ビワ の山 9 月 2 週 (5)
★自分で判断し決断し行動する(感)   池新  
 【1】自分で判断し決断し行動する。簡単なようにみえて、じつはとてもむずかしい。われわれでも、ときとして判断に困り、大勢の意見に依存してしまうことも少なくない。しかも、そうしたほうが楽であることも、また事実である。【2】その判断が、かりにまちがっていても、自分自身に責任があるわけではない。まして、その責任を追求されることはない。その意味でも、自分自身で判断するより、はるかに気楽である。
 【3】したがって、主体的に判断して、行動したいという欲求をのぞけば、ともすれば他人や集団に依存して行動してしまいがちになる。おとなでもこんなことがよくあるとすれば、いまだ判断力に欠ける子どもたちの場合、どうしても他人依存になってしまう。【4】しかし、われわれが社会生活を送っていく以上、自分で考え、自分自身で判断しなければならないことは当然のことであり、ときには厳しい決断を迫られることも少なくない。
 それなくして、一般的な社会生活を送ることすら困難といっても過言ではない。【5】ところが、先ほども述べたように、こんな当然のことがなかなかできない。したがって、よほど意識的に教育していかなければ、他人依存になってしまう。【6】ところが、子どもたちを取りまく最近の教育状況は、これに逆行していることが少なくない。そのせいか、自分で判断できない、自己決定できない、したがって自分自身の指針をもたないまま行動してしまう子どもが多いという。
 【7】つまり、他人依存であり、集団依存であり、状況に支配されやすいといった傾向である。いや、他人依存や集団依存ならまだしも、自分がどう行動すればよいのか「指示」されるのをひたすら求め、その「指示」どおりにしか行動できない。【8】しかも、求めている「指示」は漠然としたものではない。ことこまかな行動指針でないと、かえって混乱してしまう。まさに、「指示まち」であり、「マニュアル願望」である。【9】その意味では、もはや自分で判断できない、決断できないといった問題ではない。優柔不断といったレヴェルではなく、自分自身の判断や決断を、最初から放棄しているといってもよい。
 こんな状態であっても、子どもの場合であれば、まだ可能性はあ∵る。【0】しかし、このことは、大学生にもそのまま当てはまる。あるいは、新卒の社会人も同じかもしれない。「指示」しなければ、「マニュアル」を与えなければ、なにもできない。最近、よく耳にする言葉である。うちの学生をみていても、このことはよく感じる。たとえば、「レポートのテーマは自由」というと、明らかに困惑している。
 このことを研究室の学生にきいてみても、テーマは自由というのはかえって困る。なにかテーマがあったほうが書きやすいという。たしかにそうかもしれないが、それより自分でテーマをみつけるということが苦手らしい。事実、なんらかの課題を与えれば、かれらはそれなりの仕事をする。ひょっとしたら、「テーマが自由」の場合、レポートを書いている時間より、テーマを探している時間のほうが長いのかもしれない。
 むろん、こうしたことはレポートのテーマだけではない。一事が万事こうした状態である。そして、いまの学生はたんなる「指示」を求めているのではなく、「テーマ化された指示」を求めていることもまちがいない。つまり、かれらは自分で考え、判断し、決断するといった作業に慣れていないといってよい。

(秦政春の文章による)