長文集  1月3週  ★一流ホテルの、いかにも(感)  yube-01-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】一流ホテルの、いかにも「一流でご
ざい」というロビー に、たいていこうした
男女の一群がたむろしているのは、そうでな
いとどうしていいかわからない客がいると考
え、ホテル側があらかじめそれ専門の「仕出
し屋」に頼んで用意しておく場合が多いから
である。【2】当然、経費もかかるが、ロビ
ーを利用する客にランクの最上位にある「待
ちあわせ場所」としてふさわしい体験をして
もらうことはホテル側としても望ましいこと
であるし、これにはちょっとした教育効果も
ある。【3】つまり、彼等があまり傍若無人
な振る舞いに及ぶと、ボーイが近づいて行っ
て「周囲のお客様が迷惑をいたしますから」
と、それとなく注意をするのを見かけるであ
ろう。あれは、そうすることによって「周囲
の客」の方が、「ははあ、ホテルのロビーで
あんなことをしてはいけないんだな」と学ぶ
ことを、期待しているのである。
 【4】もちろん、くり返しそこで待ちあわ
せをし経験を積むと、もう、そうした騒がし
い男女の一群がかたわらにいなくとも、何と
かそれらしくそこに座っていられるようにな
る。【5】しかし、ホテルのロビーは、奥が
深い。ある日、彼もしくは彼女は、近くに座
っていた若い女性がちらりと指をあげ寄って
きたボーイに「お手洗いはどちら」と聞き、
「あのエレベーターの奥にございます」と言
わせてから、「ありがとう」とハンドバッグ
を持って立ち上がるのを見る。【6】「なる
ほど、そうなんだ」というわけだ。なぜな 
ら、それまで彼もしくは彼女は、自ら立って
ボーイに近づき、時には向こうに行くボーイ
に走って追いつき、「ねえ、トイレはどこ」
と聞いていたからである。
 【7】ホテルのロビーでは「ボーイにむこ
うからやって来させ る」のでなければいけ
ない。それが一流ホテルのロビーを利用す 
る、一流の客のやり方なのだ。そこで、次の
日から早速これを試みることになるのだが、
簡単なようでこれがなかなかできない。【8
】指をちらりと持ち上げた程度では、ボーイ
なんか来てくれやしないのだ。しかし、飲み
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屋でおねえちゃんに焼き鳥を頼むのではない
から、「おーい」と叫んだり、パチパチと手
をたたいたりするわけにはいかない。【9】
ロビーに入ってきた時に、あらかじめボーイ
に注目させておき、その一挙手一投足に意味
を持たせておいて、タイミングよくちらりと
やらないと、これは空を切る。
 ただし、難しいだけにこれが成功した時の
感動は、えも言われな∵い。【0】ホテルの
ロビーにいることの、奥儀(おうぎ)に達し
たのだという気がするのである。そして、教
えられた通りトイレに入って、洗った手をぬ
ぐいながら出てくると、そこに、くだんのボ
ーイが立っている。「お客さま」と、彼が言
うのである。「お客さまこそ、ホテルのロビ
ーを利用なさるにふさわしい方とお見受けい
たしました。ついては明日より、失礼ながら
日当をお払い致しますので、当ホテルのため
にロビーに座っていただけませんでしょう 
か。他の、まだホテルのロビーになれないお
客さまのための、模範になっていただきたい
と存じますので……」
 つまり、ホテルのロビーにいる「どうしよ
うもない田舎者」と、「これこそが都会人」
と思えるものは、双方ともホテル側の「雇わ
れ」なのだ。その間をキョロキョロしながら
うろつきそれぞれから何ごとかを学ぼうとし
ているのが、本来の客ということになる。も
ちろん、学び終わって「田舎者」度がすっか
り払い落とされると、ボーイがやってきて雇
ってくれる。

(別役実『都市の鑑賞法』による)