長文集  10月3週  ★ある朝、私は一冊の(感)  yu-10-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】ある朝、私は一冊の本と、ひときれ
のパンをポケットに入れて家を出て、気の向
くままに歩いて行った。少年時代にいつもそ
うしたように、私はまず家の裏の庭へ入った
。そこにはまだ日が当たっていなかった。【
2】父が植えたモミの木立、私がまだほんの
幼い、細い若木だったのを覚えているモミの
木立ががっしりと高くそびえ、その下には淡
(たん)褐色の針葉が積もっていた。【3】
そこには数年来ツルニチニチソウのほかは何
も育とうとしなかっ た。が、そのかたわら
の細長い縁どり花壇には、母の植えた宿根草
が生えていて、豊かに、楽しげに花をつけて
いた。
 【4】休日のくつろいだ気分で、私は花か
ら花へと歩き、あちらこちらで芳香を放つ散
形花の匂いをかいだり、指先で注意深くひと
つの花のがくを開いてのぞきこんで、神秘的
な白っぽい色のうてなと、花弁の脈や、めし
べや、やわらかい毛のあるおしべや、透きと
おった導管などの絶妙な配列を観察したりし
た。【5】そのあいだに私は雲の多い朝の空
を眺めた。そこには、細い綿となってたなび
く霧と、羊毛のようにふわふわした小さなう
ろこ雲が、奇妙に入り乱れて広がっていた…
…。
 不思議な、あるひそかな不安を感じながら
、私は少年時代に喜びを味わった、なじみの
場所を見まわした。【6】小さな庭や、花で
飾られたバルコニーや、湿った、日の当たら
ない、敷石が苔で緑色になった中庭が私を見
つめた。それらは、昔とは違った顔をしてい
た。花たちさえもつきることのないその魅力
をいくぶんか失っていた。【7】庭の隅に古
い水桶が水道の栓とともにひっそりとそっけ
なく立っていた。そこで昔、私は木の水車を
とりつけ、半日ものあいだ水を出しっぱなし
にして、父を悩ましたものだった。路上にダ
ムや運河を築いて、大洪水を起こしたのであ
る。【8】風雨にさらされたその水桶は、私
にとって忠実なお気に入りで、気晴らしの相
手であった。それを見つめていると、あの子
どもの頃の喜びの余韻さえパッと心に浮かん
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でくるのであった。が、それは悲しい味がし
た。【9】その水桶はもう泉でもなく、大河
でもなく、ナイアガラの滝でもなかった。∵
 物思いにふけりながら、私は垣根をよじ登
って越えた。一輪の青いヒルガオの花が、私
の顔にかるく触れた。私はそれを摘みとって
口にくわえた。【0】そのとき私は、散歩を
して、山の上から町を見下ろしてみようと心
に決めていた。散歩をするのも、本当に楽し
い企てではなかった。以前ならば、決して思
いつくことなどなかっただろう。少年は散歩
などしない。少年は、森へ行くなら盗賊か、
騎士になって行く。川へ行くなら筏乗りか、
漁師か、あるいは水車作りになって行く。草
原へ走るのは、蝶の採集かトカゲ捕りに行く
のだ。こうして私の散歩は、自分が何をした
らよいかわからない大人の、上品だが少々退
屈な行為のように思われた。
 青いヒルガオはまもなくしぼんで投げ捨て
られた。そして今度はもぎ取ったブナの小枝
をかじった。苦い、香ばしい味がした。高い
エニシダの生えている鉄道の土手のところで
一匹のみどり色のトカゲが私の足もとを走っ
て逃げた。すると、また私の心に少年の気持
ちがふっと目覚めた。私はじっとしていられ
ず、走ったり、しのび寄ったり、待ちぶせし
たりして、ついに日に当たって温かなおくび
ょうなトカゲを両手に捕らえた。私はその光
沢のある、小さな宝石のような眼をのぞきこ
み、少年のころの狩りの楽しみの余韻を味わ
いながら、そのしなやかで力強いからだと固
い足が私の指のあいだで抵抗し、突っ張るの
を感じた。だがそれからよろこびは消えてし
まった。捕まえた動物をどうしたらよいのか
まったく分からなくなった。どうすることも
できなかった。それを持っていてももう幸福
感はなかった。私は地面にかがみこんで、手
を開いた。トカゲは一瞬おどろいて、横腹を
はげしく息づかせながらじっとしていたが、
それからわき目もふらずに草の中へ姿を消し
た。汽車が輝く鉄路を走って来て、私のそば
を通り過ぎた。それを見送った私は、一瞬非
常にはっきりと、ここではもう私の本当のよ
ろこびが花咲くことはないと感じた。そして
あの列車に乗って世の中へ出て行きたいと、
心の底から思った。
 (ヘルマン・ヘッセ作 フォルカー・ミヒ
ェルス 編 岡田()朝)