長文集  6月1週  ★ノンフィクションの書き手は(感)  ya-06-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2015/03/16 04:09:20
【一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の
長文は課題の長文で す。】
 【1】単調で荒涼な砂漠の国には一神教が
生まれると言った人があった。日本のような
多彩にして変幻きわまりなき自然をもつ国で
八百万(やおよろず)の神々が生まれ崇拝さ
れ続けて来たのは当然のことであろう。山も
川も木も一つ一つが神であり人でもあるので
ある。【2】それをあがめそれに従うことに
よってのみ生活生命が保証されるからである
。また一方地形の影響で住民の定住性土着性
が決定された結果は至るところの集落に鎮守
の社(もり)を建てさせた。これも日本の特
色である。
 【3】仏教が遠い土地から移植されてそれ
が土着し発育し持続したのはやはりその教義
の含有するいろいろの因子が日本の風土に適
応したためでなければなるまい。思うに仏教
の根底にある無常観が日本人のおのずからな
自然観と相調和するところのあるのもその一
つの因子ではないかと思うのである。【4】
鴨長明の方丈記を引用するまでもなく地震や
風水の災禍の頻繁でしかも全く予測し難い国
土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠
い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑に
しみ渡っているからである。
 【5】日本において科学の発達がおくれた
理由はいろいろあるであろうが、一つにはや
はり日本人の以上述べきたったような自然観
の特異性に連関しているのではないかと思わ
れる。雨のない砂漠の国では天文学は発達し
やすいが多雨の国ではそれが妨げられたとい
うことも考えられる。【6】前にも述べたよ
うに自然の恵みが乏しい代わりに自然の暴威
のゆるやかな国では自然を制御しようとする
欲望が起こりやすいということも考えられる
。全く予測し難い地震台風に鞭打たれつづけ
ている日本人はそれら現象の原因を探究する
よりも、それらの災害を軽減し回避する具体
的方策の研究にその知恵を傾けたもののよう
に思われる。【7】おそらく日本の自然は西
洋流の分析的科学の生まれるためにはあまり
に多彩であまりに無常であったかもしれない
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のである。∵
 【8】現在の意味での科学は存在しなかっ
たとしても祖先から日本人の日常における自
然との交渉は今の科学の目から見ても非常に
合理的なものであるという事は、たとえば日
本人の衣食住について前条で例示したような
ものである。その合理性を「発見」し「証 
明」する役目が将来の科学者に残された仕事
の分野ではないかという気もするのである。
 【9】ともかくも日本で分析科学が発達し
なかったのはやはり環境の支配によるもので
あって、日本人の頭脳の低級なためではない
ということはたしかであろうと思う。その証
拠には日本古来の知恵を無視した科学が大恥
をかいた例は数えれば数え切れないほどある
のである。【0】

 「日本人の自然観」(寺田寅彦)

 【1】ノンフィクションの書き手は、在る
ものを映そうとし、フィクションの書き手は
、在らしめるために創ろうとする。
 たとえば、先にあげた「『事実』の呪縛を
超えるもの」という座談会の中で、小説家で
ある加賀乙彦は、実在の人物をモデルにした
小説『錨のない船』を書くという体験に即し
て、次のように語っている。
 【2】『……最初に収集した事実を一応ふ
まえて、それほど逸脱したことは書けないけ
れども、登場人物の心理とか家族の関係とか
死んだ様子とかってのは、全部事実と違う完
全なフィクションになってきたんですね。そ
の方が実在の来栖良さんという青年の真実に
近いのだろうということなんです。(中略)
【3】昔、アンドレ・ジイドが「フィクショ
ンの方が真実で、ノンフィクションは真実か
ら遠ざかるだけだ」と言ってますけど、僕も
同じような考えで、フィクションが多ければ
多いほど真実に近づいていくっていう経験を
今度しましたね』
 【4】ここには、フィクションの書き手の
、創るということの絶大な自信と、あえてい
えば傲りが、驚くほど率直に表明されてい 
る。確かに創るということを認めるなら話は
簡単だ。【5】他人というものはついに、理
解することはできないのではないか、という
苛立ちからも脱(ぬ)け出せ、事実の核に到
達できないのではないかという絶望からも解
き放たれる。自分の身の丈に合った「真実」
とやらにも接近できるだろう。【6】しかし
、想像力による事実の改変や細部の補強とい
う方法は、記録というものには限界があるの
ではないかという問いへの答にはなりえない
。記録、ここではノンフィクションだが、そ
れは創らぬという約束の上に成り立っている
ジャンルの文章なのだ。それをスポーツにお
けるルールと考えてもよい。【7】サッカー
が手を使わないことによってラグビーと異な
る緊張感を生み出すように、ノンフィクショ
ンも恣意的に想像力を行使しないということ
で『在らしめる』という闘いを免除され、『
在る』ということによって支えられている力
を付与されているの だ。
 【8】ここまできて、ようやくノンフィク
ションには限界があるのではないかという問
いにまとわりついている霧がうっすらとだが
晴れ∵ていくように感じられる。つまり、限
界があるのは当然ではないか、という地点に
辿りつくのである。【9】そこに一定のルー
ルがある以上、可能なことには限りがある。
全能の文章のスタイルといったものを求める
ことが無理なのだ。とすれば、最も大事なこ
とは、ノンフィクションには何が可能で何が
不可能かの境界を見極めることのはずである
。【0】
 ノンフィクションのライターにできること
は、事実の断片を収集することでしかない。
加賀乙彦のいう「真実」とやらに到達するこ
とは不可能であり、事実の核といったものを
掘り出すこともできない。だが、それでどう
していけないことがあろう。断片と断片のあ
いだはついに埋まらない。わかることもあり
、わからないこともある。それをそのまま提
出してどうしていけないか。いや、むしろそ
の方が、『在る』ものとしての事実の質感や
大きさをくっきりと伝えることになるのでは
ないか。事実の断片を断片として提出する。
しかし、その断片の選び方、提出の仕方に、
書き手の「人間」が混じり合ってしまわない
か、という問いかけがあった。それに対して
も、その通りと認めることでしか答は見つか
らない。「人間」の混入は不可避である。そ
れはこの世に万人が認める唯一無二の絶対的
な事実があるのではなく、個人にとっての事
実しかないという立場を承認することでもあ
る。つまり、ノンフィクションとは、事実の
断片による、事実に関するひとつの仮説にす
ぎないのだ。

(沢木耕太郎(こうたろう)の文章による)