長文集  7月2週  ★ただ、ひとつ留意しなくては(感)  yabi-07-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】ただ、ひとつ留意しなくてはならな
い点がある。母親語ときわめて似ていながら
非なるものとして、「赤ちゃんことば」とい
う現象が広く流布(るふ)しているからなの
だ。
 【2】赤ちゃんことばというのもまた、英
語からの翻訳で、原語はベビートークという
。最近では彼(か)の地で映画のタイトルに
もなり日本に紹介されたので、母親語よりも
はるかに知名度が高いことだろう。【3】例
えば日本語文化圏では、赤ちゃんは食べ物の
ことを指して「マンマ」と言うことが多い。
そして、自動車は「ブーブー」、犬は「ワン
ワン」となる。【4】もっとも赤ちゃんは外
的事物の区別にまだそれほど長(た)けてい
ないので、ブーブーは動く人工物全体を、ま
たヒト以外の動物すべてを指してワンワンで
総称することもしばしばである。
 【5】ところが、これら一群の単語は、お
となが赤ちゃんに向かって語りかける時にも
まったく同じ要領で使用される。おかあさん
は子どもに向かって、「ごはん食べる?」と
聞くかわりに「マンマ食べる?」と尋ねる。
【6】あるいは道を走っている車を指さし 
て、「ほら、ブーブーよ!」と教えている。
同一の女性がほかの成人に対して「マンマ食
べる?」とか「ブーブーよ!」と発言するこ
とはまず考えられないし、もし実際に起こっ
たとしたら、相手はとても奇異に受け取るこ
とは疑い得ない。【7】それゆえ、おとなの
使う赤ちゃんことばは明らかに赤ちゃんとの
語りかけに際して特異的に用いられ、赤ちゃ
んの言語使用の次元におとなが同調すること
で、双方の間の交流を促そうとする努力の現
われであるとみなすことができるだろう。
 【8】文化人類学者の川田順造氏によると
フランス語文化では、赤ちゃんことばはほと
んど聞かれないのだという。【9】わずかに
「ねんね」が「ドド」、「おっぱい」が「ロ
ロ」、「おしっこ」が「ピピ」、「うんち」
が「カカ」の四語とあといくつかが散見され
るだけで、それ以外には赤ちゃんに対しても
、おとなに対するのと大差ない言葉の用法を
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使用する。【0】ただそのフランスにおいて
すら、母親語は歴然として存在する。確かに
フランス人のおとな は、子どもに赤ちゃん
ことばを使うことはほとんどないかもしれな
いけれど、「小さな大人」に向けて、成人に
対するのと変わらぬ語りかけを行∵う場合で
すら、やはり口調の音は高くなり、また抑揚
は通常以上に誇張されていくことが、明らか
にされている。
 そもそもフランスでは子ども中心の家庭生
活を営みがちな日本語文化圏とは、かなり著
しい対照をなすことが多いようだ。たとえば
日本では、夫婦でも、子どもができるとお互
いに「おとうさん」「おかあさん」と呼び、
孫が生まれると「おじいちゃん」「おばあち
ゃん」と呼び方を変えてしまう。自分の妻が
なぜ「おばあちゃん」なのか、考えてみれば
奇妙な話であるはずなのに、親族内の一番下
の世代からみた人間関係の呼称形式にみんな
が従順につきあう。日本に生活している限り
、われわれはこれをごく当たり前のことと受
け止めているけれども、実際は決して普遍的
にヒトの社会に見られるということではない
。社会の中で子どもをどう位置づけるかとい
う価値判断によって、赤ちゃんことばの発達
の度合いは著しい多様性を示すことを、文化
人類学の調査は教えてくれている。
 単純に結論づけると、赤ちゃんことばの現
象は文化によって左右され、母親語は文化の
違いを問わず普遍的である。両者は次元を別
にしている。もちろん日本とフランスとの間
で子どものしつけ方は大幅に異なり、それぞ
れの文化圏で育った子どものパーソナリティ
に如実に反映されていくのだろう。赤ちゃん
ことばを採用した日本式のしつけ方は、当然
、日本文化で育つ子どもの性格形成に大きな
役割を果たしているに違いない。
 
(正高信男「〇歳児がことばを獲得するとき
」による)