、
彼がその言葉で、我々の内なる何を言い当てようとしつつあるかは、容易に想像がつくのである。つまりここでは、そのそれぞれのものが、
乖離して世界を体験し、従って
乖離したままそれぞれ別レベルの
疲労を課せられ、そのバランスが
崩れつつある点に、問題があると言っているのだ。(中略)
7. 私は
或るジャーナリストが、ケネディ暗殺事件を報道するテレビ画像を見て、「ここには何も映し出されていない」と言ったのを覚えている。
彼は、
彼が実際にその場に居合せたことのある暗殺事件の現場を想起しながら、「そこには確かに、人々を
恐怖させ、
吐き気を
催させる何ものかがあったのだが、ここには何もない」ということを言っているのだ。そしてこのことは、私が
或る
距離を、歩いたり走ったりするのでなく原動機付自転車で
通り抜けてしまったことにより
抱かざるを得なかったことと、同様のものであったような気がする。
8. この手応えのない世界への不安が我々の内に
潜在し、その
焦燥感が、勢い手応えのあるものに向って、やみくもに発散されようとするのだ。
9.(別役実「イロニーとしての身体性」による)
長文 12.4週
1. 「
患者が最後まで希望を持つことができるためにはどうしたらよいか」ということは、ことに
重篤な
疾患にかかわる
医療現場において切実な問いである。病気であることが知らされる―だんだん状態が悪くなることを知り、有効な対処法はないことも知る――自分の身体がだんだん悪くなり、できることがどんどん減って行く――死を間近に感じるようになる。
2. このような
状況で、「希望」とはしばしば、「治るかもしれない」という望みのことだと思われている。あるいは「自分の場合は通常よりもずっと進行が
遅いかもしれない」ということもあろう。いずれにしてもまさに「希望的」観測である。だが、希望とはこうした内容の予測のことなのだろうか。
3. もしそうだとすると、それこそ確率からいって、そうした
患者の多数においては、はじめに立てた希望的観測が次々と
覆されるという結果にならざるを得ない。それでは「最後まで望みをもって生きる」ということにはならないだろう。そもそも、「
癌」と
総称される
疾患群をモデルとして、「告知」の正当性がキャンペーンされてきたのは、
患者が自分の置かれた
状況を適切に
把握することが今後の生き方を主体的に
選択するために
必須の前提であったからではなかったか。右に述べたような望みの見出し方は、非常に悪い情報であっても真実を
把握することが人間にとってよいことだという考えとは調和しない。
4. では「死は終わりではない、その先がある」といった考え方を採用して、希望を時間的な未来における幸福な生に
託すというのはどうだろうか。だが、
医療自らが、そのような公共的には
根拠なき希望的観測に過ぎない信念を採用して、
患者の希望を保とうとするわけにはいかない。
5. ところで、死は私たち全ての生がそこに向かっているところである。
遅かれ早かれ私の生もまた死によって終わりとなることは必至である。その私にとって希望とは何か――考えてみればこの問いは、
重篤な
疾患に
罹った
患者にとっての希望の可能性という問題と何らか連続的であろう。そして、多くの宗教は死後の私の存在の∵持続を教えとして
含み、そこに希望を見出そうとしてきた。それは人間の生来の価値観を
肯定しつつ、提示される希望である。だが他方宗教的な思想には、死後の生に望みをおく考え方を
拒否する流れもある。その場合は、人間はもっとラディカルに自己の望みについて
突き詰めるのである――「死後も生き続けたいという思いがそもそも我欲なのである」とか、「自己の幸福を追求するところに問題がある」というように。それは生来の価値観を
覆しつつ提示される考えである。では、死が私の存在の終わりであることには何の不都合もないではないかとして、これを
肯定した場合に、希望はどこにあるか――どのような仕方であれ、「死へと向かう目下の生それ自体に」と応えるしかないであろう。
6. 終わりのある道行きを歩むこと、今私は歩んでいるのだということ――そのことを積極的に引き受ける時に、終わりに向かって歩んでいるという自覚が希望の
根拠となる。そうであれば「希望を最後まで持つ」とは、実は「現実への
肯定的な姿勢を最後まで保つ」ということに他ならない。つまり、自己の生の
肯定、「これでいいのだ」という
肯定である。「自己の生」といっても、生きてしまっている生(
完了形)としてみることと、生きつつある生(進行形)としてみることとの二重の視線がある。
完了したものという生のアスペクトにおける
肯定は「これでよし」との満足である。他方、生きつつある生、つまり
一瞬先へと一歩
踏み出す活動のアスペクトにおける、前方に向かっての
肯定、前方に向かって自ら
踏み出す姿勢が、希望に他ならない。
7. (清水
哲郎『死に直面した
状況において希望はどこにあるか』より。一部省略)