長文 5.4週
1. 【1】じっさい、ほかの国の言葉で日本語ほど多様な水の表現をもっている例はないといってもいいのではあるまいか。だから、さきの蕪村ぶそんの句を外国語に翻訳ほんやくするのは至難なのである。たとえば英語やドイツ語やフランス語で「のたりのたり」をどのように表現したらいいのだろう。【2】私はさんざん苦労したあげく、ついにこの句を外国の知人に説明し得なかった。
2. 「のたりのたり」だけではない。水についてのオノマトペは、そのほとんどが翻訳ほんやく不可能である。たとえば、文部省唱歌の「春の小川はさらさら流る」の「さらさら」は、どう訳したらいいのか。【3】お伽 とぎ話『桃太郎ももたろう』で語られているあの「ドンブラコッコ、スッコッコ」を何と表現したらいいのか。野口雨情の童謡どうよう「ドンと波 ドンと来て ドンと帰る」をどんなふうにいいかえたらいいのか。
3. 水で布などを洗う音は「ざぶざぶ」であり、なみだが流れる様子は「さめざめ」であり、【4】水気をふくんださまは「しっとり」であり、それが外ににじむほどであれば「じっとり」であり、湿気しっけが過度であれば「じめじめ」であり、水が絶えず流れ出る状態は「じゃーじゃー」であり、水が揺れ動くゆ うご 様相は「じゃぶじゃぶ」であり、水滴すいてきが垂れる音は「ぽたぽた」であり、【5】水が跳ねるは  有様は「ぴちゃぴちゃ」であり、水にひどく濡れるぬ  形容は「びしょびしょ」であり、水に何かが軽そうに浮かんう  でいるのは「ぷかぷか」、水に沈むしず さまは、「ぶくぶく」、雨が降り出すのは「ぽつぽつ」、水中からあわ浮かびう  あがるのは「ぼこぼこ」、水を一気に飲み干すさまは「がぶがぶ」、【6】水が何かに吸い込ます こ れる音は「ごぼごぼ」、そして、大波は「とどろ」に打ち寄せ、たきは「ごうごう」と落ち、石は水中に「どぶん」と沈みしず 、水は「ばちゃっ」と跳ねかえりは    、夕立は「ざーっ」と襲いおそ 、梅雨は「しとしと」と降りつづく。
4. ああ、なんと多彩たさいな水の表現であろうか!
5. 【7】だが、こうした多彩たさいなオノマトペは、同質社会でこそ微妙びみょうな伝達の機能を発揮できるが、異質な風土、異質な文化のなかに住む人にはさっぱり通じない。なぜなら、擬声語ぎせいご擬態語ぎたいごというのは、あくまで感覚的な言語であって、言語の重要な性格である抽象ちゅうしょう性を∵もたないからだ。
6. 【8】したがって、感覚的にわかるこれらの言葉の意味を説明するとなると――とたんに行きづまってしまう。オノマトペは、いわば音楽なのであり、その意味をつたえることのむずかしさは音楽の与えるあた  イメージを言語で解説する困難さとおなじだといってよい。【9】この意味で擬声語ぎせいご擬態語ぎたいごは言葉の本質ともいうべき抽象ちゅうしょう力を欠く低次の言葉だといえなくもない。しかし、言語がその抽象ちゅうしょう力をもって伝達し得る領域には限界がある。人間の言語は、しょせん万能ではないのだ。【0】
7. もし言語がこの世界のすべてを表現しつくせるものなら、言葉さえあれば何もかも理解できてしまうだろう。しかし、そうはいかない。そうはいかないからこそ、言葉ではいいあらわせない別の表現を人間は考え出してきたのだ。たとえば絵画であり音楽である。セザンヌの絵を、あるいはモーツアルトの音楽を言葉にそっくり置きかえるなどということができるであろうか。私はオノマトペを言語と音楽との接点として考える。それは人間の感性を音声そのものによって表現しようとする伝達の手段だからだ。したがって、擬声語ぎせいご擬態語ぎたいごはきわめて微妙びみょうな感性を表現し得るかわりに抽象ちゅうしょう性を欠き、普遍ふへん性を犠牲ぎせいにせざるを得ない。オノマトペはあくまで限られた言語、内輪の言葉という宿命をもつのである。

8.(森本哲郎てつろう『日本語 表と裏』の文章による)