長文集  8月4週  ○この文章の著者は、  yabi-08-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/06/09 09:51:40
 この文章の著者は、幼いころ、父の言いつ
けを破って、ひどくしかられたことが三度あ
ったという。一度目は、外国人をもの珍しそ
うにじろじろ見るなという言いつけを破った
時、二度目は、家の人にことわりもなしによ
その家に行ってはいけないという言いつけを
破ったとき、そして、三度目が次の文章であ
る。
 もう一度は、大腸カタルを病んだ病み上が
りに、「こりゃあ道(みっ)ちゃん、とって
もわるいんだ。おいしそうに見えるけどね、
これを食べるとせっかくよくなったのにさ、
またおなか痛くなる よ。道(みっ)ちゃん
は痛くて苦しむし、パパとママは心配して寝
られないし。だから食べるんじゃないよ。」
と、かたく言われたその梅の木の実の青いの
を、これまた色彩のつややかな美しさにほだ
されて、つい取って食べたときだ。運わる 
く、梅の木は、彼が執筆する書斎の真正面に
植えられていた。
「パパがかいていらっしゃるときは邪魔する
んじゃなくってよ。パパは一生けんめいだか
らね。」
と母はつねづね言っていたし、実際、一生け
んめいに書くときの父がどんなに他のことに
対してうわのそらになるかを、私自身、たし
かめて知っていたから、梅の実を取るのも見
られまいと、たかをくくったのである。
 ところが、彼はちゃんと見ていた。今にし
て思えば、私の計算不足というもので、まっ
赤なメリンスがちらちら動けば、いくら一生
けんめい書いていても、視界にはそれが入る
はずであった。
 青い小さな球が口の中で、酸っぱいほろに
がさをキュッと押し出したそのとたん、ガラ
リと開いたガラス戸の向こうから、
 「ばか! 何をする!」
 雷がおちたかと思われる音声に、私はだら
しなく尻餅をついた。彼はなかなかのスポー
ツマンで、水泳は教師免許を持っていたし、
学生時代は「早稲田を負かした」ピッチャー
だった。だから走るのもたいへん速かった。
あっと言うまに、逃げる間もあらばこそ、彼
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ははだしで飛んで来て、私の口に乱暴に手を
突っ込むと青梅の実をひきずり出した。それ
から茶の間の方をむいて、「ママ! マ  
マ!」と叫んだ。
「ひまし油!」∵
 ひまし油が、拒もうとする歯と歯の間に流
し込まれて、その臭さに吐きそうになってい
る私は、容赦なくひきずられて、納戸の戸だ
なに押しこめられた。
「あれだけ言ってわからんやつは――座って
ろ。」
 いつもならひまし油の「お口なおし」のド
ロップが与えられるはずだった。しかしその
日はドロップはいくら待っても来なかった。
ぬるぬると、いくら唾をのんでも舌にまつわ
ってはなれない油に辟易しながら、私は何と
なくカビ臭い戸だなの中に座っていた。ネズ
ミ、出て来やしないかしら、お化け、いない
かしら……
 三度とも、考えてみれば約束違反であった

「わかったね。」
「うん。」
「どう、わかった? 言ってごらん。」
 そんなやりとりのあとで、約束違反したの
だから、まあしかたないと、私はらちもなく
悔いながら、しかし不思議にも何かせいせい
したさっぱりとした感じを心のどこかで味わ
いながら、罰を受け た。
 あのせいせいした感じは、いま、分析して
みれば、「罪」への正当な「贖(つぐな)い
」の機会を与えられた者の味わう一種の安堵
感でもあったろうか。その三度の罰のとき、
彼が意外に見せつけた権威はまた、私の幼く
漠(ばく)とした世界に、ひとつのはっきり
した線を引いて見せたとも言える。
「ここまで。ここから先はまだ。」
 その線は、子供心に信頼感を植えつけた。
安心感をも植えつけ た。
広がりすぎる自由は不安なものである。渺と
はてしない、枠なき世界は自由の世界とは異
なる。
「よし、立ってろ。」
 その言葉と罰とが私に、自由というものの
ほんとうの意味を教えたのではなかったかし
らと、今になって思うときがある。
(犬養道子「白樺(しらかば)派文士として
の犬養健」)