ビワ の山 7 月 3 週 (5)
★ユージーン(感)   池新  
 【1】ユージーン(アメリカ、オレゴン州の町)は東京とちがって、街自体がそれほど大きくなく、生活のリズムがゆったりしているせいもあるだろう、見知らぬ人どうしでも、道ですれちがうと、「ハロー」とあいさつし、バス停に車椅子の乗客がいれば、乗り込むまであたりまえのように待っている。【2】ユージーンは、街のなかに障害者がいることで、人の流れが変わらない街だった。そして、障害者と自然にむきあう街だった。アパートを借りるとき管理人のバットさんは、家賃も含めて契約を説明したあとで、あなたが一人で住みやすいようにこちらで変えられるところは変えましょうと言った。【3】「障害者に理解を示す」というより、きわめてビジネスライクな対応だった。そこには、車椅子の一人暮しは危険という無言のメッセージはなく、アパートを貸す者と借りる者の「大人」と「大人」の関係があった。【4】むろん、日本で私が「大人」扱いされないわけではない。しかし車椅子を押す人が後ろにいるだけで、大人と子どものワンセットになってしまうこともある。
 【5】ところが、おもしろいことに、電動だと後ろに人がついていないから、セットにしようがない。いっしょに行く人がいても、その人は私の後ろではなく横を、並んで歩く。【6】このことは、私と人との関係を対等にする。このままかんたんに、電車やバスに乗れれば、その関係が途切れることもない。【7】それは、送れないからバスで行ってと、相手がさらりと言えることであり、その日の仕事を終えて、また明日、とあいさつして、右と左にわかれることができる、あるいは、明日は何時にどこそこでと約束し、その時間にその場所へ一人で行って帰ってくることができる、ただそれだけのことだったりする。【8】しかし、そのことが、私をどれほど自由にするかを、ユージーンの風は教えた。それはまた、道に迷って途方にくれることでも、人通りの絶えた暗い夜のバス停で、一人バスを待つ心細さを味わうことでも、電動のバッテリーが切れかけて、なんとかもってくれと念じながら、バス停からアパートまでの夜道を、こわごわ帰ることでもあった。
 【9】ついこのあいだ、イギリスの児童文学作家、ローズマリ・サトクリフの自伝、「思い出の青い丘」を読んだ。【0】スティル氏病で歩行の自由を失った子ども時代から細密画家を経て、歴史小説の作家になるまで、つまりは、「ほかの子どもにはできるある種のことが自分にはできないことが、観念的にしか理解されていない」子ども∵の時期から、障害のもつ社会的な意味、自分とふつうの人々とを隔てる微妙な壁に気づき、それが人生に与える影響、「孤独」を知るまでが、語られている。
 彼女の青春時代は第二次大戦の終結を境にしている。ふつうの人々は健常者の男性が障害者の女性に本気で恋をすることなど想像もできないこの時期に、彼女は一つの恋愛を経験する。両親は娘が傷つくことだけを恐れ、本人たちもまた無意識のうちに、恋を「恋」として直視するのを回避する。彼女は別離に終わった恋愛をふりかえり、もしそのころにいまのような、障害者も「ほかのだれかれと同じ感情的欲求」をもち、「それを実現する」こともできるという新しい見方に変化していれば、二人の関係は、変わっていただろうかと考える。そして、たとえ結果は同じだったにしても、たがいに自分の感情を外にだして、「自分たちの苦境に直面し、それを分かち合うことができていたらよかった」と記す。
 傷つこうが、自分の責任で「苦境に直面する」、それを彼女は「傷つけられる権利」と呼んだ。このサトクリフの言葉に、訳者は「目からうろこが落ちる」思いをしたという。しかし私は逆に、障害者はずっと同じ一つのことを主張してきたのだと思った。障害を一つの属性としてもつ人間を、人間としてまっすぐに見ると。彼女の言う権利を私なら、「経験を積み重ねてゆく自由を持つ権利」と呼ぶ。障害がこの自由をどれだけ阻むかは、その時代のその社会が、障害者をどう位置づけ、そのなかで人と人との関係をどうつくっているかで決まる。ユージーンの風は、そのことも私に教えた。

(青海恵子の文章による)