1. 【1】ピアシングという
行為が、この十年ほどのあいだにこの国でも、ファッションとしてすっかり定着しました。
2. 耳に穴を開ける、そのシーンを想像しただけで、はじめは、ちょっと不気味な感じさえしたものです。【2】親から授かった身体を傷つけるなんて、とたしなめるひとはもう、さすがに少なかったようですが、パンク系の若者のちょっと危ないファッションというのが、おおかたの受けとめかただったのではないかと思います。はじめは、なにか、見てはいけないものを見るようなところがたしかにありました。
3. 【3】それはいつごろからか、十代の女性たちにぱっと広がり、そして当然のように青年たちに飛び火し、やがて
娘たちから母親へ静かに伝染していき、そして「とんがった不良中年」ならやってて当然というところまできました。【4】最近はデパートのアクセサリー・コーナーへ行っても、ピアスでないふつうのイヤリングを見つけることのほうがむずかしくなっています。感受性というのはこうも急速に変化するものかと、あらためて感じ入っておられるかたも少なくはないと思います。
4. 【5】そういえば、あの
茶髪や
金髪にしても、はじめはつっぱりの若者たちの悪
趣味なファッションくらいに思い、アジア人には絶対に似あわないと確信していたひとがほとんどだったのに、みな不思議にあの色になれてきて、最近は、ふさいだ気分を
切り換えるためのもっとも手軽な手段として、多くのひとたちが愛好するようになっています。【6】黒はやはり重くるしい、もう少しライトにしないと洋服には似あわないというふうに、センスがあれば染めるのが当然、というのが「常識」になってきています。むかしから気分
転換に
髪を切ったり染めたりというのはありましたが、そういう自己セラピーのような効果が、ピアスや
茶髪にはあるようです。【7】身体の表面を変えることでじぶん自身を変えたいというファッションの願望は、いまはもう、表面の演出ということだけではすまなくなっているのかもしれません。「一つ穴を開けるたびごとに自我がころがり落ちてどんどん軽くなる。」
5. 【8】これはある社会学者が町で採集した証言ですが、ピアシングの快感の表現としてはなかなかのものではないかと思います。
6. どうしてもこうでしかありえないじぶんというもの、あるいは、じぶんがこれまでしがみついてきたアイデンティティの
檻、それらからじぶんを解き放つという軽やかさが、ここにはあります。【9】耳∵に穴を開けることで、身体がいろいろに可能なものであることが実感できるということ、つまりこれは、この身体という、じぶんが背負っている存在の条件そのものを
変更できるという、ささやかなときめきにつうじるのではないでしょうか。【0】服を
脱ぐように、じぶんの存在条件を
脱げたらというのは、人間のほとんど
普遍的な欲望なのではないか、とすら思われます。そのきっかけとして、ひとはしばしばみずからの身体を傷つけることがあるようです。
7. あるいはひょっとして、身体という自然、親から
与えられた身体を
毀損することで、親との自然的なつながりからみずからを解除するという、一種の巣立ちのパフォーマンスをここに読み取ることも可能かもしれません。これはわたしの身体なのだから、どうするかはわたしが自由に決めるという宣言。その意味では、ピアシングはひとりぼっちのひそかな成人式の
儀礼なのかもしれません。
8. 身体は、親から授かったものであり、親との自然の
絆であるという、そういう結びつきからじぶんの身体を解除して、身体をじぶんのものとして生きなおす一つのきっかけとして身体加工があるとするならば、最近流行っている小さなマークのような
刺青や、タトゥー・シールもおそらくその一つなのでしょう。(中略)
9. ともあれ、ピアシングやタトゥーの流行が暗号のようにして教えてくれているのは、わたしたちがわたしたちの存在そのものである身体を傷つけることなしには、じぶんの存在をきちんと確認できなくなっているというような、ある〈存在の危機〉です。危機という言い方に
抵抗があるむきには、本人もそうとは気づいていない
呪術や願かけのようなもの、と言いかえてもいいでしょう。ともあれ、じぶんの存在にどこか
充足しえていないところがあるのはたしかだと思います。その意味で、ピアシングも時代の構造変化の一つのシグナルなのかもしれません。
10. このようにファッションには、ことばではなく身体そのものを使って、みずからの存在を問うという面があります。
11.(
鷲田清一『ひとはなぜ服を着るのか』による。表記等を改めたところがある)